真夜中のジョージ

人生

 月を君にたとえたら




 今夜は満月――夜空にぽっかりと穴が開いているかのよう。


 まるで僕の心のようだ。



「苦しい……」



 今から十数時間前、あるいは十数時間後には、地球の裏側の人たちもこの光景を目にしているだろう。

 しかし、誰もが月を眺めることが出来るけれど、もしかすると月の方は見られるのが苦手なのかもしれないね。夜ごとにそのかたちを変えるのも、きっとそういうことなのだ。


 恥ずかしがることはない、今この瞬間、この光景を見ているのは僕だけだから――



「うっ、頭が――」



 月といえば、有名な逸話がある。夏目漱石が、「I Love you.」を「月がきれいですね」と訳したという話だ。事実かどうかはさておき、日本人の風情や奥ゆかしさを感じさせる、よく知られた話。告白の台詞としてはお洒落だが、それで伝わるほどの仲であることが前提だし、そうでなければ相手にそれなりの学がなければ意味がない。何気なく「そうですね」なんて返したら、合意だと思われてしまうだろう。それはある種の詐欺かもしれない。


 でもそうやって、時には誰かに騙されたい、そんな夜もある――



「頭の中で、声が……」



 月の光が優しく照らす。真夜中に凍える心をそっと癒してくれるようだ。


 太陽は直視できないが、月は違う。あそこに広告を出せば、世界中のほとんどの人たちに宣伝できるだろう。しかし、言葉では難しい。世界中の様々な言語を網羅する訳にはいかないし、そもそも文字を描いたとして視認できるかは怪しいところ。やるならシンプルに、会社のロゴマークにするべきだ。アイコンである。アイコンタクトじゃないよ。まあそちらでも、そうしたボディーランゲージの方が時に、言葉より確実に意図を伝えることが出来る。


 愛してるなんてありふれた言葉では、僕の孤独は癒せない。

 今すぐ君のハグが欲しい――



「も、もうやめてくれ……恥ずかしいポエムを考えないでくれ……」



「どうしたんだい、ジョージ? とってもセクシィじゃないか。早く彼女に伝えたくて仕方がないんだろう?」



「やめろ、俺の頭の中から出て行ってくれ……!」



「あぁ、出ていくよ、すぐに出る。あぁ、出ちまうよ。ぶっ放すぜ――送信!」



「うわああああああああ!」




                   ■




「という感じの、真夜中に一人で恥ずかしいことをしている人のお話でした」


 その日、両親不在の実家に、クラスメイトの女の子が夕飯を作りに来てくれた。

 食事をしながら、彼女の考えた小説を聞いていた。


 二人きりのダイニング。かちゃかちゃと食器の音だけが響く。

 外は嵐。窓を打つ激しい雨音と、叫びをあげる風の音。事件でも起きそうな陸の孤島。


 お互いしばらく何も言わず、黙々ともぐもぐしていた。


 やがて、彼女が口を開く。


「面白い物語っていうのは、行間を読ませるものだと思うんですよね。文章の余白じゃないですよ。深みがあるというか、奥深いというか。豊富な語彙、巧みな比喩、暗喩……そういう物語が、いつまでも語り継がれていくものなんです」


「……たとえば?」


 気まずい沈黙から逃れたくて、とにかく彼女の話を促す。


「御伽噺や童話です。たとえば、『桃太郎』。おばあさんが川で拾ってきた桃、そこから生まれた桃太郎が、犬・猿・雉を引き連れて鬼退治をするお話ですね。……なぜお供は犬・猿・雉なのか? というのも、風水では丑と寅の間の方角(北東)を鬼門というのですが、この犬・猿・雉は十二支の戌・申・酉――鬼門に対する裏鬼門の方位になるんですね。つまり、アンチ鬼属性の動物という訳です」


「へえ……」


「そして、鬼。鬼のパンツはトラ柄というのが有名ですが……それも、鬼門の丑と寅に関係します。牛のような角と、寅の腰巻きという訳ですね。桃太郎にはそうした裏設定があるのです。それから――おばあさんが桃を拾ってきたという話も、若い娘を拾ってきて子どもを産ませた、という説も。桃=若い娘の暗喩なのです。また、桃を食べて若返ったおじいさんおばあさんの間に産まれたのが桃太郎という説もあります。桃がぱっかーんと割れて、桃太郎が現れる――母親から赤ちゃんを取り上げた、という比喩なのですね」


