声の届く距離

佐古間

声の届く距離

 かたり、と扉の閉まる音がした。ぱち、電気のスイッチの音。ぼん、とソファに荷物を放った音が続いて、それから、がたがたとイスを引いたり、戸棚を開けたり。

 お、帰ってきたな、と思いながら缶ビールを口に寄せた。春先の夜はまだ寒い。部屋のコンセントから電気を引っ張ってきたヒーターが、じんわりと熱をあててくれていたが、ビールを持つ手はすっかり冷たくなっていたし、顔はキンと凍えるようだった。

 がらり、と、戸が開く。隣の部屋のベランダである。

「お隣さん、います?」

 それからひっそりとした声がかけられた。「いますよー、お先してます」と返事をする。ついでに、見えないと知りつつも缶ビールをふらりと振った。たぽん、と、半分ほど残ったビールが缶の中で踊っている。

「今日も寒いっすねぇ」

「そうですねぇ」

 それから、隣のベランダでぷしゅっと小さい音が鳴る。

 すっかり聞きなれた音だ。続けるように、「でも、春ですねぇ」と呟いた。



 日付の変わった深夜帯に晩酌をしようと思い至ったのは、気分転換に過ぎなかった。

 絵に描いたような満月の夜で、雲はひとかけらも浮かんでおらず、風もなく静かな夜だった。

 缶ビールをひとつと、玄関からサンダルを一足持ってきて、ハロゲンヒーターを自分に向ける。ベランダの扉をからりと開けて足を出せば、冷たい空気がつま先を撫でた。

 フリーランスで少しばかりデザインの仕事をしている。駆け出しの頃は仕事もそれほど多くなく、足りない収入をアルバイトで補っていたものだが、ここ数年は軌道に乗って、デザインの仕事だけで何とか食べていけている。

 仕事が軌道に乗ると、少しずつ受注件数が増えて行って、寝食を忘れて机に齧りついていたことに自分で気づきもしなかった。

 機械になったようなつもりで仕事を回していたが、ある時目の前のデザインがひどくつまらなく感じて、それで、糸が切れた。

 すべての仕事をストップさせて、体と心を休めることにした。

 自分は機械ではなかったし、寝食を犠牲にして生み出されたデザインが、何の魅力もなく評価もされないんじゃ、あまりにも自分が浮かばれなかったから。

 真夜中の晩酌を思いついたのはそんな時だった。

 お休み期間に入って一週間。体を労わるため禁酒していたのだが、丁度満月で、あまりにもまんまるの月で、気持ちの良い、静かな夜だったから。たまにはいいだろう、ベランダを開けて月見をするくらい、近所迷惑でもないだろうし、と。

 かたん、と、音がしたのはその時だった。

 続けて「うわ、さぶ」とひっそりとした声が漏れる。思わず隣のベランダに続く、仕切り板を見た。かしゅ、と、炭酸飲料の缶を開けた音が響く。お隣さんが、同じように、月見をしている?

(――ていうか、隣の人いたんだ?!)

 驚いたのはそこだった。

 フリーになる前は空き室だった隣室に、誰かが住み始めたことに今、初めて気が付いた。そういえば物音がしていたような気もしなくもない。集中すると音が聞こえなくなるので、全く覚えていなかった。

 缶を開ける音が聞こえてから、しばらくは隣も静かだった。綺麗な満月を見ているのかもしれないし、他の事をしているのかもしれない。

 普段だったなら――少なくとも休む前だったなら――絶対にしなかっただろうが、その日、こんな真夜中に、同じようにベランダに出る人がいることに妙な感動を覚えて、気が付いたら声を上げていた。――「あの、」

 仕切り板越しに声がかかったことに、お隣さんは動揺したようだった。「えっ、誰?」とすぐに声が返ってくる。結構若い声だ。少し高いが、男の声。

「急にすんません、隣の者です」

 仕切り板越しにお隣さんがきょろきょろと首を回している様子が浮かんで、慌てて名乗る。ぴたりとこちらを見たのを雰囲気で感じた。

「あ、ああ、隣の……すんません、ご挨拶できてなくて。先月越してきた者です」

 顔、見えませんけど、と、互いに乾いた笑いを漏らして、形ばかりの挨拶をした。最初に名前を告げなかったので、お隣さんも名前は言わない。

「いつもこの時間にベランダで?」

 なんとなく会話を続けたくなって、問うた。先ほど出てきたときの様子が、慣れているように思えたのだ。お隣さんは一瞬言葉に詰まると、「寝つきが悪いもので」と返事をくれた。

「そちらさんは?」

「いやあ、仕事に詰まりまして、気分転換でもと」

 暗に今日初めて出たのだと伝えると、「そうなんですか」とお隣さんはそれきり黙った。

 何の仕事をしているかとも、どうしてこんな時間まで起きているのかとも、何も聞かれない。同じように、何も聞きはしなかった。ぽつぽつと、互いの存在を認識しながら、「今日の月、すごい丸ですね」とか、他愛のない会話をする。

 不思議な時間だった。

 その、不思議な時間は三十分ほどで終了した。お隣さんが立ち上がって、「それじゃあ、明日も仕事があるので」と部屋に戻っていく。

 会話をした流れで挨拶をしてくれたのだと理解した。だから、「おやすみなさい」と声をかける。顔が見えないのに仕切り板を見てしまうのは、声のする方と会話をしたかったからだ。

