The Library of Diaries

橘 紀里

彼女の探し物

 トントン、と軽く戸を叩く音に、彼は読んでいた本から目を上げた。窓から差し込む光に透けるような長く淡い金色の髪。白磁のような肌と、細い首、さらにごく繊細な指先はまるで少女そのものだが、ほんの少し雲に霞むような青灰色ブルーグレイの瞳に浮かぶのはやけに老成した光だった。


「どちらさまですか」


 扉の方を向いて静かにそう尋ねると、ノックが止んでしばらく沈黙が下りる。それからためらいがちな声が聞こえた。

「こちらには世界中の日記が集まっていると聞いたのですが」

 小鳥がさえずるような、あるいは玻璃の風受け飾りが微風を受けて擦れるような、そんなどこか儚い声だった。

 だが、彼は秀麗な眉を微かにしかめる。何しろ彼女の言葉はその通りで、けれどそれはごく一部の人間のみが知る極秘事項のはずだった。


 薄い唇に人差し指を当てて、何かを迷うように考え込む。だが、すぐに一つため息をつくと、立ち上がって机の上の本を壁の本棚に戻した。部屋の中をぐるりと見渡してから、指先を下ろして扉の前に立つ。

 ゆっくりと外側に開いた扉の向こうに立っていたのは、声の通り、線の細い女性だった。夜ならば溶け込んでしまいそうな黒い髪に、少し煌めく同色の瞳。身にまとっているのも黒い外套で、どこから来たのか彼にとっては明らかだった。


「ここにはあなたの望むものなどありません。お帰りなさい」


 あなたがあるべき場所へ。そう言った彼に、だが目の前の女性は慌てたように手を振った。

「違います、迷い込んだんじゃないんです。きちんとを踏んで、許可証もいただいてきたんです!」

 先ほどまでのか細い声とは打って変わって、はっきりとした声で懐から巻いた紙を取り出した。少し黄味を帯びた淡い色の用紙と、それを結んでいる深い燕脂えんじいろり合わされた飾り紐を見て、彼は目を見開いた。


「ディエース、何をためらってる? 正式な来訪者なら、さっさと用件を聞こう」


 不意に響いた声と共に彼の脇から伸びてきた手が、女性から紙を無造作に取り上げた。目を向ければ、褐色の肌に短い黒髪の少年が立っている。瞳は真夜中の空のような深い紺色をしていて、背格好は変わらないが、彼と並ぶとおおむね正反対の印象を受けるだろう。


「ノックス、勝手に話を進めるのは感心しません。まずは許可証を確認してからです」

 目の前の女性は驚いたようにあんぐりと口を開けていたが、すぐに慌ててぺこりと頭を下げた。

「本当に、夜と昼のお二人なんですね」

「……許可を得ていらっしゃったというのは嘘ではないようですね」

 ノックスディエース。対になるように配置された二人は、この場所の案内人であり番人だ。


 女性を招き入れ、部屋の中心にある丸いテーブルの脇に置かれた椅子を勧める。

「とりあえずおかけください。まずは書類を拝見しますので」

 ノックスから手紙を取り上げると、紐を解いて中身を確認する。閲覧者の目的、閲覧可能範囲に、照会が許可された理由。基本的には個人情報プライバシーに関わるところは彼らには非開示なので、照会理由はごく簡素なものだ。


「ご自身の過去にまつわる日記を閲覧したい、ですか」

「はい。私は——」

 言いかけた彼女の口を塞ぐように指を突きつけて、彼は首を横に振る。

「お話いただく必要はありません。ここは世界中のあらゆる日記が集まる書庫です。日記というのは基本的にはごく私的なもの。本来ならよほどのことがない限り他者に開示されることはないものばかり。ですが、あなたが許可証をお持ちだと言うのなら、私たちは開示請求に従って該当するものをあなたにお渡しします。あなたはそれを確認し、読み終えたら返却し、お帰りいただく」


 以上です、と言った彼に、隣で含み笑う気配が伝わってきた。目を向ければ、夜そのもののような瞳を悪戯っぽく光らせた、癖のある笑みが向けられる。

「何ですか?」

「そんなにつれなくしなくたっていいだろう。俺はお茶を入れてくるから、書類が確認できたのなら本を出しておいてくれ」

「言われなくてもそうします。それから、私はアールグレイでミルクティを」

「はいはい、いつも通りにね」


 ひらひらと手を振って隣の部屋へと歩み去った背中を見送り、彼は本棚へと歩み寄る。と言っても、ドア以外の壁面は全て本で埋め尽くされている。見上げるばかりの高さの壁面を埋め尽くす本と、壁を這うようにして申し訳ばかりに付けられた細い螺旋階段。すれ違う幅もないその階段は、完全に複数の人間が行き来する設計になっていない。故に、本を探すのは彼かノックスか、どちらか一人の作業となる。


 「許可証」を片手に螺旋階段を上がっていく。ふわりと、淡い光が灯って一冊が彼の手元に滑り込んできた。厚紙の表紙の立派な一冊だ。それを抱いて、彼は元来た階段をゆっくりとまた下りていく。


