第29話

29、

 叫びの意図を、誰もが図りかねているようだった。少なくともそうであることを切に願った。ほんの少しの間だけでいい。

 キャルヴィン・バーデンーーキャルの本名ーーいかにも男性っぽくて嫌だとこぼしていたーーを呼ばわった瞬間、触腕に捕らわれていたキャルが〈崩れた〉。キャルの身体からあかい煙のように微細な粒子が沸き起こりそれが、砂で作った城が引き波で形を保てなくなるようにザッと流れた。砕け散った〈キャル〉は、口を開けた瓢箪カラバスに瞬く間に吸い込まれた。

 入りきった途端、口は閉じずにキャルの本名の綴りを、逆さに読み上げた。たちまちキャルが吐き出された。そのときすでにわれは、高速で術式を書き換えていた。瓢箪カラバス襤褸らんるを差している。

「シフォック!」

 〈真名ル・ヴレ・ノン〉を疾呼しっこするなり、さっきと同様の、血煙めいたあけの砂嵐が彼奴を取り巻いた。シフォックの輪郭ーーはためく襤褸らんるが、ちゅうに溶け出した。

「オ……オレの〈真名ル・ヴレ・ノン〉を……」

 砂はきらきらと赫輝かっきしながら渦巻き、漂って、その一端はすでに紫金紅葫蘆しきんこうころに吸い込まれている。

 一方、Hasturへと変態メタモルフォーゼしつつあった〈蒼白の仮面マスク・ブルーブロン〉は、そのおぞましい姿を〈こちら側〉に顕そうとするが、襤褸らんるの崩壊速度の方が速かった。

「おのれーー」

 口だった部分が粉々になり咒偈じゅげが途切れた。が、魔力を振り絞った最後の抵抗は発動していた。半ばかたちを失った襤褸らんるの表面で触腕がうねった。蒼白い火花が弾け、旋風トゥールビヨンほとばしる。空気の中に眼に見えない風精ジルフーーいやもっと邪悪でたちの悪い〈風獣〉が潜む魔風である。

 咄嗟に形づくった手印ムドラーが〈風獣〉を反らさなければ、首と躯が切断されていたろう。実際、全方位的に放たれた〈風獣〉は、書き割りの背景を切り裂き火花で燃え上がらせたのだった。

 だが旋風トゥールビヨンは、われの周りを舐めたところで力尽きた。シフォックの最後の魔術的攻撃アタック・マジークは無駄な足掻きに終わった。

 ひときわ大きな波に洗われたようにシフォックの体が一気に崩れた。お・お・お・お・お・お・お・お・お・お・お・んという絶叫。溶けた身体が漏斗に吸い込まれるように集まり、一片のかけらも残さず紫金紅葫蘆しきんこうころに納まった。

 火花が燻らせる書き割りだけが、舞台で唯一の光源となった。その微かな明かりに、打ち捨てられたように転がる〈蒼白の仮面マスク・ブルーブロン〉が浮かび上がった。ただの仮面に戻ったそれが。

 風はもう止んでいた。

「シフォック……馬鹿な子……。〈最も忌まわしい魔法使い〉と遣り合おうなんて」

 立ち上がったクロエが呟く。仮面の傍に立ち、懐から丸めた紙を取り出した。リボンをほどくと、紙面を読み上げる。

「勅令『滅ぼすべきはアド・アボレンダム』に則り、異端審問官クロエ・ソニエールが宣告する。汝らは今に至るまで己の誤謬を捨てることを望まぬ。霊魂の救済よりも永遠の劫罰を選ぶ以上、我らは止む無く汝らを棄て、世俗の法廷に付する。世俗の法廷が固有の判決において流血に居たらざらんことを願うーー」

 シスターのひんやりとした声が仮面の上に降り注いだ。

 物言わぬそれは、もちろん何ひとつ不満を述べ立てはしなかった。

 

「殿下!」

 シスターがわれを呼び止める。

「お教えください……それの……瓢箪カラバスの中身はどうなるのでしょう? マザラン殿のお話では……」

 われは何も言わず、瓢箪カラバスを差し出す。

「自分で聞いて確かめるがよい」

 瓢箪カラバスは飴色で艶があり、年代を感じさせるといえ、ただの木の実であり容器にすぎない。少なくともそう見える。くびれた部分に赤布が結ばれているだけだ。シスターは、おずおずと受け取った。

 耳元に持っていったシスターは、何も聞こえなかったらしくそれを上下に振った。われは何が聞こえるのか知っていた。

 今度はちゃぽちゃぽと液体の揺れる音に混じって別の音ーーいやヴォワが聞こえたようだった。シスターがさっと顔を青ざめさせた。無理もない。中からは、決して聞いてはならないものが聞えてくるのだから。それはーー。


