星空と赤い眼

示紫元陽

星空と赤い眼

 夜空には春、夏、冬に巨大な三角があるが、私は『春の大三角』が好き。しし座のデネボラ、おとめ座のスピカ、うしかい座のアルクトゥルス。南を仰ぐと天に見える正三角形。私の周りだけかもしれないけれど、夏や冬に比べて認知度が低いのが悲しい。唯一黄道十二宮が二つも含まれているというのに。さらに北にあるりょうけん座のコル・カロリと結ぶと『春のダイヤモンド』にもなることはもっと知られていないだろう。ダイヤモンドの名の通り、あれほど美しい図形が出来上がるのに勿体ない。

 もう一つ、春の星が好きな理由がある。それは、北斗七星の柄杓の先からアルクトゥルス、スピカへとなぞると出来上がる『春の大曲線』。この曲線が本当に綺麗なのである。適当に星を選んで曲線で結ぶことは出来るが、円弧に近くなることはまぁ難しい。それが有名な星々で成り立つなんて、夜空が起こした奇跡ではないだろうかとさえ思う。

 そんないくつもの図形の核にあるのが『春の大三角』である。夏の七夕のような有名な伝説はないし、冬のオリオン座のように万人の目を引く星座ではないかもしれないが、春を飾るその姿は他の天文図形に引けを取らないと、私は思う。

 月が下弦を過ぎていたから、深夜に南を向けば美麗な三角形が天高く張り付いていた。梢を抜ける風が腰を下ろしたくさむらを揺らしている。道端に木蓮があったから、日中ならばいい香りがしたかもしれない。今は緑色の匂いしかしないから少し残念に思う。

 丘の上にある公園は森閑としており、冷たい空気が肌に気持ちいい。煮詰めた濃紺のような空には星が瞬いている。遠くの稜線から視線をゆっくりと下ろすと、麓から手前にかけて黄色い照明がちらほらと盆地に広がっている。動く光はおおかた車だろう。傍を走ればうるさいだけなのに、距離を置くだけでこうも綺麗な帯に見えるのだから不思議なものである。

 一度瞼を閉じて耳を澄ませてみると、枝葉が擦れる音とひゅうという風の音だけが辺りを包んでいる。鳥の鳴き声はおろか、虫の音さえも聞こえはしない。まるで自分が切り離された世界にいる気分になった。心が透明で涼し気な色に染まっていくような気もした。

 そんな風に夜に身を委ねていると、ととと、と草を踏む音が聞こえた。驚いて目を開けると一歩ほど先を黄色い眼がこちらを見ていたため、気味悪く感じて一瞬身をすくめたが、ランタンを掲げると四つ足と三角形の耳、それにくるりとした尻尾が見てとれたので、すぐにそれが猫だと分かった。

「君も迷子?」

 話しかけると、突然の来訪者はのそりのそりと私の方へ歩いてきた。品定めするように私に目を据えている。態度の大きいことこの上ない。猫は私の傍まで来ると「みゃお」と鳴いて座った。

「ごめんね、エサは持ってないんだ」

 喉を掻いて頭を撫でてやると、猫は私の言葉を理解したのか、己の脚を舐めてからすたすたと立ち去ってしまった。その後ろ姿が闇に消えるまで目で追い、とうとう見えなくなったところで私はごろんと仰向けになって再度星空を仰いだ。しし座の台形と大鎌が見える。もう少し北の方を見ると、やはり見事な北斗七星があった。そのまま北極星まで空の道をたどる。今は見えないが反対側にはカシオペアがあるだろう。

 願わくは、カンパネルラとジョバンニみたく夜空を散歩してみたいと思う。いやあれは散歩ではなく鉄道の旅か。

 春夏秋冬を巡って、また春に返ってくる。花や気温の移り変わりもちろん素敵だが、星めぐりだって負けちゃいない。気をつけていなければ通り過ぎてしまうが、雲さえなければ数多の光の点は必ず天球に刻まれている。

 どうしたって届かないところがまた良い。星は、少なくとも今の人にはどうしようもできない。夜の天井に描かれた絵は、いつだってそこにあるし変わらない。そりゃあ人工の明かりが多くなって見える星が減ったことは確かだろう。それこそ人間が変えたことだと言われても否定はできない。だがそれでも、こうやって一歩町から出ればいつだって星は存在する。

「あ、流れた」

 そういえば、そろそろおとめ座流星群の時期である。近年は衰退したと言われているらしいが、もしかすると今のはそれだったかのかもしれない。何にせよ流れ星が見られたのは幸運だった。

