二人だけに価値あるもの

古月

二人だけに価値あるもの

 きらめく剣光、散る火花。追いすがる殺気を払いのけ、馬鞭を打ってひた走る。新月の闇は敵か味方か。ざわめく木々はただの風か。疑心暗鬼は駿馬を以てしても振り切ることはできない。


 とうぎょうはいま、江湖のお尋ね者となっていた。


 お尋ね者と言っても、何か悪行を働いたわけではない。ただ本人も知らぬ間に厄介ごとに巻き込まれてしまっていた。


 発端は十数日前、とある英雄宴に出向いたことに始まる。江湖の英雄豪傑が集うと聞いて興味をひかれぬはずもなく、自身も江湖に名の知れた人物との自覚の薄いまま会場に赴いた。すると、そこで出会った偏屈な老人にいたく気に入られてしまったのだ。

 英雄宴を解散後も鄧曉はしばしその老人と同道した。各地の名勝を尋ね、銘酒を酌み交わして親睦を深めた。年齢の差こそあれど友情に世代の別はない。義兄弟と呼び合うまでさして時間もかからなかった。


 やがてそれぞれ別の道へ向かおうとした矢先のことだった。老人が急死した。高齢と病によるものだった。


「これを旱陽嶺かんようれいがくという娘に渡してほしい」


 いまわの際にそう言い残し、託されたのは一冊の書物。鄧曉は面倒ごとこそ嫌いだが人情には厚い。義兄の遺言ならばと二つ返事で答え、亡骸を葬儀屋に託して自身は一足先に旱陽嶺へ向かった。


 異変は翌日から起こった。なぜかは知らないが、そこかしこで預かった書物を奪おうとしてくる輩が現れたのだ。

 最初は偶然にも続けざまに盗賊に狙われたのだと思った。その次は過去の怨恨かと思った。だが三日もすればそうではないと気づくのに十分だった。

 皆、この書物を狙っている。


 廃廟を見つけ、馬を隠して潜り込んだ。追手は撒いたはずだから一晩は難をしのげるだろう。外套を脱いで布団代わりに床に敷く。


「いやぁ、大変なことになってるねぇ」

「……なんの用だ、若水じゃくすい。食料なら今はないぞ」


 いつの間にやら後ろに女が立っていた。鄧曉はこの女を知っている。なぜか自分を追い回し、隙あらば食事と命を狙おうとする狂人だ。


「なによ、私がいつでも食い意地張ってるみたいな言い方~」

焼餅シャオピンが一枚だけならある」

「わーい、いっただっきまぁ~す!」

 当たり前のように焼餅を受け取ってかぶりつく。三秒前の発言さえも忘れるのがこのしゃ若水という女だ。ついでに当たり前のように鄧曉を押しのけ外套の上に腰掛けている。


「それで、お前も俺が預かった例の品を狙ってきたのか」

「ん~? そふなはへはいへひょそんなわけないでしょ

「口に物を入れて話すな」

 もぐもぐ、ごっくん。

「私は煉日功れんじつこうなんか興味ないし」

「煉日功? それはきん成昊せいこうの武芸のことか。だがそれとこれと、どんな関係があるというんだ?」


 鄧曉が問うなり、謝若水は焼餅を食べる手を止め鄧曉を凝視した。この女の食事の手を止めさせたのは後にも先にもこの瞬間だけだろう。


「なにあんた、気付いてなかったの? あんたが英雄宴からずっと一緒にいたあのお爺さん、あれがその金成昊だったことに?」


 金成昊と彼が修めた煉日功について江湖に知らぬ者はいない。先ごろ金成昊が自身の誕生日に重大発表があると告知し、それが煉日功の後継者を選ぶことだとの与太話が出回って騒ぎになったのも有名な話だ。結局、その与太話の真実は若妻を迎えるというだけの話だったのだが。


「死に際に何か託されたのなら、それは煉日功の奥義書に違いないって話よ。そんなことも知らないままに逃げ回ってたの?」

 まさにその通りなのだが、この女にだけはそうだと答えるのが癪だった。なので鄧曉は無視した。

 謝若水は続ける。

「そんな面倒事、今すぐ火にくべて焼いちゃえばいいのに。もったいないと思うならあんたが今ここで読んじゃえばいいのに」

「バカなことを。それは義兄の遺志に反する。これを読んで良いのは旱陽嶺の岳姑娘グーニャンだけだ」


 謝若水は鄧曉を見、そして意味ありげな笑みを浮かべてから「へぇぇ~」などと言いながら横になった。鄧曉の外套の上に。

 鄧曉はその夜、埃っぽい床の上に直に寝る羽目になった。


 それから数日、旱陽嶺へ至る道にはこれまで以上の刺客が待ち伏せていた。鄧曉は真っ向からの衝突を避けて進もうとしたが、それでも回避できない部分はある。そのたびに剣を交えて切り抜け、とうとう旱陽嶺の金成昊邸にたどり着いた。


「やー、遅かったねぇ?」


 中に通されると、なぜか謝若水が先に来ていた。おそらくは金夫人岳氏だろう、謝若水よりも若く見える娘とお茶している。


「鄧さま、遠路はるばるようこそおいでくださいました。すでに主人のことは聞き及んでおります」

 歳の割にしっかりとした受け答えだ。謝若水とは大違いである。


「いまなにか、私に失礼なことを考えなかった?」

「そんなまさか」


 預かっていた書物を岳氏に渡す。岳氏はそれを開き、読み、そして微笑んだ。

「あの人は最期まで約束を守ってくれたのですね」

 そう言って岳氏はその書物を鄧曉と謝若水の前に差し出した。読めということだろう。二人は一緒になって覗き込んだ。


 そこに記されていたのは煉日功はおろか、武芸書ですらなかった。それは日記であった。どこそこにはどのような名所がある、どんな料理が上手い、この祭りは必見だ等々。

 そしてその都度、一人の娘との思い出が綴られていた。これでもかというノロケである。


「いずれは自分が先にこの世を去ることになる。だからこそ、二人で過ごした一日一日を大事にしたいと言ってこの日記をいつも付けていたのです。いつかこの世を去る日が来たら、自分の代わりに持っていてほしいと言って」


 それから岳氏は丁寧に鄧曉へ頭を下げて。


「この日記は夫婦の宝です。それをここまで届けていただき、感謝のしようもございません」

「いやぁ、いいのよそんなお礼なんてぇ~」

 なぜか謙遜する謝若水。お前なにもしてないだろ、との言葉を飲み込む鄧曉。


 複雑な気分だった。あれほどの困難を乗り越えて運んできた品が、ただの歳の差夫婦の睦言を記した日記帳だったとは。

 だがこうも思った。岳氏が言うように、これは二人にとって武芸書よりもずっと価値ある品なのであろうと。


「よければ聞かせていただけますか、あなたと金義兄との思い出を」


(完)

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