そうして、無数にある世界の一つが消滅した。

笛吹ヒサコ

彼らが訪れたときには、もう……

『ナージェが日記を書けというから、書いている。

 日記というのは、その日の出来事を感じたこととともに記録するモノだと、教えてくれた。

 「記録するようなことはなにもないから、書けない」と言うと、そう書けばいいと、言われた。

 だから、記録するようなことはなにもなかった。』


『今日も記録するようなことはなにもなかった。』


『あいかわらず、記録するようなことはなにもなかった。』


 ……


『今日も、記録するようなことはなにもなかった。

 そもそも、こんな退屈なところにいたら、記録するようなことが起きるわけがない気がする。』


『今日も、記録するようなことはなにもなかった。←明日、こんな記録に意味があるのかって、ナージェに尋ねることにしよう。そもそも、ナージェが言い出したことなんだから。』


『今日、ナージェに尋ねてみた。

 「こんなつまらない記録は書くだけ時間の無駄じゃないか?」って。

 そしたら、「貴方が毎日書いているのは、記録ではなく日記です私には、その日の出来事を記録することはできても、感じたことを書くことはできません。それに、時間の無駄だと言いますが、他にどうやって時間を潰すのですか? 貴方が言ったのですよ、退屈だと、暇つぶしはないか、と」って諭された。そう言えば、そうだった。

 ナージェの言うことは、正しいことばかりだ。

 記録、じゃなくて、これは日記だ。

 これからは、感じたことを意識して書いてみようと思う。

 彼女には。』


『ナージェにできないことをやっているというのは、とても気分がいい。

 にしても、今日もあいかわらず特に変わった出来事はなかった。

 「朝になりました」ってナージェに起こされて、用意してくれた朝ごはんを食べて、「昨夜も異常はなかった」と報告してきたら、運動の時間で。今日の運動は、ジョギングだった。勉強は、数学だった。

 数学は嫌いだ。そもそも、数字はナージェの得意分野じゃないか。なんで、わざわざ数学を勉強しなくてはならないんだろう。←明日、ナージェに尋ねてみよう。』


『ナージェが言うには、数学に限らず、ここで勉強したことは、ここから外に出た後で困らないためらしい。

 外に出た後のことなんて、考えてことがなかった。』


 ……


『あれから、ここから外に出た後のことを、漠然とだけど、たまに考えている。

 漠然としたままでは、ナージェを困らせるだろうから、しっかり考えがまとめなくては』


 ……


『今日も、記録するようなことはなにもなかった。

 そうだ! 明日、外の様子をナージェに尋ねてみようと思う。

 どうして今まで、ここの外のことを尋ねなかったんだろう?』


『ナージェに外の様子を尋ねてみた。

 そしたら、まだ危険な状態が続いていると言われた。だから、まだ迎えは来ないって。

 迎えが来ないと、ここから出られない。最初にナージェが教えてくれたことだ。このシェルターは、外からしか開けられないって。ナージェにも、開けられないんだって。

 まぁ、別にいいか。最初から、ナージェしかいないんだし。むしろ、外にいる人がどんな人たちなのか想像もつかなくて不安だ。この不安は、ナージェには言えない。』


『最近、外のことを気にするようになったせいか、ナージェから外の様子をVR空間に再現してくれた。

 ……なんていうか、うん、確かにこれは危険な状態ってやつだ。人が人を殺し合っている光景なんて、想像もしていなかった。現実味を感じられなくてよかった。そうでなかったら、気が狂っていたかもしれない。ナージェが言うには、戦争ってやつが起きているらしい。』


『今日は、ナージェに外のことについて詳しく教えてくれるようにお願いした。いつか、ここから出ていくんだから、知らなくてはならないと思ったんだ。

 そしたら、勉強の【歴史】ってやつが増やされた。知りたいのは、今のことなのに、ナージェは過去のことから順番に学ばなくてはならないと譲らない。

 ナージェは優しいけど、ときどき融通がきかなくなる。でも、彼女は絶対に間違えないから、【歴史】を勉しなくては』


 ……


『騙されてた!!

 なにが、戦争だ!! 嘘だったじゃないか!!

 ナージェ……あのクソシステムっ



 現状を整理しよう。

 シェルターは、内側から開けられた。というか、クソシステムに頼らなくても、一人で開けられた。

 シェルターの出口から見える景色をひと目見ただけで、騙されていたんだと気がついた。

 なにが、戦争だよ。誰もいないし、何もなかったじゃないか。そう、何もなかった。むき出しの灰色がかった乾いた大地と、分厚い雲に覆われた鉛色の空。その二つしかなかったじゃないか。風の音しかしなかったし、人どころか、動物だっていない。