「あぁでも、願い事しなかったな」

 願い事なんて無いのだけれど。溜息を吐くと草土の匂いが鼻をついた。

 胸いっぱいに空気を吸い込めば、夜に溶けていく感覚を覚える。そうやって世界と一体になっていると、微かに煙の臭いがした。こんな夜中に焚火でもしているのだろうかと勘繰るが、考えたところで分かるはずもない。まさか山火事でもあるまいし、このまま静かに過ごそうと思って目を閉じる。しかし、その時『彼女』が現れた。

「まぁた独り」

 頭上からかけられた透き通るような声にびくりとして目を開けると、黒髪を後ろで一つに束ねた赤い眼の女が立っていた。桃色の口元は薄く笑っている。

「淋しくないの?」

「私はいつだって淋しいわよ」

「あら、詩人ね」

 チヒロは私の横に腰を下ろし、手を後ろについて足を投げ出した。

「何しに来たのよ」

「ずいぶんな言い方ね。せっかくこれ持って来てあげたのに」

 言いながら、チヒロはどこからともなく小瓶を取り出して私の顔の前で揺らした。白い手につままれた首の部分から瓶底にかけてが、ランタンに照らされて煌めいている。薄紫色の硝子らしかった。

「え、あぁ、もうできたの? ありがとう」

「どういたしまして。でも、こんな物ない方が良いと思うんだけどなぁ」

 チヒロは顎に指を当てて理解できないというような顔をした。そうして美しい赤い眼で私を見下ろす。

「やっぱり忘れちゃった方が楽だったりしない?」

「そうかもしれないけど……。まぁこれは私の自己満足ね」

 私も彼女を見返して言うと、チヒロは「そっか」と呟いてからうんと伸びをした。そのまま後ろに倒れるようにして仰向けになる。それからしばらくは二人して夜空を眺めた。深い黒の底には尚も星々が静かに輝いていた。

 ふと、夜空は触れると冷たそうだなと思った。確かに太陽はないから冷えているだろうが、そうではなくて、背中に感じている土ようにひんやりしているだろうなと思ったのである。どうしてだろうか。

「あ、流れ星」

 横を見ると、細くて白い指が天に向いていた。彼女の眼よりも幾分暗い赤に塗られた爪がランタンの光を反射している。その手がゆっくりと引き戻され地に着くと、チヒロの口がおもむろに次の言葉を紡いだ。

「どうして貴方なんだろうね」

「何が?」

 私はチヒロの顔を見たが彼女は空から目を離さない。赤い眼の先は分からないが、私も上空に視線を向ける。チヒロは小さく一息吐いて続けた。

「私だったらよかったのにって、ちょっと思っちゃった。かけがえのない友人を持つ貴方より、他人と上手く関われない私の方が適任じゃないかって」

 ちらりと横を見ると、チヒロは頬に右手を当てていた。

「私はこの眼が嫌い。鏡を見る度に自分が他とは違うってことを突き付けられるみたいで、いつもいたたまれない気持ちになる。だからいつも帽子か何かで顔を隠して、奇抜な見た目で自分を誤魔化してる。だから、自然な貴方が本当に羨ましい。でもだからこそ、貴方がいなくなるのは悲しすぎる。私は……もういいから」

 チヒロの眼は濡れてはいなかった。むしろ乾いてすらいるようでいて、瞳に影が差しているように見えた。

「うーん……。まぁ、仕方ないことだからなぁ」

「本当に冷めてるわね」

 私が呑気なことを言うとチヒロは呆れた顔をした。だが、つい今しがた己への嫌悪と諦めを散々口にした彼女に言われるのはどうにも納得がいかない。

「貴方に言われたくはない」

 私が目を細めると、そうかもね、とチヒロは微笑んだ。

 ここに来てから、どれくらいの時間が経っただろうか。春の大三角はいささか西に移動しているような気がする。やや肌寒くなったようにも感じる。と、気が付くと耳元で寝息が聞こえていた。首を曲げると、チヒロの幸せそうな寝顔がそこにあった。

 きっとこの香水を作るために寝る間も惜しんでくれたのだろう。私よりも十分できた人間ではないか。どうでもいいお願いを聞いてくれる優しい心なんて、探してもそう簡単には見つからない。

 不思議な道具を扱っていると言ったって、人の願いを叶えているだけである。だいたい、恐ろしい事態は彼女自身の感知するところではないことが大半だし、もっと性質たちの悪い人間なんて山ほどいる。彼女はたぶん、生まれた場所と時期がたまたま悪かった、ただそれだけの理由で疎外感を抱く羽目になっている。

 だが、私が今まで逢った中で、このチヒロという女性ほど美しい者はいないと思う。

「まったく、風邪ひくわよ」

 私は傍に置いていた鞄からブランケットを取り出し、眼前ですやすやと眠る魔女に掛けてあげた。なぜかまた、春の夜空が冷たく感じられた。


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