 テーブルにたどり着くと、ふわりと爽やかな香りが漂ってきた。


「完璧なタイミングだな」


 ノックスはそう笑って、ティーポットを傾けて、絡まる蔦模様が描かれた三つのカップに白と茶色が混じったとろりとした液体を注いでいく。席に座って口をつけると微かに甘い。正面の女性はさっそく差し出された本——誰かの日記——を読んでいる。

 やがて、ゆっくりと読み終えた彼女は、本を抱きしめてほう、と息を吐いた。頬は上気して薔薇色に輝いている。訪ねてきた時の儚げな様子が嘘のように、幸せそうに。


「望む答えが得られたのか?」

 ノックスの問いに、女性は目の端に涙を浮かべてこくりと頷いた。

「母の日記でした。ちゃんと私は望まれてこの世に生まれたようです。事情があって手元では育てられなかったようですが」

「そうかい。疑問なんだが、わざわざこんなところに来なくたって、誰かがそれをあんたに教えてはくれなかったのか?」

 笑みを含んだ、けれど嘘や欺瞞を許さないまっすぐな夜色の瞳に、彼女は少し怯んだように彼には見えた。


 ここは、通常の時の流れからは切り離された時の狭間。時折、夢を介して訪ねてくる人間もいるが、許可証を持って正式に訪れる者などごく稀だ。


「話は聞きました。でも、どうしても自分で確かめたくて」

「なるほど、周りの連中は信用できないんだ」

「ノックス、踏み込みすぎです」

「はいはい。そりゃ悪かったな」

 言葉ほどは悪びれていない様子にため息をつきながら、立ち上がって日記を受け取ると、彼女を促して扉の向こうへ誘う。

「ありがとうございました。私が日記を書いたら、それもここで保管されるようになるのでしょうか」

「そうですね。そういう決まりですから」

「そう、ですか……」

 彼女は黒い瞳を少しさまよわせ、やがて何かを思い切ったかのようにまっすぐに彼を見つめた。

「あの日記は、間違いなく本物ですね?」

「ここには偽物など存在しませんよ」

「でも、日記なら、嘘を書くこともできますよね?」

「そういうものは、事前に精査されて排除される仕組みになっています。どういうふうに精査しているのかについてはお答えできませんので、訊かないでください」


 淡々と答えた彼に、彼女はほっとしたように表情を緩めて、入ってきた時と同じようにぺこりと頭を下げると扉をくぐり、その瞬間、その姿は光に溶けるようにして消えてしまった。


「無事に帰ったか?」

です。無事に返さぬ理由はありません」

「ふうん。それにしても、相変わらずお前は綺麗な顔の割に性格が悪いな」


 口調は軽いのに、そこには確かに非難する響きあった。けれど、彼はただ肩を竦める。


「何がおっしゃりたいのです?」

「本当に彼女に必要だったのはこちらだろう」


 その手には、黒い一冊の分厚い日記が握られていた。


 ここはありとあらゆる日記の保管庫。彼らはその管理人であり、番人でもある。故にここにある日記の全ての内容を把握していた。


 ノックスの手元にあるのはとある研究者の日記だった。出生前に綿密に設計デザインされ、代理母に育まれて誕生したの成長をつぶさに綴ったもの。

 本来、研究日誌として公的に保存されるべきものに近かったが、それは研究機関には提出されず、その研究者個人の記録として残されていたから、ここに収められている。

 生まれた時から観察され、自分の意志で生きているように見せかけて、全てを操られている哀れな子供。そこには愛などかけらもなく、ただその才能を利用し、使い尽くす目的だけがあった。


「偽りの日記はここには保管されない。だが、日記というものは所詮誰かの目を通した記録に過ぎない。別の視点を通せば全く違う事実をあらわす。知っていてなぜ隠した? 彼女が知りたかったのは『真実』だろう」


 はっきりと責める色を浮かべた夜の瞳に、彼はもう一度肩を竦める。


「開示請求の目的は、『彼女に希望を与えること』。その真実とやらは目的に合致しません」

「それが偽りの希望でもか」

「いずれにしても、彼女は籠の鳥です」

「それがせめてもの慈悲だと? お前は考えたことがあるのか、に許可を与えているのがなのか」

「私には関係ありません。ただ規則ルールに従うだけ」


 気が遠くなるほど長い間、降り積もる人の記録と共に過ごす。時折訪れるのは、その日記に救いを見出す者ばかり。


「もし彼女が真実を知ったらどうする。より絶望が深くなるだけだとは思わないのか」

 なおも言い募るノックスに、彼は首を傾げる。開示請求など、飽きるほど長い時を繰り返してきたというのに。

「さては、惚れましたか?」

「馬鹿を言うな。ただ、あんなに若い娘さんが憐れなだなと思っただけだ」

 口を尖らせた横顔は、子供じみていて思わず彼は相好を崩す。気の遠くなるほど長い時をここに閉じ込められて、けれど正気を保っていられるのはこの気性のまっすぐな相棒のおかげでもあった。


「もともと日記というのは個人的なもの。それを読もうとすること自体が本来禁忌です」

「……なるほど、やっぱりお前は悪辣だな」

「褒め言葉として受け取っておきましょう」


 ここは日記図書館。本来誰の目にも触れぬ日記を保管する場所なのだ。

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The Library of Diaries 橘 紀里 @kiri_tachibana

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