足跡を望む
鶴崎 和明(つるさき かずあき)
辻杜先生の奴隷日記に始まる旅路
私と同世代の長崎人であれば、小学校の頃の夏休みには「あじさいノート」なる冊子を友にして過ごしたのではなかろうか。
調べてみると、長崎市の教育委員会が今も発行を続けているらしい。
何とも懐かしいのではあるが、それは憧憬というよりもトラウマに近いものかもしれない。
八月下旬に終わっていない頁を繰りながら、泣く泣く進めたのは私一人であろうか。
特に、日記と天気の記録を書こうとして、思い出と新聞紙をひっくり返すのは恒例の行事であった。
最早その一冊も残されてはいないが、夏だからといって遠出もしなければ誰かと会うこともなかった私は果たして何を書いていたのか気になるところではある。
KAC最後のお題が「日記」と発表されて小学生の頃の苦い思いが蘇るほどには、私は日記というものをまともにつけたことがない。
百日坊主で終わった作品が、私にとっては最長記録なのであるが、それ程に身の回りで起きたことを記録するのは苦手な性分である。
これに絵が加わるととても書けたものではなく、よもや頭を抱えて忘れた言い訳を考えるしかない。
今であればその苦悶を以ってエッセイの一つでも書き上げるのであろうが、小学生自分にそのような力があるわけもなく、ただ悶々とするのが精一杯であった。
日記といえば私の長編処女作は改題されたものの「辻杜先生の奴隷日記」であり、次いで頭に浮かんだのはこちらであった。
題名が中身を表すというのであれば日記体で書くべきであった小説は、一人称でつづられたごく普通の現代ファンタジーである。
ただ、習作として書き始めた原作は、随所に当時試みていた文体や書き方や表現が散りばめられており、読み返すと小恥ずかしいものの面白い。
「ああ、この時期はビジュアルノベルにはまっていたのだな」とか「なるほど、この時期は『山月記』を履修することであったか」など実例を挙げればきりがないのだが、それを上梓するのは流石に憚られる。
加えて私の信条を見事にまとめたものであるから余計に
高校生らしい非常に直情的なものだと今にしてみれば感心してしまうのだが、その姿を当時の私が見ればどのように思うのだろうか。
いずれにせよ今の私にはとても眩しく、「筆者」と一度酒を酌み交わしてみたい。
冗談はよし子さんといったところであるが、他の拙著も紐解いていくと同じように懐かしい思いがしてくる。
韻文の中で恋に恋した自分の姿を見た時は顔から火が出るようであり、諧謔を以って同輩を観察する自分を見出した時はへそで茶が沸くようだ。
それでも、高校時代の作品は学年を経るごとに成長が見られ、言い回しも内容も真直ぐに伸びていたことがよく分かる。
これが学生時代ともなると歪曲や湾曲を始めるのだが、それは鬱屈とした気分を表していたのかもしれない。
私が動画投稿者として復活したのはここ一年のことであるが、元々は劇場型のゲーム実況を上梓していた。
今見返すと気恥ずかしさのようなものがあるが、自分のプレイングや選択の変化が見られるため中々に面白い。
編集技術も相当変化しているのだが、ここは成長したと言うべきなのか畑が違うからそう見えるだけなのかがよく分からない。
いずれにせよ、文芸創作以上に自分の器量と時間を尽くして出来上がったものが動画であり、それだけに滲み出てくるものも大きいようである。
長らく続けているツイッターなどのSNSは、時に執筆に利用する。
旅先で、自室で、飲み屋で、車窓で見て、聞いて、味わったことをその瞬間に表現しているため、それだけで一次資料としての価値があるのだが、写真があるためさらに好都合なのだ。
その画像の中に自分の姿を投影して浮かび上がってくるものを丁寧に拾い上げていくことで、その時の自分に肉薄することができ、筆も進む。
便利な時代になったものだと感謝しつつ、投稿のない日々を見つけると当時の私が別の意味で見えてきてしまい切ない。
蕎麦屋を営んでいた父は、本当に私の親であるのか疑うほどに記録を付けるのが癖であった。
その日の天候、湿度、使用した粉の割合、加水量、出汁取りやかえし取りの有無など必要な情報ではあるのだが、それだけに黒煙が金剛石の輝きを持つ。
還暦にして一念発起し、修行して蕎麦を打ち続けた男の姿がそこには刻み込まれているのだが、その奥に私や姉の存在があったのかもしれない。
よもや真意を尋ねることは叶わぬが、せめて晩春の海に一礼しよう。
フィクションの世界では「未来日記」というものが登場することがある。
これから起こること、自分の行く末を記した預言書にあたるものだが、果たしてこれを渡されて読んだ私は平生を保っていられるだろうかと思ってしまう。
いや、渡されても読まないかもしれない。
未来を予期し、それを変えるべく動くということは理にかなっているのだろうが、それだけに酒の肴には成り得ぬ。
道草も 行くも帰るも 別れるも ひとつ休むも いずれ棺桶
なに、肩肘を張って歩くよりは、散歩のような在り方を見返すのがちょうどよいということだろう。
足跡を望む 鶴崎 和明(つるさき かずあき) @Kazuaki_Tsuru
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