九、
広間に並べられた膳はいつもより品数が多かった。祝うことでもないと思っていた一閃だったが、下男夫婦と佐吉が張り切ったらしい。
田助となつがほくほくとした笑みを浮かべ、佐吉は温かいものを、と汁を椀によそっていた。
「猪肉の糀もみです。ももんじやで買ってきましたよ」
糀を揉み込まれた猪肉はよく焼けていい匂いがする。汁も具だくさんで野菜が入り、漬物も種類が多い。麦を混ぜた米が多くもられている。
上座にかけ、膳を前にすると一閃の腹がまたきゅう、と音を立てた。
「食べられるか?」
「もちろんです。空腹でなりませんよ」
道元の言葉に一閃は首をかたむけた。朝は塩と水しか口にしていなかったのだ。空腹でたまらない。しかも肉まで出されては、腹の虫は一層やかましくなるのだった。
「いただきましょう」
手を合わせ、食事を始める。一閃は真っ先に猪肉を口に含んだ。猪肉は糀も相まってやわらかく、良い味が口に広がる。
しかし噛むほどに違和感を覚えた。
美味である筈の肉を無理矢理飲み下したとき、一閃は血の気が引いていった。青ざめる顔を押さえ、一閃は口を押さえ廊下へ飛び出した。
居間から何事かと動揺する佐吉たちを制する道元の声が一閃の背中に届いたが、それを気にしていられなかった。
居間から離れ、縁側から庭に顔を突き出し、一閃は嘔吐した。先ほど口にした肉が、胃液と共にべしゃりと落ちる。
一閃の手は震えていた。
その手に血がべたりと着いているように見えた。震えの原因を理解し、一閃は柱を思い切り殴りつける。
「今さら……ッ!」
いくども柱を殴りつけているうちに、手の血の幻は消える。しかし震えは止まらない。
一閃は何度も何度も、それこそ本当に血が出るまで柱を殴った。今頃になって人を斬ったことの嫌悪感とおぞましさにからだが震えだしたのだ。
この先、人を殺める度に嫌悪とおぞましさに苛まれるのか、と思う。
「一閃様」
背中にかけられた声に振り返れば、申し訳なさそうな顔をした佐吉が水差しを持ち、立っていた。膝を折り、水差しを一閃に差し出した。
「どうぞ、お口をすすいてください」
「ありがとう……」
受け取った水差しで口に水を含み、庭に向かって吐き出す。数度繰り返して口内からようやく不快感がなくなった。
佐吉の差し出した手ぬぐいを受け取り口元をぬぐう。一閃が視線をやれば佐吉は目を伏せていた。
「……気が利かずに申し訳ありません。一閃様がよろしければ具の少ない汁物を用意いたします」
一閃もまた黙したまま顔を伏せててしまう。佐吉たちの祝の気持ちを壊してしまったような気がして、一閃は酷くいたたまれない。
痛いほどの沈黙ののち、先に動いたのは佐吉だった。
「失礼します」
そう断りを入れてから、佐吉は一閃の背に手を回し、ゆっくりとさする。
「一閃様……お辛いときはどうか佐吉に……佐吉はここに居ります」
一閃は唇を噛んで息を呑む。
父母にもではあるが、この二年、佐吉にもよく働いてもらっていた。家を継いだ姉夫婦が殺されたことは勿論、仇討ちのために妹が当主代理となったということはそれなりに知られてしまっている。
花房の家に仕える者として、好奇の目にさらされているにもかかわらず、いつも明るく一閃を迎え入れてくれていた。
鼻の奥がつん、と痛くなる。情けない顔になってしまいそうで、その顔を佐吉に見せたくはなかった。
「……佐吉、あちらを向いてくれ」
佐吉は一閃に背を向け、一閃はその背に額を押し当てた。スン、と一度だけ鼻をすすったとき、ふと菊之助と最後の帰り道のことを思い出した。
「……義兄上がおっしゃっていたのは、こういうことか」
「一閃様……」
刀の上の道に立てば、見える世界は平穏でなくなる。その手が覚えた人斬りの感覚は、二度と平穏を許さないのだろう。
「(義兄上の危惧する通りになってしまいましたね)」
わずかばかりの時間、一閃はこの二年封じていたものを解いてやる。一閃は佐吉の体温と呼吸でふくらむ背中に生を感じた。
佐吉から離れ、息を長く吐き出してようやく立ち上がることが出来た。
「ありがとう、佐吉」
一閃の表情は凜々しく、引き締まった表情になっていた。
「一閃様」
「腹が減ったよ、佐吉」
「はい」
居間へ戻った一閃は、再び膳の前に座る。
食事を続けている父母は察していたのだろうが、オロオロしている田助となつには申し訳なかった。茶碗をとり、そのまま肉を口に運び、米をかき込んだ。
いつもであればもっと品良く食べただろう。一閃は喉を鳴らして飲み下す。その姿を見て目を丸くする田助となつに対し、冨実と道元は漬物をコリコリと食べている。
一閃は茶碗を空にし、なつに向かって茶碗を差し出した。
「おかわり」
「はっ、はい!」
なつが慌てて茶碗を受け取り、山盛りにご飯をよそる。
「田助、一閃に漬物をもう一皿出してやってくれ」
「へ、へえっ」
道元の言葉に田助が慌てて漬物をとりに台所へ向かう。
一閃は漬物を食べ、肉を食い、米で飲むように食べる。田助が持ってきた大根の漬け物もどんどん口に運ばれ飲み下される。
一閃は米粒ひとつ残さず平らげ、膳に茶碗と箸を戻して手を合わせ、フーッ、吐息を吐き出した。
道元はその様子を見、冨実は茶を飲む。
「……食べられたようですね」
「はい、母上」
「一閃」
「はい、父上」
「侍はな、いついかなる時も食わねばならぬぞ」
「……はい」
はじめからふたりは見透かしていたのだろう。こうして言われると一閃としては少しばかり恥ずかしかった。
やはり未だ自分は未熟らしい。
踏み出した最初の一歩は恥じ入りたくなる物になってしまったのは情けないところである。
「片づけたら風呂屋にでも行ってくるといい。明日より務めぞ」
「はい、ありがとうございます」
膳を田助に任せ、一閃は自分が吐き出した弱さを片づけに行く。
明日より勤めが始まる。
そして一閃はようやく仇討ちのために刀を振るうことが出来るのだ。
剣鬼復讐譚~その女、侍になりて~ 鍛治原 @kazi_utugi
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