第28話

28、

 人混みを掻き分けて走るわれを、行人が訝しげに見遣るが気にしている余裕はなかった。どうやってシフォックがキャルにたどり着いて、彼女を巻き込むことになったのか思案を廻らしたかったが、そのゆとりもない。

 劇場をぐるりと大回りに迂回するのはもどかしい。しかし、結局のところ一番の近道だと何とか己れを説き伏せる。それでもマザランの許に駆けつけるのに、だいぶかかってしまった。ちょうどやって来たシスターと鉢合わせた。

「二人はどこに?」

「判らん……」

 マザランは申し訳なさげに顔をしかめたが、失策とは言い切れなかった。裏口にリムジンがつけられノナ・ローランドとキャルが降りて、あっという間に楽屋や物置に使われている仮設の建物に入った。

 マザランは予め偽造しておいた関係者IDで警備をくぐって追いかけた。が、開演直前の裏方は蜂の巣をつついたような騒ぎで、人がごった返している。たちまち見失って、どの部屋に入ったのか判らなくなったという。

 無論、今から目を光らせて再捜索するのだが、それには注意しなければならない点があった。

「ノナ・ローランドがいま、中でどんな姿になっているかだなーー」

 マザランが呟く。

 〈ニトクリスの鏡〉は分身を造ることが出来る魔術道具だが、その仕組みが問題なのだった。正確に言えば〈鏡〉は、魔物の召喚装置だった。魔物はshoggoth lordと呼ばれる粘液状の生物で、この不定形な漆黒の魔物が〈鏡〉に映った人物の似姿に擬態する。どころか使役する側の命令によってshoggoth lordは、いか様な形状にもなり得るのだ。

 これらの情報を勘案した結果、われらの見解は一致した。シフォックはshoggoth lordを〈纏って〉ノナ・ローランドを装っているだろう、というものだった。謂わば生肉でできた着ぐるみを着ているようなものだ。そうすれば、見た目はノナ・ローランドで、中身はシフォックという擬装が可能になる。

 ただこれは別の困難を想定させた。すなわちシフォックは、shoggoth lordを使って、〈ノナ・ローランドでない違う人物〉に見た目を変えることも出来るのだ。そうとなれば、必ずしもノナ・ローランドを捜せばいいというわけにはいかなくなる。

「キャルだ。キャルを探そう」

 われは言う。

 シフォックがキャルを手中にしたのは、こちら側ーーなかんずくわれーーに対する牽制と威嚇と思われた。彼奴はどういう方途でか、われの存在を嗅ぎつけた。ならばキャルの姿は、あからさまになっていなければならない。そしてシフォックは必ずキャルの傍に控えているだろう。生殺与奪権を誇示するには、人質の喉元にこれ見よがしに刃を突きつけるのが一番効果的だからである。

 シスターの視線が痛かった。教会エグリーズの論理からすれば、最少の被害はキャルを犠牲にしてシフォックを止めることだろう。その次は爆破をスルーしてーーつまり爆破による人的被害を見過ごしてでもーー〈神〉の顕現を防ぐことだろう。何千人という市民が死のうと、〈ディユ〉が再臨するよりはマシという理屈だ。さっきわれが言いかけたことが我が身に反ってきていた。

 シスターがわれの言うことを聞いているのは、今のところ紫金紅葫蘆しきんこうころを使うことが出来るのがわれだけーーわれ以外の人間を識別して弾くように魔術的なフィルタリングをかけてあるーーだからにすぎない。

 そのとき、壮麗なオーケストラの演奏が始まり、拍手とどよめきが押し寄せてきた。

 上演が始まったのだ。

 

 キャルを見つけたのは、マザランだった。

「クソッ! 裏じゃない、表だ。彼女はいま舞台に立っている!」

 われらは再び、舞台を見下ろす丘の上に集まった。

 古代劇場は、丘陵の斜面を半円形の擂り鉢状になった客席が下っていき、麓に設置された舞台に繋がっている。われらが立っているのは、擂り鉢のふちにあたる場所だった。

 通し稽古なので満席には程遠いが、半分くらいは埋まっている。舞台の手前側に即席のオーケストラ・ピットが設けられており、舞台を挟んで奥には仮設の高い壁があった。真っ黒に塗られた壁は書き割りの背景になっていて、凍りついた湖とそこに沈む二つの太陽だけが画かれている。ただの絵のはずだのにそれは、今宵姿を隠している三連月の代わりに下界を睥睨へいげいしているかのようだった。

