【KAC202211】『日記』の衛士

石束

腐れ紙の怪

 平安朝。一条帝の御代。中宮彰子に懐妊の兆しがあった時の事。


 本来ならば慶事として大いに喜ばしいことであったが、当初、このことは深く深く秘密にされた。


 疫病や地震、飢饉に乱暴ととかく政情不安なその頃の平安朝であったから、ことさら喜びたてて要らぬ嫉妬を招き、また、その繁栄を憎むものがあって『呪詛』などされて中宮とまだ見ぬ御子の身に障りがあってはならじと、彰子の父であり王朝の左大臣たる藤原道長が用心したからである。


 しかし、秘密はいずれ露見するもの。


 体調不良を理由に彰子が里下がりした土御門邸に、夜な夜な、怪異が現れるようになった。


 湿った風と重い足音。闇の中を、誦経とも嘆きともわからぬうなりをあげて徘徊する、四つ足の獣。

 べらべらと風にたなびく音とともに、一瞬、篝火に浮かび上がったその姿はまるで無数の反故が折り重なり積み重なりした、紙屑の集合体だった。

 

 紙だからと、勇気ある警護役が松明をぶつけたが、何しろ墨か雨か重く湿っていて全く火がつかない。

 棒で殴り長巻で切りつけようとも、元より血の通わぬ紙ゆえに、傷も負わず。

 取り押さえようとした者は逆に襲い掛かかられて、跳ね飛ばされ蹴り飛ばされ、もうなすすべがなかった。


 屋敷の者どもは何としても中宮は守らねばならぬと、土御門邸の奥深くに皆寄り集まって最後は自らをもって盾にならんと心ひとつにしていた。とりわけ、彰子の庇護下にあった敦康親王は幼き身で中宮の側に昼夜侍り、養い親と未来の弟妹を守らんとするなど、人はその姿にあるいは涙し、あるいは奮い立った。


 藤原道長は位人臣を極めたりといえど、さすが妖異には抗しえないかと思われたが、それでも手を打った。


 まず、源頼光を呼び寄せ、配下の四天王とともに土御門邸の警備につかしめたのが一つ。

 そして、次に、道長はある夜、土御門邸に二人の貴族を招いた。


 一人は、ある意味当然の、蔵人頭・藤原行成。一条帝の側近であると同時に道長にとっては政治的同志であり、また懐刀ともいうべき人物。


 今一人は、意外なことに、藤原北家小野宮流の領袖、権大納言・右大将藤原実資。


 今や絶対権力者として誰もが畏れ、あるいは誰もがおもねりすり寄る道長に対し、常に一線を引いて筋を通してきた朝堂における好敵手であった。


◇◆◇


「この一大事、むろん駆けつけるに否はないが、あいにく当方は妖異退治の方策にあてが無い」


 万が一の失火が無いように、数を絞られた灯明がいくつかあるだけの暗い部屋で、実資が斬り捨てるように言った。


「頭弁(とうのべん)どのは何かご存じか?」

「はあ。それが私も詳しくは……」


 行成は額に汗がにじむのを感じたが、これ見よがしにぬぐうわけにもいかず、困って面を伏せた。

 どうしたものかと困惑していると、ようやく、中宮つきの取次の女房を従えた道長が現れる。

 そして、


「ええっ!」と、行成が驚きの声を上げ、そして、声こそ上げなかったものの、実資もまた、目を見開いた。


 道長の後ろから音もなく現れた、もう一人の人物。

 それは去る寛弘元年、84歳という驚異的な長寿で大往生したはずの、王朝きっての異能人。

 

