幸いの死を望む国

白原 糸

――生きて帰れぬ故郷へは

 ――生きて帰れぬ故郷へは。

 度重なる爆音にさらされまともに機能していない耳の奥で聞こえる声を払うように私は声を張り上げた。

 黒煙と土埃の立ち込める戦場でにしき御旗みはたを空高くかかげ、声を張り上げて味方を鼓舞こぶする。

 それが私のお役目でした。

 度重たびかさなる爆発よって黒煙に覆われ、前に走る味方が巻き上げた土埃つちぼこりで前が見えなくなろうとも、私は御旗を高く掲げ、味方を鼓舞し続けるのです。

 倒れる味方の体を踏みしだき、ただ、ひたすらに走る。そう。ただひたすらに走るのです。

「走れ! 終わりは近いぞ!」

 誰もが生きて帰ることを夢見ていました。生きて帰ることが最大の目的でした。その為に私たちはここに居るのです。

 旗は銃創じゅうそうでボロボロになり、時折ときおり、飛び散る味方の体の血や敵国の人間の血で染められました。

 それはほまれであることを、私達は何度も何度も言い聞かされて来ました。そうして生きて帰ってきた先輩軍人の笑顔を私は生涯、忘れることはないでしょう。

 ――だけど、此度こたびの戦争はどうにも可笑しいのです。

 勝って故郷へ帰る。それなのに、どうしてでしょう。

 日に日に疲弊ひへいし、減っていく味方の軍隊に、内々からは可笑しいと声が上がり始めてきました。大尉に問うても、大尉は青い顔をしたまま、言うのです。

能浦のうら少尉。このまま、軍務ぐんむまっとうしてくれ」

 何を聞いても大尉はそうしか言わないのでした。

 ――結果から申し上げれば、辛い勝利でした。全体の一割も満たぬ軍隊だけを残して、ようやく私たちは戦争に勝ったのです。――勝った、けれども負けたのです。なにしろ、敵の軍隊はまだ、半分も減っていませんでした。では何故、勝てたのか。

 たまたま敵の国の情勢が悪かった。ただ、それだけでした。敵国はこれ以上、我々との戦争にく時間も金も勿体ないと、降伏を申し出たのです。そしてさっさと自分の国に帰っていきました。

 ――私たちに残されたのはぼろぼろの軍隊でした。

 ここからが更に地獄でした。

 艦隊も航空もまともに機能していない為に全体の一割にも満たぬ軍隊しかいないにも関わらず、全員が国許くにもとに帰れないのです。

 私はここに残ることを申し出ました。すぐに国が迎えに来てくださるだろうと残ることを申し出たのです。

 私の部下からは反対の声が上がりました。

 あなたは生きて帰らねばならないと何度も言われました。しかし、私は断りました。あなたたちを国許へ帰すことがなによりも大事なお役目であることを部下にさとしました。

 そうして私は残ることにした。

 しかし、私は気が付くと、船の上にいました。

 戸惑とまどう私に、部下は言いました。

「――あなたは、生きて帰ってください」

 そうして渡された小指に、私は声を殺して泣くしかありませんでした。

 部下は、残ると言い張る私を気絶させ、船に乗せたのでした。それを許したのは生き残った軍隊でした。

 ――そして、大尉は船に乗る直前で病魔に合い、死んだと聞かされました。

 私は、部下が殺したことを、悟りました。悟りながら私は、何も言いませんでした。

 あれだけ生きて故郷に帰りたかった彼らが、殺人を犯し、小指を落としてまでも、私を船に乗せたその決意を、無下むげにすることなどできなかったからです。

 ゆらゆらと揺れる船の上で、私は故郷へと生きて帰れなかった部下を偲びました。

 生前の色を失った小指を私は一つずつ、自分のハンケチをはさみで丁寧に切って包みました。

 ハンケチは千人針として、父と婚約者がったものでした。金糸で一針ずつ、丁寧に一針一針。千人針が嫌いだった母の為に、父は刺繍ししゅうほどこしたハンカチを母に送ったのです。それは千人針の代わりとしてのお守りでした。

