ずっとすきま風が吹いていた
タカテン
最終話
「あのね、妊娠したみたい……」
珍しく緊張した面持ちで切り出した彼女に、俺の顔もきっと少し強張っていたことだろう。
彼女の住む安アパートは、その日も立て付けの悪い窓からすきま風が吹き込んでいた。
1、
パチンコ屋で一年間バイトをして金を貯め、東京に出て役者になる。
それが高校を卒業しても進学せず、夢を追いかけようと決めた俺の人生設計だった。
我ながら無謀な計画だ。でも当時は必ず上手くいくと信じてやまなかった。
だからそれがまさか恋人が出来てあっさり断念することになるなんて夢にも思わなかった。
彼女――
最初の印象は、とにかく明るくて、笑うと可愛らしい八重歯が覗く元気っ子。不愛想な俺と違って、バイトや常連客の人気者だった。
そんな彼女との仲が深まったきっかけは単純にお互いフリーターで、お金を稼ぐ為にふたりともシフト表には常に〇印しか書かなかったもんだから、一緒になる時間がしょぼくれた中年店長を除く他の連中と比べて桁違いに多かっただけにすぎない。
それでもフロアで、カウンターで、スタッフルームで、目が合い、言葉を交わし合う度に、お互いに惹かれあっていった。
初めて身体を重ねたのは出会って半年後のこと。
彼女にしつこく絡む客を、弱腰な中年店長に代わって俺が追い払ってやったら、そのお礼にと晩御飯をお呼ばれした。
そこで彼女の住むボロアパートを知り、実はDVの親から逃げてこの部屋で一人暮らしをしていることを知り、明るく元気に振舞う彼女だけれど実は心の中はこの部屋のようにすきま風が吹きすさんでいることを知って、俺は堪らなくなって彼女を抱きしめた。
だからさ、彼女から妊娠を告げられた時、俺は自分の夢を捨てる決意をしたんだ。
東京にはいかない。役者にもならない。ちゃんと就職して、彼女を絶対幸せにしてみせる。
そう思ったのに――
「でもごめん、パパは
「え?」
「店長の子、なの……」
その後のことは正直、よく覚えていない。
気が付けば俺は泣きながら、逃げるようにして東京行きの新幹線に乗っていた。
2、
「え、故郷……ですか?」
「そう。高木君に案内して欲しいんだ」
脚本家の河本先生の提案は、俺を大いに戸惑わせた。
先生とはかれこれ二十年近い付き合いになる。上京して入った劇団で、素人同然だった俺を何故か先生は気に入ってくれた。
そして自身が脚本を担当している刑事ドラマのプロデューサーに紹介してくれ、そこで貰った、イジメで殺された妹の復讐心に燃える男・
本来なら連続ドラマの中の一話限りの犯人役に過ぎなかった鬼島耕助。
が、熱いだけで下手くそもいいところの俺の演技が、何故か視聴者にウケた。
おかげで逮捕されたはずの鬼島は脱獄し、その後のシリーズでたびたび登場。気が付けば主人公の刑事と鬼島の物語が、シリーズの中心となっていった。
今や
しかしそんな俺の出世役である復讐者・鬼島耕助の話も、今度のシーズンにて結末を迎えるという。
その脚本を今まさに書いている河本先生から「鬼島の過去を掘り下げる参考にしたいから」という理由で、俺の故郷を案内して欲しいとお願いされた。
上京してこの方、一度も帰ってはいない。
出来ることなら断りたかったが、恩人である先生の頼みとなればそうもいかなかった。
3、
約二十年ぶりに訪れた故郷の駅前は、まるで初めて訪れた土地のようなよそよそしさで俺を迎え入れてくれた。
若い頃、この町は永遠に時が止まっているんだと信じてやまなかった。それが随分と様変わりしたものだ。
聞けば数年前に駅前の再開発があったらしい。
月曜日の放課後は立ち読みするのが定番だった本屋、友達と入り浸ったファーストフード店、チャーハンがやたらと美味いラーメン屋、そしてバイトしていたあのパチンコ屋……記憶の中にあるそれらの場所に今は商業施設が併設された大きなマンションが建っていた。
もしパチンコ屋が今もあって、店長と彼女がまだ働いていたら……偶然にもふたりと出会ってしまったら俺はどんな顔をしたらいいのだろう。
そんな悩みをここ数日抱えていたが、これで危険度はぐっと下がった。
「じゃあ車を借りて――」
「いや、その前にちょっと休憩しようよ」
出来ればさっさと取材を終えて帰りたい。そんな思いは、しかし先生には通じていなかったようだ。
難色を示す俺をよそに喫茶店へと入っていく先生に、しぶしぶ続く。
注文を訊きに来た若い女の子の店員が、俺を見て少し驚いたような顔をしたような気がした。変装しているとはいえ、気付かれたかもしれない。
「いい町だね。来た甲斐があった」
「そうですか? どこにでもある、ごく普通の地方都市ですよ」
「だけどそのごく普通の町に高木君は二十年も帰らず、そして今はとても怯えた表情をしている」
運ばれてきたコーヒーを飲みながら、先生がニヤリと嗤った。
