幸いの死を望む国
白原 糸
――生きて帰れぬ故郷へは
――生きて帰れぬ故郷へは。
度重なる爆音に
黒煙と土埃の立ち込める戦場で
それが私のお役目でした。
倒れる味方の体を踏みしだき、ただ、ひたすらに走る。そう。ただひたすらに走るのです。
「走れ! 終わりは近いぞ!」
誰もが生きて帰ることを夢見ていました。生きて帰ることが最大の目的でした。その為に私たちはここに居るのです。
旗は
それは
――だけど、
勝って故郷へ帰る。それなのに、どうしてでしょう。
日に日に
「
何を聞いても大尉はそうしか言わないのでした。
――結果から申し上げれば、辛い勝利でした。全体の一割も満たぬ軍隊だけを残して、ようやく私たちは戦争に勝ったのです。――勝った、けれども負けたのです。なにしろ、敵の軍隊はまだ、半分も減っていませんでした。では何故、勝てたのか。
たまたま敵の国の情勢が悪かった。ただ、それだけでした。敵国はこれ以上、我々との戦争に
――私たちに残されたのはぼろぼろの軍隊でした。
ここからが更に地獄でした。
艦隊も航空もまともに機能していない為に全体の一割にも満たぬ軍隊しかいないにも関わらず、全員が
私はここに残ることを申し出ました。すぐに国が迎えに来てくださるだろうと残ることを申し出たのです。
私の部下からは反対の声が上がりました。
あなたは生きて帰らねばならないと何度も言われました。しかし、私は断りました。あなたたちを国許へ帰すことがなによりも大事なお役目であることを部下に
そうして私は残ることにした。
しかし、私は気が付くと、船の上にいました。
「――あなたは、生きて帰ってください」
そうして渡された小指に、私は声を殺して泣くしかありませんでした。
部下は、残ると言い張る私を気絶させ、船に乗せたのでした。それを許したのは生き残った軍隊でした。
――そして、大尉は船に乗る直前で病魔に合い、死んだと聞かされました。
私は、部下が殺したことを、悟りました。悟りながら私は、何も言いませんでした。
あれだけ生きて故郷に帰りたかった彼らが、殺人を犯し、小指を落としてまでも、私を船に乗せたその決意を、
ゆらゆらと揺れる船の上で、私は故郷へと生きて帰れなかった部下を偲びました。
生前の色を失った小指を私は一つずつ、自分のハンケチを
ハンケチは千人針として、父と婚約者が
母は中将として
――生きてこそ。
それが父の願いでした。先の戦争で死んだ私を育ててくれた軍曹も、国許に残した婚約者も、私が生きて帰ることを望みました。
この戦から帰れば私は大尉になる。そうして
そんなことを、桜の刺繍が施されたハンカチを切りながら、考えていました。
生きていて欲しかった人々の、顔を思い出そうとしても、思考がそれを拒むのです。私は薄情です。不思議なことに生きていて欲しかった人の顔を思い出そうとすると、死にゆく敵兵の中に見えた幼い顔が見えるのです。
彼らもまた、生きて帰ることを望まれただろうに、生きては帰れなかったのです。
互いに異郷の地で骨となり、いつか国許へ帰るその日を、物言わず待っているのでしょう。
小指をハンケチに包み終えた私は、ひとりひとり名前を記しました。
名前を記した途端、彼らがもう、生きて故郷へは帰れないことを突き付けられました。
彼らの名前を書き記す時、彼らの安否を願いながらも私は彼らの死をどこかで認めていたのです。
――生きてこそ。
そう教えられながらも我々は勝利の為なら死を選ぶのです。死を
だからこそ、彼らの死を、そして自らの死をおそらくは、この国に住まう人々よりも近く感じていたのです。
だからこそでしょうか。
ようやく国に帰ってきた私を待ち受けていたのは、死だったのです。
先に船に降りた部下が青い顔をしながら船室に
「逃げてください!」
逃げて、生きてください――と。
私はこの言葉で全てを悟りました。船室の窓から見える色とりどりの紙吹雪を浴びる群衆の中に遺影を手に並ぶ人々がいました。
そこには戦争で死んだ人々の遺影と私を生きて帰す為に死んだ彼らの遺影と、そして、私の遺影がありました。
並んだ遺影を見た時、私は
それは、大尉が仕組んだことだったのでしょう。いえ、私が守ろうとしたこの国が仕組んだことなのでしょう。国の人々の、心を