 舞台がいまどのような場面なのかは判らなかった。上手かみてに十数名の女官が立ち並び、二人の貴婦人が前に出て台詞を喋っていた。一方、下手しもてには、木乃伊ミイラのように布をからだと頭に巻きつけた人影が、幽鬼然と佇んでいる。

 マザランが指した先を見ると、キャルがいた。二列に並んだ女官たちの、前列に混じっていた。

 遠目にも、舞台用であろう目許をクッキリとさせるメイクと濃い頬紅が見てとれた。古代を思わせる、ドレープのある踝丈くるぶしたけの布を纏っている。確証はないが、彼女の目は虚ろで何も映していない気がした。

 われらは舞台に向かって、石の階段をゆっくりと下っていった。

 辺りを警戒しながら目を配っていると、席についている観客の表情に気がついた。ギクリ、と足が止まりそうになる。

 着飾った若いカップルは、恍惚とした面持ちで前方を見つめていた。二人の目はかさがかかったみたく、どんよりと曇り、ほうけた顔からは知性というものが完全に抜け落ちてしまっている。

 マザランとシスターに目配せすると、二人ともやはり異様な気配を察知しているようだった。

 見回すとみな同じ様子だった。堂々とした押しだしの紳士が、古風ないでたちの老婦人が、みな一様に魂を抜かれたみたく一点を、舞台上を見つめている。

 全身が総毛立った。気づけば会場には舞台のもの以外の音が全くない。しわぶき一つ聞こえないのだった。オーケストラの静かな演奏が、どこかレキュイエムめいて劇場を殷々と渡っている。せきとした客席は、物語に引き込まれているというよりも、舞台から発せられる魔力に魅入られているようだ。

 ここは人が息づく世界ではない。

 不意にそんな想いが脳裏に去来した。書き割りに画かれた世界が、まさに今ここに現出しているのではないか。星々を越えた、遥かなヒヤデス星団の暗黒星がーー。

 初めからそういう演出だったのかは定かでないが、演者たちはマイクではなく生声で喋っているようだった。石段を下りるにつれ、舞台の台詞がハッキリとしてきた。

 幽鬼が、魂に囁きかけるがごとき陰鬱な、それでいてよく通る声で女にーーあるいは観客にーー語りかけた。

 

「生ける神の手に落ちるのは恐ろしいことであるぞ」

 

 すると前に出ていた貴婦人のひとりが、悲痛な叫びを上げた。

 

「わたくしたちにはやめてください。ああ、王よ、わたくしたちにはやめてください!」

 

 恐怖で貴婦人が卒倒する。彼女が足元に横たわると、幽鬼がゆらりと動いた。

 両腕を大きく広げ、身に纏っている布ーー奔放な色づかいの襤褸らんるを、大きく振りだしたのだった。

 大鴉が羽ばたくように。

 風にはためく様を表現するかのように。

 頭巾めいて幽鬼を覆っていた布が剥がれ、中から頭部が覗いた。

「〈蒼白の仮面マスク・ブルーブロン〉!」

 シスターが鋭く呟いた。

 幽鬼は、くだんの無気味な仮面を嵌めていた。

 見るなりわれらは、階段を脱兎のごとく駆け下り出していた。心の端で、ゆったりと続いていたオーケストラの演奏が止んだことに気づいていた。

 幽鬼が四肢を、奇妙な様子で動かし始めた。

 それはギクシャクとした、不恰好で不可解な動作だった。手も足も上下左右まったく連動しておらず、バラバラでデタラメで、見るからに不愉快だった。人形劇ギニョール道化師プルチネッラが、急に意思を宿して、糸を振りほどこうともがいているみたいだった。

 信じられないことにーーだが確実にその動作の余波で、劇場中の篝火の焔がいっせいに揺らめきだした。

 風が生まれていた。

「まずいぞ!」

 先行するマザランが、火尖鎗かせんそうを構える。シスターがそれに続く。二人のスピードに引き離されたわれは、舌打ちした。こんな場面でバズ・ブライチャートのダイエット不足があだになるとは!

