第29話
29、
叫びの意図を、誰もが図りかねているようだった。少なくともそうであることを切に願った。ほんの少しの間だけでいい。
キャルヴィン・バーデンーーキャルの本名ーーいかにも男性っぽくて嫌だとこぼしていたーーを呼ばわった瞬間、触腕に捕らわれていたキャルが〈崩れた〉。キャルの身体から
入りきった途端、口は閉じずにキャルの本名の綴りを、逆さに読み上げた。たちまちキャルが吐き出された。そのときすでに
「シフォック!」
〈
「オ……オレの〈
砂はきらきらと
一方、Hasturへと
「おのれーー」
口だった部分が粉々になり
咄嗟に形づくった
だが
ひときわ大きな波に洗われたようにシフォックの体が一気に崩れた。お・お・お・お・お・お・お・お・お・お・お・んという絶叫。溶けた身体が漏斗に吸い込まれるように集まり、一片のかけらも残さず
火花が燻らせる書き割りだけが、舞台で唯一の光源となった。その微かな明かりに、打ち捨てられたように転がる〈
風はもう止んでいた。
「シフォック……馬鹿な子……。〈最も忌まわしい魔法使い〉と遣り合おうなんて」
立ち上がったクロエが呟く。仮面の傍に立ち、懐から丸めた紙を取り出した。リボンをほどくと、紙面を読み上げる。
「勅令『
シスターのひんやりとした声が仮面の上に降り注いだ。
物言わぬそれは、もちろん何ひとつ不満を述べ立てはしなかった。
*
「殿下!」
シスターが
「お教えください……それの……
「自分で聞いて確かめるがよい」
耳元に持っていったシスターは、何も聞こえなかったらしくそれを上下に振った。
今度はちゃぽちゃぽと液体の揺れる音に混じって別の音ーーいや
身を切るような悲鳴だった。
狂気に蝕まれた哄笑だった。
耳を覆うような絶叫だった。
絶え間なく続く囁きだった。
地獄の責め苦の喘ぎだった。
浅ましい獣の遠吠えだった。
それら耳ごと切り落としたくなるような
マザランが容器をシスターからそっと取り戻す。
「これは?」
シスターが蒼白になる。
「〈
答えたマザランに彼女が、鋭い視線を向ける。
「
「すると?」
聞きたくはなかったが聞かずにはおれない、そんな風情でシスターが問う。
「ーー中には死という安らぎからも見放された、永遠の苦しみが待ち受けている。
そんな、とシスターが血相を変えて、マザランに詰めよった。
「単に封じるだけではなかったのですか?」
どうやら弟が、如何なる世界に
「封じられるだけとおっしゃったではありませんか! あんまりです! 弟はわたしが責任をもってとあれほど……」
「
マザランが冷淡に遮った。そして彼女に指を突きつけた。
「第一、シスター、あんたは本気で弟を止める心づもりがあったのか?」
今度はシスターが黙り込んだ。
「どうして
シスターの双眸が、底光りしていくようだった。
「我らを掌で転がして、
顔を背けたシスターが、両手を握り締める。マザランはさらに続ける。
「あいつらの目ん玉を飛び出させるのも悪くはないかもしれん。だがもう、
もちろん、シスターがすべて裏から手を引いていたわけではあるまい。しかしたった二人の姉弟は、その間で
「では、どうあってもお助けいただけないと?」
「ないね」
「そうですかーー
言うなり、シスターが
「ぬっ!」
マザランが歯噛みする。
「お待ちを!」
シスターが後ろに下がりながら、二人を押し留める。
「どうかーーどうかお見逃しを!」
今まで見たことのない
「弟はーーわたくしが必ずや封じます。決して、二度と、このような災禍を起こさせません」
「身勝手だな。もうとっくに犠牲者が出ているというのに」
マザランが吐き捨てる。
「承知しておりますーーですがーー」
キッと睨んでシスターは、
「言うまでもないがーー
しずかに言い聞かせた。
「ええ、ですがキャル様にはいかがでしょう? キャル様の〈
マザランが心持ち下がる。
「知っているであろうがーーそいつの術式を書き換えられるのは
「ならばーー客席の人間を道連れにいたします」
「おいっ!」
マザランの怒号で
「芝居はそれほど得意ではないようだな、シスター・ソニエール。
シスターの目が濡れて光る。
あるいはここで二人を一緒に消し去ることが、
バズ・ブライチャートでもあるまいに。
「よしーー。ではこうしよう」
マザランに耳打ちすると彼は眉をひそめた。
「
マザランがしぶしぶ頷く。我が
「偉大なるイレク=ヴァド王は、遍歴の最中に〈月世界〉へ赴いた。
それは四角くて偏平なガラスの小瓶だった。半透明の緑色で、表面はところどころ銀化している。古代博物館の学芸員ならば、
「若返り……」
シスターが手の中のそれを見て、
「それはかつて
「さて、選んでもらわねばならん。残念ながら何らの咎めなく解き放つわけにはいかぬ。望み通り苦しみなく
シスターが顔を上げる。
「もう一度、弟を育て直します。今度は憎しみを育まないように」
嬰児のシフォックを抱いたシスター・ソニエールの姿が闇に紛れるのを、
夜をわたる風が、いつもの柔らかさを取り戻していた。
*
補遺ーー。
ジュリアン・カルノーは〈ビヤーキー〉に変化してはいなかったし、友人のクリス・ローランドが化け物だったことにすら気づいていなかった。友人が不幸なビル倒壊事故で亡くなると、母親が心配していた夜遊びは止んだという。
そのクリス・ローランドの母ノナ・ローランドは、古代劇場で勃発した〈爆破テロ事件〉に遭遇し、数十名の市民ともども死亡した(お得意の隠蔽工作だ)。市民は非道なテロを憎み、有能な市長の死を悼んだ。今は息子ともども郊外の墓地に葬られている。新しい市長には、イヌ派のアレクサンドル・マルナル氏ではなく、副市長が就任した。
不幸にも『
リュシアン・バロー殺害事件は、〈ビヤーキー〉という名の「武装テログループ」が資金稼ぎのために起こした強盗事件に巻き込まれたと判断されたが、被疑者死亡で立件されることはなかった。未亡人ジュリー・バローの心の傷が癒されることは当分はないだろう。しかし犯人の姿が見えたことで、まったくの五里霧中から少しは脱け出せそうだと語った。
警察がそのバロー事件に傾注することを阻んだ元凶である〈
歴史あるサン・ジャン教会は新しい司祭を迎え、再び信徒の信仰を集めている。司祭は人の良い六十年輩の男で、穏やかな人柄が過去のスキャンダルを洗い流している。
ダヴィド・ローランの事故は、拳銃の不法所持で逮捕されたトーマ・アルシェによる犯行と分かり、トーマ・アルシェは殺人容疑で再逮捕された。息子の罪を隠すために死体検案書を偽造したジャン=ポール・アルシェ医師も無論、罪に問われている。
ダヴィドが飲酒をしていなかったことが証明されたことでバズ・ブライチャートは、シュゼット・マルシャンから感謝され、その分報酬も弾んでもらった。
バズ・ブライチャートが〈リヴィングストン・リサーチ〉を退職したあと、支局長のマザランも会社を去った。その後、彼をアントワーヌ市で見た者はいない。
そしてーー。
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