死は、尊ぶもの。
滅びゆくものは美しいと、死を
「……彼らは、この国に殺されたのだね」
私がそう言った時、部下は
私はハンケチに包んだ指を部下に託しました。顔を上げた部下の目から大粒の涙が零れ落ち、
「妻に伝言を、頼んでも良いかい?」
部下は無言で
「生きて帰れなくて、すまないと」
私はもう一度、船室の窓から外を見ました。そこには笑顔で死を喜ぶ人々がいました。遺影を手に群衆は軍歌を歌っていました。朱色の番傘がくるりと舞い、手と手を取りながら踊る人と、異形の者。
人も妖怪も空を泳ぐように飛ぶ龍も一緒になって。我らの死を尊んでいる。
滅びの美学。
それはなんて残酷な文化でしょう。
桜の散りゆく様を美しいと思う国の、死を尊ぶ文化。
それは死を願う残酷なものでした。
本当なら。
私を生きて帰す為に死を選んだ彼らの気持ちを思えば、私は、生きて帰らねばならなかったのです。
私の死を願う、この国に。
私は身に着けているものを全部脱ぎ捨てて、部下から軍服を貰いました。
「……後は頼むよ」
そう言った私に部下は言いました。
「……悔しいです」
「そうだね」
私の声は驚くほどに冷ややかでした。
そして私はまた、窓から外を見ました。
そこには涙を流し、
それから私は積み荷の中に潜み、船から外へと出ました。
外へ出た瞬間の、歓喜の声に胸が締め付けられながら、私は震える手を押さえていました。
「能浦少尉! 万歳!」
「万歳!」
私のことをろくに知りもしない人が口々に私への賛辞を言葉にする。その言葉に酔いしれる為には私は死んでいなければならないのです。
そんなものの為に私の部下は死んでいった。
――
心に残るその
錦の御旗 なびかせて
生きて帰ると笑ったは
軍服
聞こえてきた歌は生きて帰ることを願いながら、死を望んでいる。
彼らの死を。
私の死を。
彼らはどうして死ななければいけなかったのか。
こんな、
こんな
生きて帰ったことすらも確認することなく死を突き付けたこの国の人の為にどうして死ななければいけなかったのだろう。
彼らは、生きて、生きて帰って、そして。
それから先を私は鮮明に思い出すことは出来ません。ただ、部下が最後まで私を案じていたこと、いつか迎えに来ることを約束してくれたことを覚えています。
それから一年して部下は迎えに来てくれました。
だけど、私は戻りませんでした。
私は死にました。
あれだけ酔い痴れるような言葉を連ねた後です。酔いから冷めた後のことは恥でしかないでしょう。恥は怒りへと変わり、その怒りはどこに向かうでしょうか。
いえ。そういうことではないのです。
死を望まれた。ただ、それだけのこと。それだけのことなのです。
私は帰れませんでした。
夕焼けに染まる街を見下ろしながら、私は戦死した、かつての面倒見役だった軍曹の言葉を思い出していました。あの時の戦争もまた、可笑しいものでした。
物資が行き届かず、管理体制も
軍曹の最期の言葉を聞いたのは、私です。
少尉になったばかりの私を育ててくれた軍曹の最期の言葉を私は最近になって鮮明に思い出しました。
軍曹の言葉が心に残らなかったとか、響かなかったという訳ではないのです。
その言葉は戦争に
ただ、軍曹にしてはあまりにも哀しい言葉でした。あれだけ何度も私に生への
――ああ。生きて帰れぬ故郷へは。
そう言いながら目を閉じて、そのまま目を開けることのなかった軍曹の最期を私はもう、思い出すことは出来ません。私はあの時、あなたに生きていて欲しかった。
生きてこそ。
……だけど。
軍曹もまた、生きて帰ることを望まれなかった人だったのだと、今になって分かったのです。何故ならあの時もまた、軍曹の遺影を手にした人たちが帰りを待ちわびていたのですから。
「……ああ。生きて帰れぬ故郷へは」
私の口から零れるように出た言葉に私はやはり哀しい言葉だと、思いました。
それから私は生涯、故郷へ帰ることは出来なかったのです。
〈終〉
幸いの死を望む国 白原 糸 @io8sirohara
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