「――其の方。たしか死んだのではなかったか?」

 実資が鋭い眼光を向けながらその名を呼んだ。

「安倍、晴明」 


 枯れ木のような瘦身を姿勢よく操りながら、その人物は答えを返した。


「浮世の用からは確かに退きました故、死んでおると言えば死んでおり申す」


 ひょうひょうと受け流すようで、いちいち癇に障る物言いは、確かに晴明本人だ。

 と、信じられないながらも実資はどこか納得していた。


 老衰で死んだといわれれば不思議に思い、実は生きていたといわれれば納得するのが、この男の尋常でないところである。


「この度の呪詛はいささか度が過ぎておりまして。このままでは余計なものを呼びかねませぬ。」


 晴明の説明はこうだ。

 唐渡の怪しい経典を大枚はたいて手に入れた者がいて、これを呪いに巧みなものが依頼者の願いで呪詛にしたてた。

 あの獣はその結果である。

 本来は相手を突き止めるか、どこぞにある経典を探し出して焼き払うのだが、それでは時間がかかりすぎて、手遅れになるやもしれず。


「ゆえに、今宵、この土御門邸にて迎え撃つ!」


 割り込む様に道長が、一足飛びに宣言した。


「ええと……」と行成が逡巡すると、晴明は説明をつけ足した。


「こちらも、文の式神にて対抗いたします。ご両所においでいただいたは、そのためにて」


 実資は眉を顰めつつも、座りなおして晴明をにらんだ。

「お前のいう事だ。どうせ此度も当方が理解できぬ理由で、筋が通っておるのであろう」

 幾度、この男に言葉に自らの常識を揺さぶられてきたことか。

 実に腹の立つ男だが、文句も言えない。

 異常の事は異常な男にしか解決できない。そのことを実資は公にも私にも、何度も思い知っていた。

 なおも、不快なことには、この男はしっかり結果を出すのだ。

「いわれたとおり、我が家における日記の書き損じの反故を、残らずかき集めて文車に積んでまいった。こんなものを一体どうするつもりだ?」


◇◆◇


 その夜半。


「きたぞおおおお」

 宿直の叫びも間に合えばこそ。焚かれた篝火を蹴倒して腐れ紙の妖異がまた現れた。

 実資は、道長や晴明とともに、堂上、階を上り切った場所。下ろした蔀戸を盾代わりに身を隠しながら、庭の様子をうかがっていた。


「まこと、紙の分際で火を恐れぬとは」

 行成がつぶやくのが聞こえた。妖異であればそんのものだろうと実資は心の内で思い、その後で重ねて思った。

 ――我ながら、常識が麻痺しておる。

 言っては何だが、一条帝の御代において、実資は自分位常識を心得ている人間はいないと、ひそかに自負していた。

 それがこの男の所為で、ずいぶん揺るがされてきた。実に腹立たしい。

 それもこれも、安倍晴明(こいつ)が悪い。


「よし! 晴明、いざつかまつれ!」


 道長の声に「御意にて」と呟き、晴明が印を結び――言葉ではない。何か。―『呪』をとなえた。

 応えて、がさがさと三つの文車から反故がはい出て見る見るうちに人型、さしずめ「右大将」か「左大将」という姿になった。

 それが三体。


「よしよしよーしっ」

 道長が喜んでいた。この男は喜ぶときは大げさで、うれしくとも悲しくともよく泣く。不機嫌になってもわかりやすく、周囲はそれに引きずり回されてきた。

 実資が一番嫌いなタイプである。

「ゆけい! わが衛士どもよ!」

 あのうち、少なくとも一体は実資の日記の書き損じであるのだが、そんなことは道長の頭からは全く飛んでしまっているらしかった。


「ゆけ」

 当たり前であるが、道長ではなく晴明の命令で、日記が元になった式神たちが獣にとびかかり、一番大きな式神が一番最初に殴られてふっとばされた。

「なんだあいつは! 見掛け倒しではないか!」

 などと怒鳴る道長。

 すると、晴明が説明を始めた。

「文字が記された紙で式神を作りますと、その内容によって優劣が出来申す。むろん丁寧で思いがこもっておればこそ、力を発揮いたします。逆に誤字が多く字が汚く、適当である場合は相応の力しか発揮しえません」


 つまり、あの獣はよほどの書家が経文を書いた巻子であったがゆえに、あれ程の力を持ち

「飛ばされた式神はいい加減な日記であったということか」

「うぬ。だれだ。あの日記を書いたのは!」


 実資は行成と目を見合わせた。

 行成は一条天皇の信頼篤い能吏であり、なにより能筆でしられた書の達人である。その日記(『権記』)の完成度はいわずもがな。

 そして憚りながら実資も故実に詳しく「賢人右府」と伊達に呼ばれているわけではない。

 自らの日記(『小右記』)には行く末、百年二百年後にも恥ずべきことの無いようにと己が生き様を刻んて来つもりだ。

 安倍晴明がぽつりと言った。

「あれは、相府(道長)さまのお手にて」

「………わしの日記は、人に見せるモノではないのであれでよいのだ!」


 余談であるが。

 道長の『御堂関白記』は「この日記は人に見せるモノではないので速やかに破却するように」と添え書きのある本当に私的な覚え書きだったのだが、道長のものなので摂関家の重宝として代々大切に保管されてきた。そして現代においては、現存する最古の本人直筆の日記となり、その点が評価されて、めでたくユネスコの記憶遺産に認定された。

 泉下の道長公の気持ちは想像するしかないが、個人的に本心を言うと、私は彼がどんな顔をしているか、いっそみてみたい。


 ――と、そんなことを言っている内に、庭先の闘いは佳境に入っていた。

 三対一なのに、日記の衛士が不利である。

 実資は舌打ちをした。

「晴明、分が悪いぞ。時間稼ぎも限界だ」

「少々お待ちを、ただいま、『本命』の準備ができました」

 その言葉と共に、屋敷の大屋根を越えて天から、緋色の炎をまとった女御姿の式神が舞い降りて、獣のからだに触れた。


 そう。触れただけ。

 だが次の瞬間、獣は全身から火を噴きだして燃え上がった。


 ――やれやれ、間に合ったか。


 実資が胸を撫でおろしていると、ふと御簾の陰から庭先を眺めている女房の横顔が目に入った。

 これといって特徴のない普通の女房だが、目に深い知性の輝きがある。

 花山天皇の侍講であった越後守為時の娘。なるほどあれ程の力ある書き手はそうはあるまい。


 おそらくは。

 道長が依頼したのではなく、安倍晴明があの化生を迎え撃ち確実に仕留めるためにこの場所を選んだのだ。

 あの女房の、『物語』がある、この場所を。


「遅いではないですか、紫殿!一時はどうなることかと……」

 興奮のためかいささか無遠慮な行成の言葉に、女房は扇を広げて顔を隠した。

「何しろ量が膨大にて、準備に手間がかかりました」

 そんな晴明の言葉を聞き流しながら、実資もさすがに納得せざるを得ない。


「なるほど、あれが噂の『源氏物語』か」


 強い、わけだ。


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