「その理由を聞かせてくれないかな?」
「趣味悪いですね」
「脚本家ってのはそんなもんさ」
多分、こうなるだろうなとは薄々思っていた。
先生の中で鬼島は俺そのものだ。鬼島の過去はすなわち、俺の過去でもある。
「よくある、つまらない話ですけどね」
そう、本当によくあるくだらない話だ。
信じていた女性をしょぼいおっさんに寝取られて、故郷を逃げるように出て行った。それだけのこと――。
「なるほど。高木君、最初に会った頃からどこか危うい感じが漂っていたけど、それにはそんな理由があったわけだね」
「危うい感じ?」
「うん、何が何でも這い上がる、その為には手段を選ばない、みたいな」
大袈裟だな。
確かに傷心を忘れるために我武者羅だったのは認めるけれど。
「自分を裏切ったふたりを見返す為に人生を切り開いた高木君。いいね、自分の人生を復讐に捧げた鬼島と重なるよ」
「鬼島みたいにカッコイイ話じゃないですよ」
「そして役者として成功し、ふたりを見返すことが出来るこの状況に何故か高木君は怯えている。実は鬼島もね、とうとう復讐を成し遂げられる所まで来たのに躊躇っているんだ」
「そうなんですか?」
「うん。ちょっとしたどんでん返しを考えていてね」
そう言って先生は鞄から一冊の古ぼけたノートを取り出した。
「これ、日記なんだけどね。先日、手紙と一緒にこれが僕のオフィスに届けられたんだ。読んでみて」
手渡されたノート。その表紙に書かれた几帳面な字を見て、はっと息を飲む。
その字は間違いなく紗矢のものだった。
4、
妊娠してしまった。
どうしよう。
だけど産むわけにもいかない。
だってそんなことになったら蒼君は役者になる夢を諦めてしまうから。
店長にお金を貸してほしいとお願いしたら、理由を訊かれた。
どうしても上手い言い訳を思いつかなくて本当のことを伝えたら、店長はとても驚いていた。
返事はまだ貰えてない。お金、貸してもらえたらいいな。
店長からの返事はまだない。
ただ、せっかく授かった子供を殺すなんて考え直そうと何度も言われた。
私だって本当は産みたい。
だけど彼を縛り付けたくない。
結局、お金は貸してもらえなかった。
その代わり、店長は私と生まれてくる子供の面倒を見ると言ってくれた。
どうしてと戸惑う私に店長は言った。
私も、蒼君も幸せになってほしいから、と。
今夜、私は蒼君にウソを伝える。
そのウソはきっと彼を傷つける。
だけどその傷がこれからの蒼君に力を与えてくれると信じて。
私は今夜、とても酷いウソをつく。
5、
気が付けば、俺は人目をはばからず泣いていた。
テレビにも出ている有名人なのに。四十過ぎのいい大人なのに。みんなが驚いて見ているのに。
でもそんなのは関係ない。泣かずにはいられなかった。
ああ、なんてことだ。
ずっと裏切られたと、弄ばれたと思っていた。
なのにまさかこんな……こんなことって。
「残念だけど、お二人は事故で亡くなったそうだ。その遺品整理をしていた時に娘さんがこれを見つけて、僕に届けてくれた」
「……娘?」
「高木君の子供だろうね」
俺の子供……。ふたりが育ててくれた、大切な、大切な娘……。
「会ってみるかい? 住所分かるよ」
「……で、でも……今更……どんな顔をして……会っていいのか」
「だろうね。きっと娘さんもそうだ。だから高木君にではなく、僕に届けてくれた。お母さんに似て優しい子だ」
「…………」
「もっとも他人の人生観察が趣味の僕にこんなのを送りつけて後悔してるんじゃないの、麻衣さん?」
不意に先生が目線を俺の後ろに向けて、聞き慣れない女性の名前を呼んだ。
「いいえ。先生には感謝しています。だって高木さんがどういう人かよく分かったから」
なんだか懐かしい声が聞こえる。驚いて振り向く俺に、先ほど注文を訊きに来た女の子が、耳元を隠す髪の毛をかきあげて言った。
「お父さんもお母さんも高木さんの大ファンでした。私はそうでもなかったけれど、今ならふたりがあんなに応援していた気持ちが分かります」
涙で滲むその先に、俺とそっくりな上向く耳たぶが見えた。
「ふたりのためにそんなに泣いてくれてありがとう、お父さん」
6、
数ヶ月後、放送された鬼島耕助・最後の復讐劇『最終話:ずっとすきま風が吹いていた』は、意外過ぎる展開と鬼島が優しくほほ笑みながら死んでいくラストが大きな話題を呼んだ。
麻衣のことは公表していない。麻衣が嫌がったからだ。
麻衣はあれからもあの町で一人暮らしを続けている。
ただ紗矢とは違って、部屋に、そして心の中にもすきま風は吹き込んではいないようだった。
ずっとすきま風が吹いていた タカテン @takaten
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