第30話(最終話)

30、 

 ドサリ、と背後で物音がした。

 きみは外の景色から目を引き剥がすと、窓を閉めた。

「ちょっとお、またサボってるでしょ。わたしの引越しじゃないんだからね!」

 振り返ると、キャルが腕を組んで睨んでいる。バンダナで頭をまとめ、エプロンをした姿は新居片付ける新妻のように初々しい。不覚にも、一瞬、見とれた。

 部屋の中には雑然と段ボールが散らばっている。あるものは荷を解かれ、別の箱は無造作に積み重ねられている。汚れの浮いた壁と、床の一部が軋むのが気になるが、日当たりだけはよい南向きの部屋だった。

 そこは第四区〈オーゼイユ街〉の東の外れにある雑居ビルで、窓の外には林立する建物を縫って、一本欠けた第七区の巨人たち〈イルーニュ・タワーズ〉が望めるのだった。きみがあそこで遭遇した出来事は、記憶の彼方に紛れつつあった。乳白色の濃霧の向こう側に。

「えーと、あれはどこだっけか」

 わざとらしく、手近なダンボールを漁る。キャルがため息をついた。

「いいわ。休憩しましょう。どうせお昼だし」

 バンダナを取ると、キャルはお湯を沸かしにキッチンへ向かった。

 ーー自分の引越しじゃないって割には、張り切ってるじゃないか。

 きみは胸のうちでひとりごちた。

 会社を辞めて一箇月、きみはこの部屋をようやく見つけた。思い切って独立するためだ。

 新しい我が城は2K。玄関を入ってすぐにトイレとシャワーと一部屋。奥にもう一部屋と、縦長の造りだ。手前をオフィスに充て、奥を私室にしようと考えている。無収入なのに一部屋多い場所に引っ越せたのは、シュゼットのお陰だ。法の裁きこそ受けさせられなかったものの、愛する者の死の真相を突き止めたきみに、思いもよらない報酬を寄越してくれたのだった。もちろんきみは、格好つけずにありがたく頂戴した。

 あの日ーー気がつくときみは古代劇場に横たわっていた。マザランに連れて行かれた隠れ家からどうやってそこに移動したのか、そこでどんな出来事があったのか、きみの記憶はぷっつりと途切れているのだった。ただマザランが、〈敵〉を斥け当面の危機を脱したこと、シスターが任務を終え帰還したことを教えられただけだった。詳細を伝えてもらえなかったことは不満だったが、足が例の昆虫状態から元に戻っているのには心底ホッとした。

 ケイトとアンの連絡先は分からずじまいだったが、きみには二人の行方を捜す余力はなかった。また〈ビヤーキー〉が崩壊した今となっては、彼女たちを狙う者もいない。寂しいがむしろ、二人に連絡を取らない方がいいのかもしれなかった。

 きみの退職のあと程なくして、マザランも会社を辞めたとベリル経由で聞いた。長年、一緒に仕事をしてきたベリルは、連絡先すら残さなかったマザランに憤慨しつつ、水くさいと嘆いている。時間が経つにつれ、きみは一連の出来事が現実であったのかすら覚束なくなってきていた。事件に関わったすべてが、夢のように消え去っていた。

 何もかもがーー。

「ねえ、何が食べたい?」

 キャルのはしゃいだような声で我に返った。

 記憶は消え去ったが、以前のまま、きみの元に残ったものもある。

「そうだな……。なんか適当に買ってくるか」

 それじゃあさあ、キャルがチラシを取り出す。すぐ下の通り沿いにあるテイクアウトの店のチラシだった。

「へえ、そんな店あったけか?」

 ふふん、チェック済みですよ、とキャルは威張った。

「これから、ちょくちょくお世話になるかもしれないし」

「ん?」

「ううん。こっちのはなし」

 きみは胡散臭そうに、キャルを眺めた。彼女は熱心にメニューと睨めっこしている。しばしの熟考の後、おもむろにメニューを指差す。

「決まった。わたし、これとこれのセットね」

 よろしく、とメニューを渡された。「お茶煎れとくね」と彼女が言った。

「俺が買いに行くのか?」

「当たり前でしょ、手伝ってあげたんだから」

 そう言って笑った彼女の顔が、何故かきみの目に眩しく映った。

 きみはため息をついて、玄関ドアを開けた。蝶番の軋む古いドアには、チラシの裏にマジックで描かれた即席の看板が、ガムテープで貼り付けられていた。キャルのしわざに違いなかった。看板にはこう書かれていた。


《ブライチャート&バーデン・インベスティゲイション》


 ありえないね、ときみは呟いた。


                                       了

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