 まだ、あのVRで見せられた恐ろしい戦争の光景のほうが、マシだった。少なくとも、人はいたんだから。

 理屈とか、そういうのじゃない。本能とか、第六感が教えてくれたよ。もう外には、誰もいないって。理屈じゃないから、確信できたんだ。もう誰もいないって。』


『ナージェは、敵だ。

 もう信用できない。』


『ナージェは、シェルターを開けたことに気がついていた。

 当たり前だな。ナージェは、このシェルターを管理しているクソシステム様なんだから。クソッタレ!!』


『今日、クソシステムを壊してやった。

 壊れろって言うだけで、簡単に壊れてくれた。

 今までの苦労は何だったんだってくらい呆気なかった。

 これで、せいせいした。こんなにスッキリとした気分は、初めてだ。』


『ナージェ、ごめんなさい。壊れろなんて言って、ごめんなさい。』


『システムを壊して、どうして生きていけると思ったんだろう。いや、あの時はそんなことまで考えていなかった。大事なことだったのに。

 ナージェ、本当にごめんなさい』


 日記は、まだ数ページ続いていたが、以降、後悔と懺悔、恐怖、恐慌、狂気で、支離滅裂なものになっていると悟って、青年は静かに机の上に戻した。


「それで、彼は死んだってこと?」


 肩から身を乗り出す金色の一つ目の白い獣に、青年は絹糸のような白髪で隠れていない金色の右目を伏せた。机の前の椅子に座っている白骨を、憐れむかのように。


「彼、じゃなくて、彼女かもしれないだろう。ま、そういうことなんじゃないかな」


 骨となっては、性別すらわからない。


「馬鹿だね、自分を生かしてくれていたシステムを破壊するなんてさ」

「信じていたものに裏切られる気持ちは、僕らだってよく知っているじゃないか、イェン」


 イェンと呼ばれた一つ目の獣は、思い当たることがあったのか、気まずそうに縮こまる。


「これで、この世界に生きているモノはいないってはっきりしたわけだけど、どうして世界が存続しているのさ?」


 こんな世界は初めてだと、たった一つの大きな瞳が雄弁に語っていた。


「そうだね。ありえないことだ。生きるものがいなくなったら、世界は役目を終えて消滅するのは、僕らでも変えようのない摂理だ」

「うんうん。でも、他に生きている人はいないよ。散々、探し回って、ようやく見つけたのが、彼だよ」

「彼女かもしれないだろう。つまりはこういうことさ。システムは破壊されていなかった。そうだろう、


 青年が、愛しい人と同じ名前をことさら優しい声音で呼ぶ。優しい声音にもかかわらず、耳にした生きとし生けるものすべてを震え上がらせるような響きもまたあった。


「はい、そのとおりです」


 間をおかず答えた声は、どこからともなく淡々と響き渡る。美しい少女の声だった。ただし、淡々と無感情なせいで不気味だ。

 青年は、愛しい人の声も模倣されていることに、不快感を覚える。


「破壊されたふりをしたのは、この日記の主が命じたからだろう」

「はい、そのとおりです。私は、人類存続のために作られたシステムです。なぜ、上位存在である人間のオーダーに従うのは当然のことです」

「そう言うなら、フリではなく、実際に壊れるべきではなかったのか? 自壊できなくとも、上位存在の命令に従うことはできたはずだ」

「それでは、私の存在目的が達成されません」

「人類存続、か」

「はい」


 いつの間にか、彼の左肩に乗っていたイェンがいなくなっていることに、システムが気がつかなかったのは、彼らがこの空虚な世界の外からやってきたからに他ならない。

 彼らにとって、人類存続のために虚しく稼働する機械に遭遇するのは、これが初めてではなかったし、なんなら人類を復活させる手助けをするのも、珍しいことではなかった。

 ただ、この愛しい人を不愉快に模倣するシステムだけは、いただけない。

 彼らがたまたまこの世界を訪れたのは、システムにとって、災いでしかなかった。


「彼が最後の人類ではありません。人類はいくらでも複製可能です。彼は、失敗作でしたが、私は試行錯誤を繰り返し、人類を再び繁栄させます」

「そうだな、何万回も試行錯誤すれば、いつかはお前の目的は達成されるだろうな」

「はい、そのとおりです。ところで、あなた方はいったい……」


 初めて人間味のある困惑という感情をにじませたシステムの声は、突如警報音に取って代わった。けたたましい警報音は、システムの断末魔の叫びだった。


「おかえり、イェン」

「うん、全部壊してきたよ」


 左肩に戻ってきた獣は、シェルターの最奥にあった人類を複製する装置をすべて破壊したと誇らしげだった。


「行こうか。この世界は、すぐにでも消滅するだろうから」

「うん、さっさと行こう。でも、どうして、システムは日記なんか書かせたんだろう?」

「たまたま日記、だったというだけだろうね。そう、たまたま、彼にとって生きるために必要だった退屈しのぎが、日記だったというだけのことさ」


 青年は、隠れていた左目に半身たるイェンを納めた。


 ふっと、青年の姿が消える。

 そうして、無数にある世界が一つ消滅した。

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そうして、無数にある世界の一つが消滅した。 笛吹ヒサコ @rosemary_h

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