 身を切るような悲鳴だった。

 狂気に蝕まれた哄笑だった。

 耳を覆うような絶叫だった。

 絶え間なく続く囁きだった。

 地獄の責め苦の喘ぎだった。

 浅ましい獣の遠吠えだった。


 それら耳ごと切り落としたくなるような汚穢おわいに満ちたヴォワが、一瞬にして聴く者の耳朶じだにべっとりと貼りつくのだった。

 マザランが容器をシスターからそっと取り戻す。

「これは?」

 シスターが蒼白になる。

「〈無間地獄アビーチ〉だ」

 答えたマザランに彼女が、鋭い視線を向ける。

紫金紅葫蘆しきんこうころの内部は〈無間地獄アビーチ〉になっている。口を向けられ〈真名ル・ヴレ・ノン〉を呼ばれると、その者は吸い込まれる。すると……」

「すると?」

 聞きたくはなかったが聞かずにはおれない、そんな風情でシスターが問う。

「ーー中には死という安らぎからも見放された、永遠の苦しみが待ち受けている。求魂者きゅうこんしゃ霊魂アムは、この紫金紅葫蘆しきんこうころそのものが消滅するまで、永劫の責め苦を受け続けなければならない……」

 そんな、とシスターが血相を変えて、マザランに詰めよった。

「単に封じるだけではなかったのですか?」

 どうやら弟が、如何なる世界にいざなわれたのか初めて知ったようだった。

「封じられるだけとおっしゃったではありませんか! あんまりです! 弟はわたしが責任をもってとあれほど……」

彼奴きゃつは危険な物狂いだ。二度と解き放つわけにはいかぬ」

 マザランが冷淡に遮った。そして彼女に指を突きつけた。

「第一、シスター、あんたは本気で弟を止める心づもりがあったのか?」

 今度はシスターが黙り込んだ。

「どうして彼奴きゃつはあのウェイトレスの存在を知っていた? 弟とニエマンス司祭が互いの存在を認識したのは偶然か?」

 シスターの双眸が、底光りしていくようだった。

「我らを掌で転がして、教会エグリーズにひとあわ吹かせようとしたんじゃないのか? あんたも元はといえば〈ル・ブラ〉だ。心底、教会に忠誠を誓っているわけじゃない」

 顔を背けたシスターが、両手を握り締める。マザランはさらに続ける。

「あいつらの目ん玉を飛び出させるのも悪くはないかもしれん。だがもう、お遊びは終いだザ・パーティーズ・オーヴァー

 もちろん、シスターがすべて裏から手を引いていたわけではあるまい。しかしたった二人の姉弟は、その間で教会エグリーズへの憎しみを育んできたのではないか。二年前、弟を取り逃がしたのも、わざとだったのではないか。積極的とは言わぬまでも、いわば蓋然性プロバビリティの犯罪として。

「では、どうあってもお助けいただけないと?」

「ないね」

「そうですかーー御無礼ごぶれいつかまつる!」

 言うなり、シスターが幌金縄こうきんじょうを放った。まだらくちなわめいたそれは、するすると伸び来たって、マザランの手から紫金紅葫蘆しきんこうころを奪い取った。それ自体が意思を持つかのように、幌金縄こうきんじょうはシスターの許に戻り紫金紅葫蘆しきんこうころをもたらした。

「ぬっ!」

 マザランが歯噛みする。火尖鎗かせんそうを彼女に向けた。

「お待ちを!」

 シスターが後ろに下がりながら、二人を押し留める。

「どうかーーどうかお見逃しを!」

 今まで見たことのない表情かおで、必死に言い募る。

「弟はーーわたくしが必ずや封じます。決して、二度と、このような災禍を起こさせません」

「身勝手だな。もうとっくに犠牲者が出ているというのに」

 マザランが吐き捨てる。

「承知しておりますーーですがーー」

 キッと睨んでシスターは、瓢箪カラバスの口をかざす。

「言うまでもないがーーわれの〈真名ル・ヴレ・ノン〉にそれは反応せぬぞ?」

 しずかに言い聞かせた。

「ええ、ですがキャル様にはいかがでしょう? キャル様の〈真名ル・ヴレ・ノン〉は今お聞きしたばかりです。マザラン殿もです」

 マザランが心持ち下がる。われは逆に一歩踏み出した。シスターが距離を保つ。

「知っているであろうがーーそいつの術式を書き換えられるのはわれのみ。今のそれは正真正銘、単なる瓢箪カラバスにすぎぬ」

 われの助力がなければ、シフォックを中から出すことは叶わない。それはシスターも判っているはずだ。

「ならばーー客席の人間を道連れにいたします」

「おいっ!」

 マザランの怒号で火尖鎗かせんそうの穂先に焔が点った。しかしその必要はなかった。一見、シスターは自棄になっているようだが、そうでないことは判っていた。ため息を洩らす。

「芝居はそれほど得意ではないようだな、シスター・ソニエール。われらを怒らせようとしても無駄ぞ。弟ともども殺してもらおうなどと、そも、虫がよすぎやしまいか?」

 シスターの目が濡れて光る。

 あるいはここで二人を一緒に消し去ることが、後顧之憂こうこのうれいなくまた、慈悲深い行いなのかもしれない。だがやはりそれは躊躇われた。奇妙なことだがわれは、キャルならそうしないのではないかと思ったのだった。彼女は確実に、心の一部に居座っている。それは忌々しいような、くすぐったいような不可解な感覚だった。

