【終】僕と君と

池田春哉

僕と君と

「――と、まあこんな感じかな」

「え、終わり?」

「うん、おしまい」


 僕はピリオドを打つように深緑色の表紙を閉じた。格子状のエンボス加工が為された表紙には流れるような銀色の筆記体で『Diary』と刻印されている。

「えー、もっと見たいなあ」

「そんなこと言われても無いものは無いよ」

 手元の日記帳の最後のページ『ペンと、桜』を開いて、ひらひらと見せつける。嘘はついていないはずだ。無いものは無い。

 思惑通りに彼女は勘違いしてくれたようで「もうちょっと頑張ってくれてもいいのに」と悔しそうに言った。僕は安心して日記帳をテーブルに置く。

「でもまさか佐伯さえきくんが日記をつけてるとはね」

 彼女の指摘に、ぎくり、とした。誤魔化すように慌てて理由をでっちあげる。

「いやほら受験なかったから暇だったし」

「バイトとか旅行とか色々あったでしょ」

 目の前でくしゃりと笑う彼女はもう二十六歳だというのに、その笑顔は中学三年生の楠谷くすたにさんと見事に重なった。

 さっきまで二人で僕の日記を見ながら中学生時代を思い出していたからだろうか。彼女は昔『写真は鮮明に思い出すためのもの』と言っていたが、日記も似たような役割を果たすようだ。

「……ま、でも佐伯くんらしいか」

「僕らしい?」

「佐伯くんは常人の枠に収まらない」

「褒めてないよね?」

「褒めてるよ、二刀流の佐伯くん」

 にやりとする彼女はどう見ても褒めているようには見えない。けれど、ただ馬鹿にしているようにも見えなかった。

「でもなんか嬉しいなあ」

 彼女は両腕を上げて伸びをしたかと思うと、ビーズクッションにその背をもたれた。しゃら、と砂浜を歩くような音がして彼女はクッションに包み込まれる。

「嬉しいって?」

「えーだってさあ」

 満面の笑みを浮かべてこちらを向く。

「佐伯くんの日記、私とのことばっかり!」

 彼女は大きな声で叫んだ。そんな大声出して大丈夫か。

 しかし改めてそう言われると、なんだか急に恥ずかしくなってくる。しかしここで黙ってしまうのは僕が照れているという証明になってしまうので尚更まずい。何か言わなければ。

「そりゃねぎまだから……」

 逡巡の後、よく意味のわからないことを言ってしまった。

「うんうん。ねぎまだもんねえ」

 彼女のほうも訳の分からない返事をしながら何度も頷く。ま、嬉しそうだからいいか。

「よーし、気分がいいからこれをあげよう」

「ん?」

「早起きしたからドーナツ作ってたの。佐伯くん朝ごはんまだでしょ」

 プラスチックのタッパーを開けると、ベージュ色のドーナツがずらりと並べられていた。先程より濃厚なバターの香りが空腹を刺激する。そういえば今日は起きてすぐ日記の話になったから朝食を食べ損ねていた。

「でもなんでドーナツ?」

「なぜか無性に食べたくなっちゃって。え、佐伯くんもドーナツ好きだよね?」

 どこでそう思ったんだろうか。いや全然嫌いじゃないんだけど。

「いただきます」

 タッパーからドーナツをひとつ摘まんで口に運ぶ。ひとくち齧れば口の中いっぱいにバターの香りと主張しすぎない甘味が広がった。中にはチョコチップが入っていて、カリカリとした食感の違いも楽しい。

