呪胎

タカハシU太

呪胎

 リビングの窓際に、白いスクールソックスを履いた女の両足が宙に浮き、ゆらゆらとぶら下がっていた。なぜ、こんなところに?

 私はハッと目を覚ました。窓際には誰もいない。ソファでうたた寝をしていたらしい。

 部屋の中央へ視線を戻すと、夫がスーツ姿のまま、優しくほほ笑みながら見下ろしていた。

「お帰りなさい! 気づかなくて……」

「ひどくうなされてたよ」

「悪い夢でも見てたのかな。すぐにご飯のしたくするね」

 慌てて立ち上がろうとする私を夫は手で制し、ひざまずいてきた。そして、私のお腹にそっと手を触れた。

「ただいま。いい子にしてたかい?」

 お腹は妊娠二十週目の手前くらいで、まだそれほど目立たない。

「今日ね、健診に行ってきたの。性別、教えてもらったよ。どっちでしょう?」

「女の子だな」

 自信満々に正解を当てた夫は、隣に腰を下ろしてきた。

「思ったとおりだ。名前も考えたんだよ。雅子ってのはどうだ?」

 今どき珍しい、古風な名前だ。

「私もいろいろ考えてみようかな」

「いや、雅子がいい」

 夫の断定的な物言いに戸惑ったが、ひとまず、名前のことは後にしよう。

「とにかく健康なら。あと、私に似て美人になるといいな……なーんて」

「妹に似るかもな」

 夫に妹がいるなんて初耳だ。親族がいないからと、結婚式も挙げなかったのだ。

「中学生で死んだんだ」

 私は夫の手を握りしめた。

「妹さんのこと、どうして教えてくれなかったの?」

「自殺でさ。そこで首を吊ってた」

 夫が指差す窓際へ振り返った。白いスクールソックスを履いた両足、制服姿の下半身がゆらゆらと揺れて、ぶら下がっている。

 私は瞬時に顔を背けた。だけど、恐る恐る見直すと、何も存在していなかった。

 キッチンから夫がミネラルウォーターのペットボトルを持って戻ってきた。受け取った私は落ち着こうと、ひと口飲んだ。

 夫は一冊の使い古したノートを手にしていた。

「妹……雅子はクラスメートたちにいじめられてたんだ」

 雅子? その名前って、さっき……。

「雅子は俺と三つ違いだから、君と同い歳だ。そういえば、君も桜中学だから知ってるんじゃないかな? 両親が離婚する前のウチの苗字はミタライ」

「ミタライ……?」

「おてあらいと漢字で書いてミタライ。雅子は便所女、クソビッチってあだ名で、いつもひどいことをされていた」

 夫がノートを開いた。

「これは雅子の日記だ」

 夫は中身を読み始めた。

「五月二十一日、トイレの個室にいたら上からホースの水をかけられた」

 いきなりローテーブルの上のペットボトルが倒れて、水がこぼれた。私は慌ててボトルを立て直し、立ち上がってティッシュを取ると、テーブルを拭いた。

「六月二日、椅子に画びょうを置かれた」

 腰を下ろした瞬間、激しい痛みで飛び上がった。お尻をさすると、手に血が付着していた。しかし、臀部に異常はない。

「六月十三日、ゴキブリを食べさせられた」

 私はうめいて、口を押えた。口の中に指を入れて取り出すと、それはゴキブリの死体だった。ペットボトルの水を飲もうとするが、中身は赤茶色に変色していた。

 夫は淡々とページをめくり続けた。

「七月二十二日、知らない男の人と無理やりさせられた」

 そこでようやく、震える私を見返してきた。

「何か思い当たることでもあるのかい?」

「まさか……どうして……」

「そうそう、あの時のみんなはどうしてる? ここに名前のある……今日子って子は?」

 懐かしい名前。

「今日子は……旦那に不倫がばれて離婚して、家も職も失ったって聞いた」

「満里奈は?」

「……酔っぱらって帰る途中に、階段から転落して亡くなった」

「佳世は?」

「……たしかホストに入れあげて借金を返せなくなって、うわさでは風俗で働いてるとか」

「みんな、不幸だな」

「全部、あなたが仕組んだの?」

「そんなわけないだろう? 運命だったんだよ」

「ウソよ! 私にはどんな復讐をするつもり?」

 夫はほほ笑みながら背もたれにのけぞり、天井を見上げた。

「復讐か……。そのつもりだった。だけど今は違う」

「じゃあ、何がしたいの! ねえ、言って! 罪ならつぐなうから!」

 すがりつく私を、夫は払いのけた。

「安心しろ。君は役目を果たした」

「役目? うっ……」

 激痛が走った。私はお腹を押さえ、床にへたり込んだ。

「痛い……痛い、痛い、痛い!」

 もがく私を、夫は無表情で見下ろしていた。

「救急車、お願い……早く!」

 私がすがるように手を差しだしても、夫は微動だにしない。私のお腹がどんどん膨れ上がっていく。

「どういうこと! まだでしょ! あなた、助けて!」

 私はあおむけになり、のたうち回った。

「ダメ……何か出てくる! 待って! ああっ!」

 全身が痙攣し、硬直し、次の瞬間、ぐったりとなった。

 私は横たわったまま、朦朧とした意識で見上げた。夫が満面の笑みを浮かべて、一方を見ている。その視線の先には、女子学生の制服を着て立っている女の後ろ姿があった。

「雅子……やっと会えたね」

 その女がゆっくりと振り返った。驚愕する私の顔面に、その女の手がわしづかみにしてきた。

 この世のものとは思えない咆哮が響き渡る……。

               (了)

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