 母は中将として手腕しゅわんを振るい、先の戦争で我が国の勝利と引きかえに死にました。誉れある死と人々が喜ぶ中、母の部屋の真ん中に座ってむせび泣いていた父を、私は生涯、忘れることはないでしょう。


 ――生きてこそ。


 それが父の願いでした。先の戦争で死んだ私を育ててくれた軍曹も、国許に残した婚約者も、私が生きて帰ることを望みました。

 この戦から帰れば私は大尉になる。そうして聯隊旗手れんたいきしゅのお役目を終えるのです。

 そんなことを、桜の刺繍が施されたハンカチを切りながら、考えていました。

 生きていて欲しかった人々の、顔を思い出そうとしても、思考がそれを拒むのです。私は薄情です。不思議なことに生きていて欲しかった人の顔を思い出そうとすると、死にゆく敵兵の中に見えた幼い顔が見えるのです。

 彼らもまた、生きて帰ることを望まれただろうに、生きては帰れなかったのです。

 互いに異郷の地で骨となり、いつか国許へ帰るその日を、物言わず待っているのでしょう。

 小指をハンケチに包み終えた私は、ひとりひとり名前を記しました。

 名前を記した途端、彼らがもう、生きて故郷へは帰れないことを突き付けられました。


 間宮清子まみやきよこ

 梁間好次朗はりまこうじろう

 清須当間きよすとうま

 黒河松人くろかわまつと

 鳴宮晴美なるみやはるみ

 花野夢二はなのゆめじ

 佐東美代子さとうみよこ

 達摩佳乃たつまよしの


 彼らの名前を書き記す時、彼らの安否を願いながらも私は彼らの死をどこかで認めていたのです。


 ――生きてこそ。


 そう教えられながらも我々は勝利の為なら死を選ぶのです。死をたっとぶように。それは我々の麻痺まひしたほろびの美学でした。

 だからこそ、彼らの死を、そして自らの死をおそらくは、この国に住まう人々よりも近く感じていたのです。

 だからこそでしょうか。

 ようやく国に帰ってきた私を待ち受けていたのは、死だったのです。

 先に船に降りた部下が青い顔をしながら船室にけ込み、私に言いました。

「逃げてください!」

 逃げて、生きてください――と。

 私はこの言葉で全てを悟りました。船室の窓から見える色とりどりの紙吹雪を浴びる群衆の中に遺影を手に並ぶ人々がいました。

 そこには戦争で死んだ人々の遺影と私を生きて帰す為に死んだ彼らの遺影と、そして、私の遺影がありました。

 並んだ遺影を見た時、私は愕然がくぜんとしました。私は、生きて帰ることを望まれなかったのだと、そして、彼らもまた、生きて帰ること望まれなかったのです。

 それは、大尉が仕組んだことだったのでしょう。いえ、私が守ろうとしたこの国が仕組んだことなのでしょう。国の人々の、心をたすために。

 死は、尊ぶもの。

 滅びゆくものは美しいと、死をもって感動させる為に。

「……彼らは、この国に殺されたのだね」

 私がそう言った時、部下はくちびるふるわせ、うつむきました。この戦争は最初から、死にゆく人が決まっていたのです。

 私はハンケチに包んだ指を部下に託しました。顔を上げた部下の目から大粒の涙が零れ落ち、えりもとをらしました。

「妻に伝言を、頼んでも良いかい?」

 部下は無言でうなずきました。

「生きて帰れなくて、すまないと」

 私はもう一度、船室の窓から外を見ました。そこには笑顔で死を喜ぶ人々がいました。遺影を手に群衆は軍歌を歌っていました。朱色の番傘がくるりと舞い、手と手を取りながら踊る人と、異形の者。

