あの絵の港 🚢
上月くるを
あの絵の港 🚢
関西に住む息子が「おふくろ、そろそろ……」と言って来た、それもメールで。
どうせお嫁ちゃんにせっつかれたのだろう、むかしから意気地なしなんだから。
「そうね、考えてみるよ」と返信したが、むろん、その気はこれっぽっちもない。
親子とはいえど、ひとの人生に踏み入って来るなんて、恥を知りなさいよ、恥を。
冗談じゃない、この歳で免許返上だなんて、早く死ねと言わんばかりじゃないか。
運転免許証1枚に食わせてもらい、大学まで出してもらったこと、忘れたんかい?
🚘
心ならずも女性タクシー運転手のハシリになったのは、夫が急逝したからだった。
母や姉には「そんな仕事」と言われたが、資格もない主婦にほかに道はなかった。
それに、みんな軽く見くびっているが、二種免だって簡単に取れるものじゃない。
停止線と路肩から10センチにピタッと停止する技、あんたらに出来るんかい?
いろいろな境遇で二種を取りに来ている仲間の方が、よっぽどあったかかったね。
なにも言わずとも傷みを分かち合える、いい人たちだったな~。(´;ω;`)ウッ…
🍃
ああ、さんざんに乗ったさ、いやというほどね。🚗
主に市内だったけど、たまには長距離もあった。🌞
タクシードライバー同士で語り草にしているのは陸奥のとある県への旅だったよ。
父親が危篤だから飛ばしてくれと言われて、深夜の国道を80キロで突っ走った。
まだ高速道路が開通していないころだったから、峠道はS字カーブの連続でさあ。
ハンドルを右へきり左へきり、ライトを上向きにしても先が見えず、往生したよ。
おかげで臨終に間に合ったと涙ながらに言ってもらったときは感無量だったね。
仕事とはいえど人助けに参加できたような気持ちで、満ち足りて帰って来たよ。
ああ、ずっとゴールドさ。✨
プロだから当たり前だろ。🙆♀️
かあさん、こう見えて、ひとたび制服を着たら、ピシッと仕事人に徹するからね。
自分にも人さまにも一分の隙も見せないし、まして交通違反なんてあり得ないよ。
🏢
もしかしたら、おまえたちには話してなかったかも知れないけど(どうせ心配するだろうから)個人タクシー営業を経てリタイア後は、趣味で運転を楽しんでいるよ。
ほら、かあさん、レキジョじゃない?👘
え、初めて聞く? そりゃないだろ。🙉
ま、いいか、息子なんてそんなものだろうし……客待ちの車内で吉川英治さんとか司馬遼太郎さんとかの本を読んでいるうちに、すっかり歴史好きになっちまってさ。
源平争乱、鎌倉幕府の崩壊、関ヶ原など史跡を訪ねてみたいとずっと思っていた。
で、沖縄から北海道まで、気の向くままに日本各地を車でまわっているんだよね。
ただひとつ残してある四国は、もうひとつの夢であるお遍路用にとってあるのさ。
でも、かあさん持病があるだろ、路傍で倒れたらおまえたちに迷惑だものね。💦
🖼️
それより、かあさん、どうしても行ってみたい場所があるんだよね。(≧▽≦)
おそらくだけどね、日本海側の鄙びた漁師町の、名もないちっぽけな港……。
それは、いつだったか夜勤明けに市立美術館で観た1枚の日本画の風景なのさ。
え、かあさんが絵が好きだったことも初耳? ま、いいよ、そんなもんだろう。
50号ぐらいの作品だったと思うけど、聞いたこともない画家の絵だった……。
寂びれた漁港の岸壁で、幼い娘の手を引いた若い母親が、沖を眺めているのさ。
ネッカチーフって覚えているかい? はるかむかしに流行った女性の防寒具だよ。
母親はその真っ赤なネッカチーフで髪を包んでいるんだけど、海風がひどいのさ。
凍えそうな母と子のうしろすがたに、かあさん、ずっしんと撃たれちまってさ。
大げさに言えば「原風景」っていうの? あれになっちまったのさ、その絵が。
運転のウデが鈍らないうちに、あの港に行ってみたいけど、まあ、無理だろうね。
どこのだれとも知らない画家が描いた、たぶんに心象風景の要素が濃い岸壁……。
🧣
いいんだよ、いまさら湿っぽくならなくても、かあさんは十分に幸せなんだから。
おまえはおまえの人生を精いっぱい輝かせるんだよ、愛するお嫁ちゃんと一緒に。
そうだね、いまの車、そろそろ20万キロになるから、新車に買い換えようかね。
あの絵の港にふさわしい車体と言ったら、それはメタリックブルーでしょう!🚙
おそらく人生最後になる車で、かあさんの『ドライブ・マイ・カー』を楽しむよ。
そうしてから、空で待っていてくれるとうさんとあの子のところへ行くよ。👨🦰🐶
あの絵の港 🚢 上月くるを @kurutan
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