檸檬の告白

藤咲 沙久

○月✕日△曜日(晴)


“ 物書きというのは、人に見せないものを書くときも、ついつい「見せる文章」を書いてしまう。例えば、まさに今だ。自分以外読むはずのない日記で何を気取っているのだろうか。しかし、こうでないと言葉を綴れないのだ。困った性分である。

 これでは所謂ブログではないかと思うが、今時の若人からすればそれすら古いのかもしれない。まだおじさんとは呼ばれたくないのに、私もそれなりに年を取ったということか。


 早々に話が逸れていくのは私の悪い癖だ。これは日記なのだから、何か日々の記録をしなくては。そもそも日記なんていう過剰かつ無報酬の労働しっぴつを始めたのには理由がある。私の担当編集者Mが言い出したのだ。


「あら先生、また出来事メモを失くされたんですか? 先生は日常で体感したことをネタにしがちなんですから、ちゃんと纏めて管理するか、ネタ帳の方へ書き込んでくださいよ。え、それとは分けておきたいですって? あら先生、それなら日記でもお付けになったらいかがです」


 鉤括弧まで出てきては、いよいよ小説じみてきたな。まったく小説家というのは難儀な職業だ。ともかく、こうした経緯で私はペンを執った。ちなみに「あら先生」というのは彼女の口癖であって、決して私の名前が「あら」なのではない。

 さて、何を書こうか。考えつくことといえば、失くしたばかりのメモたちについてだ。あれには街で見かけた、恋愛小説に使えそうな若者たちの会話を書きなぐっていた。残念ながら暗記はしていない。しかしそうだ、檸檬。そこには檸檬があった。だから私はラブストーリーを書こうと思っていたのだ。


 私が秘める恋の思い出には、いつも檸檬があった。良くも悪くも、私にとって恋と檸檬は切り離せない関係である。

 何を隠そう現在私の心を掴んで(振り回して)いる女性もまた、檸檬を思わせる。春になると檸檬色の鮮やかなカーディガンを着る人。もはや風物詩。私は密かに、彼女を檸檬の君と呼んでいた。


 恋と檸檬がいかにして結び付いたのか、どうせならそこまで振り返っておこう。なに、そうするうちメモの内容を思い出せるかもしれないじゃないか。

 もしこれが本当に小説ならば、三十も半ばを過ぎた男の恋愛譚など、読むに耐えないと思われるかもしれない。だがこれはただの日記だ。構わないだろう、何を書こうと読むのは私だけなのだから。


 始まりは小さな子供の頃だ。人生で初めて檸檬味の飴を舐めた。すっぱさに思わず目を瞑ったその時、からかうような軽さで幼い私の唇は奪われた。犯人は近所に住む年上の女の子だった気がする。

 私にはそれが誰であったかより、その衝撃を受けた時の味が深く記憶に刻まれた。まさしくファーストキスは檸檬の味であった。あの日から檸檬は、私にとってときめきの象徴となった。


 檸檬と私の縁はまだ少し続く。

 もう少し成長した頃のうぶな初恋、相手に想いを告げた瞬間の私はレモネードを滴らせていた。どこぞの誰かが躓いて、人生の大勝負中だった私に頭から浴びせてくれたのだ。紙コップは見事私の頭の上へ。相手は腹を抱えて大笑いし、ついでのように振られてしまった。

 失恋はレモネードの味ということだ。


 さらには初めての──おっと、こんなことまで振り返る必要はないだろう。いくら日記と言ってもこれは恥ずかしい。ところで、こうして誤魔化すとどうしてか性的なエピソードだと思われるのは不思議な話だ。残念ながら諸君が想像するような経験ではないぞ(私は誰に向かって言っているのだ)。

 そうした紆余曲折もあり、私の中では恋と檸檬がいつも一緒であった。


 どうやらメモの内容はまだ思い出せそうにない。では檸檬の君の話でもしようか。彼女と出会ったのは春だった。先述の通り明るいカーディガンを羽織った彼女が、私の前に現れた。

 それは仕事の話をしに行った編集部でのこと。新しい面子だといって紹介された一人が檸檬の君である。


 十人が見れば四人は美人と答える匙加減の可憐さ。

 朗らかな笑顔で繰り出されるスパイシーな語り口。

 元気いっぱいゆえかビタミンカラーがよく似合う。


 仕事熱心な彼女の辛辣さに泣くこともあった。でも最後にはいつも私の小説を好きだと言ってくれた。そうしてまた春が来て、檸檬の君がカーディガンを着る。毎年それを繰り返す。苦楽を共にするごとに、より一層黄色が似合うように感じていった。

 つまりは年々、私の「好き」が増していることを指しているのではと思う。私は少しずつ少しずつ、檸檬の君へ心を傾けていく自分に気がついてしまった。


 高嶺の花という言葉があるが、檸檬の君はどちらかと言えば逆の存在だ。気安く、近く、親しすぎる。何より彼女は仕事仲間だった。私が想いを寄せているなどと夢にも思っていないだろう。大事な仲間だからこそ、驚かせたくはない。