 人も妖怪も空を泳ぐように飛ぶ龍も一緒になって。我らの死を尊んでいる。

 滅びの美学。

 それはなんて残酷な文化でしょう。

 桜の散りゆく様を美しいと思う国の、死を尊ぶ文化。

 それは死を願う残酷なものでした。


 本当なら。


 私を生きて帰す為に死を選んだ彼らの気持ちを思えば、私は、生きて帰らねばならなかったのです。

 私の死を願う、この国に。

 私は身に着けているものを全部脱ぎ捨てて、部下から軍服を貰いました。

「……後は頼むよ」

 そう言った私に部下は言いました。

「……悔しいです」

「そうだね」

 私の声は驚くほどに冷ややかでした。

 そして私はまた、窓から外を見ました。

 そこには涙を流し、あるいは手を叩き、喜びの形を様々にした人々がいました。その姿はやがてにじんで見えなくなり、私は声も出さすにただ、涙だけを流してしました。

 それから私は積み荷の中に潜み、船から外へと出ました。

 外へ出た瞬間の、歓喜の声に胸が締め付けられながら、私は震える手を押さえていました。


「能浦少尉! 万歳!」

「万歳!」


 私のことをろくに知りもしない人が口々に私への賛辞を言葉にする。その言葉に酔いしれる為には私は死んでいなければならないのです。

 そんなものの為に私の部下は死んでいった。


――鮮烈せんれつの花ぞ いざ散れど

  心に残るその雄姿ゆうし

  錦の御旗 なびかせて

  生きて帰ると笑ったは

  軍服まとう君のこと


 聞こえてきた歌は生きて帰ることを願いながら、死を望んでいる。

 彼らの死を。

 私の死を。

 彼らはどうして死ななければいけなかったのか。

 こんな、

 こんなれたいが為の歌を歌い、死をさかなに酒を呑むこの国の人の為に。

 生きて帰ったことすらも確認することなく死を突き付けたこの国の人の為にどうして死ななければいけなかったのだろう。

 彼らは、生きて、生きて帰って、そして。

 それから先を私は鮮明に思い出すことは出来ません。ただ、部下が最後まで私を案じていたこと、いつか迎えに来ることを約束してくれたことを覚えています。

 それから一年して部下は迎えに来てくれました。

 だけど、私は戻りませんでした。

 私は死にました。能浦良仁のうらよしひととしての私は、あの船の上で死んだのです。今更、生きて帰ったところで、この国の人は私を歓迎しません。

 あれだけ酔い痴れるような言葉を連ねた後です。酔いから冷めた後のことは恥でしかないでしょう。恥は怒りへと変わり、その怒りはどこに向かうでしょうか。

 いえ。そういうことではないのです。

 死を望まれた。ただ、それだけのこと。それだけのことなのです。

 私は帰れませんでした。

 夕焼けに染まる街を見下ろしながら、私は戦死した、かつての面倒見役だった軍曹の言葉を思い出していました。あの時の戦争もまた、可笑しいものでした。

 物資が行き届かず、管理体制も杜撰ずざんなもので、軍の大半は餓死がしという酷いあり様でした。そこに私は後から来たのです。今にして思えば、あれは残った彼らに死を突き付ける残酷な知らせの役目であったのでしょう。

 せてボロボロになった軍曹を前に私はただ、俯いていることしか出来ませんでした。軍曹は傷が元で敗血症はいけつしょうを起こし、死にかけていました。

 軍曹の最期の言葉を聞いたのは、私です。

 少尉になったばかりの私を育ててくれた軍曹の最期の言葉を私は最近になって鮮明に思い出しました。

 軍曹の言葉が心に残らなかったとか、響かなかったという訳ではないのです。

 その言葉は戦争におもむく人々が今わの際に思う言葉なのです。

 ただ、軍曹にしてはあまりにも哀しい言葉でした。あれだけ何度も私に生への執念しゅうねんを叩き込んだ軍曹の、自らの命の終わりを悟るには早い言葉だからこそ、胸に迫るものがあったのでしょう。


 ――ああ。生きて帰れぬ故郷へは。


 そう言いながら目を閉じて、そのまま目を開けることのなかった軍曹の最期を私はもう、思い出すことは出来ません。私はあの時、あなたに生きていて欲しかった。

 生きてこそ。

 ……だけど。

 軍曹もまた、生きて帰ることを望まれなかった人だったのだと、今になって分かったのです。何故ならあの時もまた、軍曹の遺影を手にした人たちが帰りを待ちわびていたのですから。

「……ああ。生きて帰れぬ故郷へは」

 私の口から零れるように出た言葉に私はやはり哀しい言葉だと、思いました。

 それから私は生涯、故郷へ帰ることは出来なかったのです。




〈終〉

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幸いの死を望む国 白原 糸 @io8sirohara

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