 そこから先は、もどかしいくらい進まなかった。水の中を歩いているみたいだった。

 不気味な動作を繰り返しながら、幽鬼が忌まわしい音声おんじょうを発した。

 

「いあ・いあ・はすたあ・はすたあ・くふあやく・ぶるぐとむ・ぶぐとらぐるん・ぶるぐとむ・あい・あい・はすたあ……」

 

 異質な次元の、異質な超存在を呼ばわる、異質な言語だった。それは心を掻きむしるような不穏で異質な音律と旋律だった。

 

「いあ・いあ・はすたあ・はすたあ・くふあやく・ぶるぐとむ・ぶぐとらぐるん・ぶるぐとむ・あい・あい・はすたあ……」

 

 さっきまで魂を抜かれた人形のようだった観衆が、にわかに反応し始めた。まるで彼らも、周到に演出された劇の一部であるかのように、幽鬼の声に唱和し始めたのだった。

 最初は不明瞭な譫言うわごとのようだった彼らの言葉は、発せられる毎に一足飛びに大きく明瞭になった。

 

「いあ・いあ・はすたあ・はすたあ・くふあやく・ぶるぐとむ・ぶぐとらぐるん・ぶるぐとむ・あい・あい・はすたあ!」

 

 詠唱は、瞬く間に叫喚へと変化した。

 叫びながら観衆は、隣席の者や同伴者に掴みかかった。若者は恋人の首を絞め、恋人は若者の顔にマニキュアも鮮やかな爪を立てた。親が子をステッキで殴り、子は親に馬乗りになった。

 

「いあ! いあ! はすたあ!  はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ あい! あい! はすたあ!」

 

 互いに殺し合いをしながら観衆は、狂乱状態で絶叫する。

 

「いあ! いあ! はすたあ!  はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ あい! あい! はすたあ!」

 

 空気の流れが奔流のようになっていた。目を開けるのが辛くなってきた。

 

「いあ! いあ! はすたあ!  はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ あい! あい! はすたあ!」

 

 篝火かがりびが次々と吹き消される。

 照明のガラスが砕ける。


「いあ! いあ! はすたあ!  はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ あい! あい! はすたあ!」

 

 底に着くころには、舞台は闇に沈んでいた。いや違う。灯りはもうないはずなのに、無気味なほど視認性が保たれている。幽鬼の纏うエネルギーが、蒼白い光を伴って放出されていた。まるで太陽コロナのようだった。

 斜面を下りきるなりマザランは、火尖鎗かせんそうを振りかぶった。槍頭に焔が点った。同時にシスターが幌金縄こうきんじょうを放った。

 だが。

 飛鳥ひちょうめいた無数の影が、二人の前に立ち塞がる。正確には、透明の状態で待ち構えていたそれらが、敵の接近に反応して姿を現したのである。舞台上に、にわかに叢雲むらくもがたち現れたようだった。

 鎗とマザランに、おびただしい数の物体が取りついて動きを封じた。キャルを掴まえんと伸びた縄とシスターも、同じように取りつかれた。

 それはウネウネと蠢く触手をもった半透明の物体で、どのような原理なのか、翼も持たずに宙を飛び回っていた。船底に貼りつくフジツボみたくそいつらは、マザランとシスターに凝集して動きを封じた。やつらは口笛のような警戒音を発した。

「〈盲目のものロイガーノス〉か!」

 われは足に急ブレーキをかけて、危うく踏み止まった。その半ポリプ状で半物質の存在には聞き覚えがあった。人類誕生以前の先住種族とも、邪悪な風の双子神に仕える眷属とも言われている奴輩やつばらである。

 マザランが、捕まったままで素早く咒偈じゅげを唱え脱出を図った。火尖鎗かせんそうが焔を吐き、火群ほむらが意思あるごとくポリプ生物に襲いかかる。

 だがポリプ生物どもは、驚くべき反応速度を持っていた。焔の軌道を見定めたように、軽々と身をかわしたのだった。どころか彼奴らは風を自在に操れるようだった。掌サイズの竜巻が無数に生まれ、たちまち焔を四散させた。

クソッタレメルドッ!」

 マザランの悪罵は続かなかった。ポリプ生物が、槍の柄とマザランの腕にそれぞれしがみついた。密集された重みでマザランは、槍を取り落とす。さらに、身体にも重なっていき、ついにはまったく動けない状態でマザランは、押さえつけられた。シスターもとっくに拘束されている。