「……ぱっかーん……」


「はい、ぱっかーんです」


 どうしよう、そこはかとなく気恥ずかしい。


「このように、言外に性行為を思わせる作品は数多くあります。匂わせですね。夜の運動会って表現がありますが、常識的に考えて夜に運動会なんてしませんよね。そうやって馴染みのものに置き換えて、表現する――巧みな比喩、暗喩です」


「夜の運動会……」


「童話でいえば、ラプンツェル。塔の上に軟禁されていた彼女が、魔法使いによって放逐されたのも……一般には、密かに王子を塔の中に招き入れていたため、とされていますが、実際にはラプンツェルが王子との間に子どもをもうけてしまったためなんですね。つまり、やっちゃった訳です。だから保護者は大激怒。その辺の描写はカットされていますが――これがいわゆる、朝チュンですね」


「朝チュン……」


「良い雰囲気の男女が夜を一緒に過ごす――そして次のシーンではもう、場面は朝。ゆうべはお楽しみでしたね、と行為があったことを匂わせる。直接的な描写はせず、行間を読ませる訳です。……日本人は直接的な表現を避けがち、本音を隠しがちなんです。察してもらいたいんですね。だから忖度なんて言葉があるんです。奥ゆかしい、慎ましいと美化できることばかりではないですね」


「そう、だね……」


 ……他に誰もいない、十代の男女が二人きりのこのシチュエーションでするような話題だろうか。


「話を戻しますが、先の『月がきれいですね』も、月がきれい=良い雰囲気、ということになります。夜、良い雰囲気の二人……このままどうですか? 朝まで。みたいな感じでしょうね。元が『I Love you.』ですからね、その後の行為を予感させます。直接は描写しない……それが、その文章を魅力的にするんでしょう。昨夜はいつもより睡眠時間がとれなかった、等と続けて、行間を読ませる……」


「それで――つまり、さっきのお話にも、そういう……深い、意図が……?」


「察してください」


 察しろと言われても。


「今夜は、お一人ですよね? 私が帰った後、なにをするのかなー、と想像して、考えたお話です」


「…………」


 それも一つの比喩なのか。


「夜って、みんなそういう気分になると思うんですよね。私もそうです」


「え」


「ポエム」


「なんだ……」


「今、何か想像しましたよね? つまりは、そういうことです」


「え、何が?」


「今夜は月がきれいですね」


「え? 外、大雨だけど。曇天だけど。真っ暗だけど」


「帰れませんね、どうしましょう、私。一人でびしょびしょになっちゃいます」


「…………」


「…………」


 再び、沈黙。


「デザートはいかがですか?」


「え? 何かあるの? 買ってきた?」


「察してください」


 女の子との会話って難しいなぁ。


「お夕飯をつくってあげた、お礼を期待しています」


「そうですか――この嵐のなか、スイーツを買いにいくのはちょっとなぁ」


 いい加減かわすのも難しくなってきた。


 ……いや、別に俺の考えている通りとは限らないし……。仮にそうだとしても、まだ心の準備が――


 俺はもごもごと、


「なんとかと秋の空って、いうじゃないですか。今は雰囲気に流されて、いっときの感情で、そういう気分になってるだけかも。こういうことは、もうちょっと段階を踏んでから、」


「段階を踏んだから、『月がきれいですね』なんじゃないですか?」


 確かに、まあ、今のこの状況は段階を踏んだからこそ、なのだろう。ただのクラスメイトの女の子が男の家にわざわざ夕飯を作りにきてくれるなんて、ありえないのだし。


 しかし、雰囲気に流されていいものか――そうやってうやむやにしているうちに夜が更けていって、朝を迎えるのかもしれない。あるいは雨が止んで、一人になって、あの時こうしていればと後悔するのかも――真夜中は、悶々とするものである。


 心細くなるような嵐の夜。誰かといたい、そんな気分なのかもしれない。



「明日は遅刻するかもしれないけど、それでもいいなら」



「それはとっても、良い比喩イケナイコトです」



 草木も眠る丑三つ時、月明かりが照らすのは、夜更かしする悪い子二人。


 朝がこなければいいのに、と彼女は言う。

 なぜ? ――明日からは、少し進んだ関係ふたりになるのに。


 だって、恥ずかしいから。


 何を今更。思わず笑う。


 ――誰かの隣で朝を迎える。たまにはそんな日があってもいい。


 今日はいつもより、君との時間が長くなる。



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