「おいしい?」

「世界一おいしい」

 僕が即答すると、彼女は満足そうに笑った。

「佐伯くんが幸せそうで私も幸せだよ。推しの幸せは私の幸せだからさ」

「いや推しってなんだよ」

「最推しだよ?」

 自分もドーナツを齧りながら小首を傾げる彼女は冗談で言っているわけではなさそうだった。そういうことじゃないんだけど、これ以上言っても伝わらなさそうだ。

「ふう、ごちそうさま」

「お腹いっぱいだね」

 膨らんだお腹をさする彼女を見ながら、僕は空になったタッパーの蓋を閉める。パチンと心地いい感触が指先に伝わった。立ち上がり、空のタッパーをキッチンに置きに行く。

「その日記、これからも続き書くの?」

 キッチンから戻ってくると、彼女はテーブルに置かれたままの日記帳を見ながら尋ねた。僕はすぐに答える。

「いや、もういいかな」

「えーなんでよ」

 不満げに唇を尖らせる彼女。彼女の背面のワイヤーネットには何枚もの写真がつるされている。

 バイト代で購入した一眼レフカメラを首にかける彼女。陸上の全国大会で表彰台に上がる僕。正門の石柱の前で並んで笑う二人。スイカを齧りながら笑う二人。サンタとトナカイの格好をして笑う二人。

 他にもたくさんの場所で、たくさんの笑顔を見せる僕たちの写真が飾られていた。

「必要ないからだよ」

「?」

 不思議そうに首を傾げる彼女。

 これは君が同じ高校に入れなかったときのために書いてたから、なんて言ったら彼女は笑うだろうか。いや怒るかもしれない。

 結局は僕の皮算用で済んだけれど、怒られたくはないので僕は話題を変えた。

「まあまあいいじゃん。それよりさ、今日はどこに行く?」

 僕はそう言って窓のほうを見る。白いレースカーテンの隙間から見た空は雲ひとつない。まるで僕たちの日常を祝うかのようだ。

「そうだなあ。天気いいしちょっと歩きたいね」

「じゃあ近くに良い公園があるよ。大きい池があってさ」

「お、いいねえ。綺麗な写真撮れそう」

「そんなのわかるんだ。写真部だったから?」

「私の第六感がそう言ってるの」

 彼女は一眼レフカメラを鞄に入れながら笑った。僕は変わらない笑顔に苦笑しながらその鞄を肩にかける。

「行こう」

 僕はパーカーを羽織る。彼女はカーディガンに腕を通す。玄関に向かい、スニーカーを履こうとしてよろける。シャッター音が聞こえる。スマホのフラッシュが瞬く。僕は怒る。彼女は笑う。扉を開ける。

 目の眩むような青空が僕たちを出迎えた。けれどすぐに目が慣れて「眩しいなあ」と顔の前に手のひらを掲げる彼女を見つける。

 その手のひらを僕の手のひらで包んだ。眩しいって、と聞こえたが、手が振り払われることはなかった。

 そのまま僕たちは並んで歩き出す。互いに片方の手を塞いだまま明るい道を歩いていく。もう片方の手は、いずれ現れる大切なもののために取っておこう。手はふたつしかないんだから。

「……ところでさ」

「ん?」

「いつまで僕のこと『佐伯くん』って呼ぶの?」

 ねえ佐伯さん、とわざとらしいくらいに名字で呼ぶと、彼女はばつの悪そうな顔をした。

「だって呼び慣れてるんだもん」

「でもこのままじゃ混乱しちゃうよ」

「わかってるって。さすがにこの子が生まれるまでには変えるから」

 彼女は膨らみはじめた自分のお腹に優しく手を乗せた。僕も空いている手でそっと触れると、服越しにやわらかい温度を感じる。

 ――不意に僕の頭の中で、テーブルに置かれた深緑色の表紙が開いた。

 優しい風に撫でられるように、ぱらぱらと一枚ずつめくられていく僕たちの青春の日々。紙面いっぱいに書き記された僕と彼女の毎日。青天が差す光に照らされた天板の上で、幾枚もの時間が緩やかに、確実に過ぎていく。

 そうしてやがて日記帳は最後のページに辿り着いた。けれどまだ終わっていない。

「……ねえ楠谷さん」

 僕はあの頃と同じように、彼女を呼ぶ。

 触れた手に伝わる温もりを優しく握りしめながら。

「幸せになろうね」 

 風が吹く。白いレースカーテンが揺れる。

 ゆっくりと捲られた最終ページの裏面には、短い一文が記されていた。 



 ――僕と君とで、最強の二刀流。



(了)

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