 ふふ、と、お隣さんが笑った気がした。がらりとベランダの戸が閉まる。

 それが、お隣さんとの奇妙な晩酌のはじまりだった。



 隣の部屋の物音なら多少は響いて聞こえる部屋だ。

 お隣さんの生活は大体いつも同じだった。朝早い時間に家を出て、日中家にいることはほとんどない。夜は深夜近くになって帰ってくる。帰宅後すぐに晩酌のためベランダの戸を開けるが、いつも三十分ほどで戻ってしまう。その後はシャワーを浴びて寝てしまうようなので、そこから朝まで、隣の部屋から物音はしない。

 少しばかりストーカーみたいだ、と、思わなくもなかったが。一日中部屋にいると否応にも聞こえてしまって、それがなんとなく嬉しかった。見知らぬ他人で、顔も、名前も知らないただ「お隣さん」なのだが、まるで古くからの友人のような気さえした。

 真夜中にベランダで晩酌することが自分でもなんとなく楽しみになって、気が付いたら同じようにベランダで過ごす時間が出来ている。最初はベランダから足を出すだけだったのが、いつの間にか折り畳みのチェアを買い、ブランケットを用意して、ランタンを置いた。狭いベランダだったが、今は憩いの場になっている。

 その内気力が回復したので、緩やかに仕事も再開させた。お隣さんと晩酌を共にした翌日は、不思議と頭がすっきりして、良いアイディアが生まれるのだ。

「お仕事忙しそうですね。いつもお疲れ様です」

 労いの言葉をかけながら、今日も仕切り板に向かってビールを掲げる。最近見つけた、地元のクラフトビールである。ペールエールの軽い味わいはあっさりしていて飲みやすい。まだ少し肌寒さは残るが、春の到来を感じさせる今日の夜に似合う酒だった。

「いえいえ。お隣さんも、今日もお疲れさまでした」

 仕切り板越しに返事が来る。お隣さんの声は普段通り、少し疲れを含んだ優しい声だ。

 正直に、お隣さんの正体が気にならないかと言われれば嘘になる。どんな顔をしていて、なんていう名前で、どんな職業なのか、興味もあるし、実際に友達になりたい。いい大人が隣人を捕まえて「友達になりたい」など少しばかり気持ち悪いが、ただ、やろうと思えばできることを、やってしまおうとは思わなかった。

 お隣さんの正体を知るよりも、穏やかな夜を共に過ごす方が好ましくて。

「いつも遅いですけど、無理されてませんか」

 どうしても気になることと言えば、お隣さんの帰宅の遅さだ。

 朝もそれなりに早く出ているのに、いつも日付が変わる頃に帰ってきている。決まった休みもないようなので、きちんと休めていないのではと心配になった。

 なんとなく、そう、なんとなく。死んだように働いていた、自分を思い出してしまって。

「ああ、大丈夫ですよ。その、忙しい仕事ですが、やりがいもありますし」

 ありがとうございます、と隣から返事をされる。そう言われれば黙るより他なく、元より口出しできることでもなかった。

「その、こんなことを言うのは変かもしれないんですけど」

 代わりに言葉を探す。

「こうして他愛もない話をする時間、気に入ってまして。その、創作意欲が出るというか」

 正直に、自分の事を話したい気持ちもあったが。

 そうしてお隣さんを暴きたいわけではなかったので、やんわりとした言葉で誤魔化す。「迷惑だったらすみません」とは、弱気が吐いた言葉だった。

「いえ、迷惑じゃないですよ。とんでもない」

 ただ柔らかい声が、宥めるように「俺も好きですよ」と告げた。

「ずっと、一人だったんで。誰かと一緒に夜を過ごすのは、いいですよね」

 驚いて仕切り板の方を向いた。緊急時には蹴破れるほどの、薄い板だがお隣さんの姿は見せてくれない。

 優しい声色だったが、どこか影を含んだ声だった。思わず立ち上がる。包まっていた毛布が落ちて、ぽとりと、コンクリートの埃が舞った。

「お隣さん?」

 不安に思って声をかけた。いつも座っていたから、立ち上がると夜のベランダは急に違う場所のように感じられた。仕切り板、覗き込もうと思えば、隣の方まで覗けそうな、

「おっと、それじゃあ、今日はこれで」

 お隣さんは何でもない様子で声を上げた。ごそごそと片付ける音がして、がらりとベランダの戸の開く音。

「お、おやすみなさい……」

 挨拶するのが精一杯で、仕切り板を凝視しても、結局隣を覗くことはできなかった。

 完全に隣が静寂に包まれてしまうと、急に一人取り残された気になった。毛布を落としたから体が寒い。空を見上げた。

 今日はそんなに丸くない。妙なざわめきが胸中を渦巻いていた。

(好き、なのかなあ……)

 何が、とも、誰を、とも、自問することはできなかった。ただ姿の知れず、声だけで知る人を。

(どちらかというと、恋しい、か?)

 持ったままだったビールを一口飲んだ。

 今は少し軽い味、が、恨めしいほど飲みやすかった。

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