 バズ・ブライチャートでもあるまいに。

 われはひとつ頭を振って、考えを廻らせた。

「よしーー。ではこうしよう」

 マザランに耳打ちすると彼は眉をひそめた。

そなたには磐船いわふねを渡す。それで手打ちにしてくれるな」

 マザランがしぶしぶ頷く。我が蒐集品コレクスィヨンの中からある品物を取り出させたのだった。品物を彼女に放った。シスターがそれをキャッチする。

「偉大なるイレク=ヴァド王は、遍歴の最中に〈月世界〉へ赴いた。作家ラヴクラフトの手になる彼の冒険譚には描かれていないが、そこで彼は様々な物を手に入れたのだ。これもその一つ、月世界に古くから伝わる若返りの霊薬ーー変若水をちみづだ」

 それは四角くて偏平なガラスの小瓶だった。半透明の緑色で、表面はところどころ銀化している。古代博物館の学芸員ならば、古代ローマガラスローマン・グラスを思い浮かべただろう。

「若返り……」

 シスターが手の中のそれを見て、譫言うわごとのように繰り返した。

「それはかつてわれが、王ご自身より直接賜ったもの。効果は王のお墨付きだ」

 われは辺りを見回した。ちらほらと意識の戻り始めた観客がいる。

「さて、選んでもらわねばならん。残念ながら何らの咎めなく解き放つわけにはいかぬ。望み通り苦しみなく永遠とこしえの安寧につきたければわれ咒偈ゲアスを浴びよ。今一つは、変若水をちみづを弟に遣い赤子ベベとして育てよ。分かっているであろうが、そなたらには追っ手がかかるであろう。教会エグリーズとはそのような組織だ。逃げ切れるかどうかはそなた次第だ」

 シスターが顔を上げる。双眸そうぼうには決意がみなぎっている。

「もう一度、弟を育て直します。今度は憎しみを育まないように」

 嬰児のシフォックを抱いたシスター・ソニエールの姿が闇に紛れるのを、われらは見送った。

 夜をわたる風が、いつもの柔らかさを取り戻していた。


 補遺ーー。

 

 ジュリアン・カルノーは〈ビヤーキー〉に変化してはいなかったし、友人のクリス・ローランドが化け物だったことにすら気づいていなかった。友人が不幸なビル倒壊事故で亡くなると、母親が心配していた夜遊びは止んだという。

 

 そのクリス・ローランドの母ノナ・ローランドは、古代劇場で勃発した〈爆破テロ事件〉に遭遇し、数十名の市民ともども死亡した(お得意の隠蔽工作だ)。市民は非道なテロを憎み、有能な市長の死を悼んだ。今は息子ともども郊外の墓地に葬られている。新しい市長には、イヌ派のアレクサンドル・マルナル氏ではなく、副市長が就任した。

 

 不幸にも『黄衣の王ル・ロア・オン・ジョーヌ』を目の当たりにしーーしかも生き延びた人びとは、今後もたびたび後遺症に苦しむだろう。悪夢……幻覚……幻聴……妄想……不審……。肉体的にはダメージを負っていなくても、人びとの精神には深いきずが刻まれてしまった。見えない、だが決定的なきずが。

 

 リュシアン・バロー殺害事件は、〈ビヤーキー〉という名の「武装テログループ」が資金稼ぎのために起こした強盗事件に巻き込まれたと判断されたが、被疑者死亡で立件されることはなかった。未亡人ジュリー・バローの心の傷が癒されることは当分はないだろう。しかし犯人の姿が見えたことで、まったくの五里霧中から少しは脱け出せそうだと語った。

 

 警察がそのバロー事件に傾注することを阻んだ元凶である〈血の風車ル・ムーラン・サングラン事件〉もまた〈ビヤーキー〉の仕業と断定された。

 歴史あるサン・ジャン教会は新しい司祭を迎え、再び信徒の信仰を集めている。司祭は人の良い六十年輩の男で、穏やかな人柄が過去のスキャンダルを洗い流している。

 

 ダヴィド・ローランの事故は、拳銃の不法所持で逮捕されたトーマ・アルシェによる犯行と分かり、トーマ・アルシェは殺人容疑で再逮捕された。息子の罪を隠すために死体検案書を偽造したジャン=ポール・アルシェ医師も無論、罪に問われている。

 

 ダヴィドが飲酒をしていなかったことが証明されたことでバズ・ブライチャートは、シュゼット・マルシャンから感謝され、その分報酬も弾んでもらった。

 

 バズ・ブライチャートが〈リヴィングストン・リサーチ〉を退職したあと、支局長のマザランも会社を去った。その後、彼をアントワーヌ市で見た者はいない。

 

 そしてーー。

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