 私にとって恋と檸檬は切り離せない関係である。だが、そこに幸せな実りは一度としてなかった。ときめきの象徴から名付けた「檸檬の君」。それは愛の印であると同時に、諦めの証でもあるということだ。


 この文章を書き連ねながら調べたのだが、どうやら檸檬には花言葉があるらしい。それは「心から誰かを恋しく想う」という。そういう意味では、私も檸檬のようなものか。

 内気な檸檬は、こんな日記の中でしか告白も語れないのだ。


 私が彼女に想いを告げるなんてこと、出来やしない。でも、もしも。かの文豪先生のように、アイラブユーに代わる言葉を私が持っているとするならば。カーディガンを着る檸檬の君へ掛ける言葉は……


 ──綺麗な檸檬色ですね


 この一言に尽きるだろう。

 いやはや、これでは本当に小説だ。結局メモは思い出されず、おおよそ日記と呼べるものではなくなってしまった。さてまあ、今日の分はこの辺りにして、そろそろお茶にでもしようじゃないか。”









 男は完成したての原稿を持って、馴染みの喫茶店へやってきた。いつものテーブル席には先に女性が座っている。彼女は男に気づくと嬉しそうに微笑んだ。その足元で、春を思わせるハイヒールがコツンと鳴った。

「あら先生! お待ちしてましたよ。いつも遅筆の先生から、こんなに早く完成のご連絡を頂けて助かります」

「急ぎだと君が言ったんじゃないか、美作みまさか君。それと一言余計だよ」

 男の苦情をコーヒーカップと一緒にテーブルの端へと追いやると、女性は──美作はさっそく原稿に目を通し始めた。この瞬間、彼女は仕事熱心な編集者であり、いちファンでもある。その瞳はキラキラと輝いていた。

 用意したのは三千字程度の短い話だったため、男の注文が運ばれてくるまでには読み終えたようだった。

「いやあ、ありがとうございました。さすが先生。日記風のショート小説なんてムチャ振りしてしまいましたけど、ふふ、なんだか先生そのものだわ。本当の日記みたいですね」

 美作は満足そうに原稿用紙を整えると、封筒に仕舞いはせず笑顔のまま鞄から赤ペンを取り出した。さすがと褒めた口で手直しを求めてくるんだろ、と男は胸中で毒づくも、その表情は案外穏やかであった。

 まるで、二人で過ごす時間が延びることを喜ぶように。もちろん原稿は直されない方が嬉しいのだろうが。

「勘弁してくれないか。僕は無謀な片想いなんてしていないし、作家ではあれ詩人じゃない。こんな言葉を現実で言えやしないさ。ノンフィクション風のフィクションだよ。それが今回のテーマだろう?」

「あら先生。でも担当のMって、まるで私だわ」

「そこはもちろん君がモデルさ」

 軽口を叩き合いながらも美作の手はサラサラと書き込みを続けている。終わってからまとめて話すのが、彼らのスタイルだった。

「まあ先生はチラリと事実を混ぜるの得意ですものね。でも一瞬、ホントにいるのかと思いましたよ“檸檬の君”。ウチの編集部でいつも黄色のカーディガン着てる人、いたかなって」

「美作君も大概しつこいな。いたとしたら、こんな原稿気まずくって出せたもんじゃないだろう」

「あら先生、誌面での告白だなんて面白いじゃないですか。実際にやったら多少引くかもしれませんけど、それでも私、きっと先生なら素敵なラブレターにしてくれると思います。先生の書くお話はみんな好きですもの」

 甘くてからくて甘い、作家をおだてる悪い言葉だ。男が俯いて首の後ろを撫でていると、頼んでいた紅茶とレモンケーキが並べられた。甘酸っぱい香りが鼻をくすぐる。

 の主人公風に言うならば、きっと恋の匂いだろう。

「……僕には、綺麗な檸檬色だなんて言えないさ」

 紅茶を三口飲んでから、男が小さな声で呟いた。ペンの蓋を閉めた美作は再び原稿用紙を整え直して、優しい笑顔でそれを男の方へと向けた。

「なら先生。私が今履いてるこのハイヒール、とても綺麗で気に入っているんです。先生ご自身なら、これを何色と言ってくださいますか?」

 くすくす笑いと一緒に、テーブルの影からスッと脚が伸ばされる。春を思わせるハイヒールは鮮やかなのに派手過ぎず、爽やかで元気な色味だ。去年も一昨年も彼女の足を飾った、季節のトレードマーク。

 男は靴を見て、それから美作自身を見た。そして思う。自分がここで「檸檬色だ」と言えば、きっと主人公と同じ感性を笑ってくれるだろう。けれど普通に黄色と答えても美作は笑う。だって彼女は冗談を言っているのだから。そう、いつもと同じ軽口だ。

 男は唾を飲み込んだ。選択肢は少なく、どう返しても深い意味を持ち得ない。ならばどうするべきなのか、男は必死に考えた。

「僕は、僕なら、それを──……」

 唇が動き、空気に音を刻む。男の返答に美作は一度大きな瞬きをしてから、嬉しそうに微笑んだのだった。

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