 明らかに〈盲目のものロイガーノス〉には〈知性〉が備わっていた。彼奴きゃつらの〈口笛〉が次第に高まると、何処からともなく風が逆巻き、われの頬をなぶった。

 殺到してきた〈盲目のものロイガーノス〉にわれは、短い咒偈ゲアスで応じた。パチパチと雷火が弾けると、ポリプ生物どもの口笛は苦鳴くめいに変じた。幾体かが蒸発したように消え、残りはわれと距離を取った。

 魔術というほどでもない、手妻のような術だった。〈盲目のものロイガーノス〉が電気エネルギーを苦手とすることを思い出して咄嗟に使ったのだ。効果は覿面だった。

 だが事態はどんどん悪くなっていく。

 ポリプ生物の生んだ風と襤褸を発生源とする風が呼応し、どんどん強まっていった。

 幽鬼の纏った布は、幾重にも重なっているにもかかわらず今や、まるで薄いマントのように、あるいは旋舞セマーのスカートのように、ほとんど水平にひるがえっている。

 とーー。

 気配を察知して地に伏したのと、風が急激に突風に変化したのが同時だった。

 見えない巨人の手が、周囲を薙ぎ払ったようだった。オーケストラの面々ーー舞台の女官たちーーポリプ生物までもーーがおよそ数メートルも吹き飛ばされた。ーーキャルを除いて。

 空気がごうごうと逆巻き、幽鬼を中心にして外へ外へと吹き荒ぶ。もはやそれはタンペットと呼ぶべきものだった。

 われは、顔を庇いながら這うように近づいた。オーケストラ・ピットにたどり着いたときには、捲れ上がった襤褸らんるがその中身を見せていた。

 それは信じがたい光景だった。

 襤褸らんるは物体としての面積を遥かに超えて、空間に突如出現した巨大なスクリーンのように拡がっているのだった。そこに映し出されていたのは、暗黒の外宇宙だった。数え切れない星々が、絶対零度の虚無に頼りなげに瞬いている。その黒々とした深淵の中に、〈蒼白の仮面マスク・ブルーブロン〉が浮いていた。

「殿下! く!」

 シスターの叫びに応え、われ紫金紅葫蘆しきんこうころを向けると、襤褸らんるから一筋の触腕めいたものが伸びキャルを掴み上げた。触腕が、もてあそぶようにキャルを締め上げる。意識のないキャルが呻き声を上げた。

「そう……だ……急げ……」

 襤褸らんるの一部がうごめきーーそれは布というより肉と呼ぶべきものだったーーぽっかりと口が開いた。口が嘲弄するように歪んだ。

「女……か…世界…か……贅沢な…選択肢…だ……」

 現れていたのは見慣れた市長の、ノナ・ローランドの顔だった。だが瞬く間にその顔面に亀裂が走った。正中線にそって、ローランドの顔が熟れた柘榴みたいにぜた。女陰の亀裂のような中から、別の顔が、まだ若い端正な相貌が産まれ出でたように現れた。シスター・ソニエールに似た面差し。

 こいつがシフォックだ。自分自身を依代よりしろに、観客たちの狂気をエネルギーに変えて、Hasturを降ろそうというのだ。その執念。

 虚空の〈蒼白の仮面マスク・ブルーブロン〉にも変化が起きていた。

 紙粘土を捏ねて金と灰色と深緑と土留色を塗りたくったようだった仮面の表面は、ヌメヌメと濡れて柔らかくなりーーまるで生きているようだーー壊疽えそめいた状態が見る間に進行していった。ぶよぶよと波打ったそれが、身内から沸き出でる力で自ら変化していく。伸び縮みし、盛り上がり、分裂し、また一つになった。ついにそいつは、おぞましい、あるかたちを取り始めた。こうした事どもは、実際にはほとんど数秒の間に起こった変化であり、シャーレの中で細菌が増殖していくのを早回しで見ているように介入する余地など一切なかった。

「王子!」

 シスターが急かす。やるしかなかった。今すぐに。

 われは、紫金紅葫蘆しきんこうころを再び向けると、大音声だいおんじょうで呼ばわった。

「キャルヴィン・バーデン!」

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