第28話
28、
人混みを掻き分けて走る
劇場をぐるりと大回りに迂回するのはもどかしい。しかし、結局のところ一番の近道だと何とか己れを説き伏せる。それでもマザランの許に駆けつけるのに、だいぶかかってしまった。ちょうどやって来たシスターと鉢合わせた。
「二人はどこに?」
「判らん……」
マザランは申し訳なさげに顔をしかめたが、失策とは言い切れなかった。裏口にリムジンがつけられノナ・ローランドとキャルが降りて、あっという間に楽屋や物置に使われている仮設の建物に入った。
マザランは予め偽造しておいた関係者IDで警備をくぐって追いかけた。が、開演直前の裏方は蜂の巣をつついたような騒ぎで、人がごった返している。たちまち見失って、どの部屋に入ったのか判らなくなったという。
無論、今から目を光らせて再捜索するのだが、それには注意しなければならない点があった。
「ノナ・ローランドがいま、中でどんな姿になっているかだなーー」
マザランが呟く。
〈ニトクリスの鏡〉は分身を造ることが出来る魔術道具だが、その仕組みが問題なのだった。正確に言えば〈鏡〉は、魔物の召喚装置だった。魔物はshoggoth lordと呼ばれる粘液状の生物で、この不定形な漆黒の魔物が〈鏡〉に映った人物の似姿に擬態する。どころか使役する側の命令によってshoggoth lordは、いか様な形状にもなり得るのだ。
これらの情報を勘案した結果、
ただこれは別の困難を想定させた。すなわちシフォックは、shoggoth lordを使って、〈ノナ・ローランドでない違う人物〉に見た目を変えることも出来るのだ。そうとなれば、必ずしもノナ・ローランドを捜せばいいというわけにはいかなくなる。
「キャルだ。キャルを探そう」
シフォックがキャルを手中にしたのは、こちら側ーーなかんずく
シスターの視線が痛かった。
シスターが
そのとき、壮麗なオーケストラの演奏が始まり、拍手とどよめきが押し寄せてきた。
上演が始まったのだ。
*
キャルを見つけたのは、マザランだった。
「クソッ! 裏じゃない、表だ。彼女はいま舞台に立っている!」
古代劇場は、丘陵の斜面を半円形の擂り鉢状になった客席が下っていき、麓に設置された舞台に繋がっている。
通し稽古なので満席には程遠いが、半分くらいは埋まっている。舞台の手前側に即席のオーケストラ・ピットが設けられており、舞台を挟んで奥には仮設の高い壁があった。真っ黒に塗られた壁は書き割りの背景になっていて、凍りついた湖とそこに沈む二つの太陽だけが画かれている。ただの絵のはずだのにそれは、今宵姿を隠している三連月の代わりに下界を
舞台がいまどのような場面なのかは判らなかった。
マザランが指した先を見ると、キャルがいた。二列に並んだ女官たちの、前列に混じっていた。
遠目にも、舞台用であろう目許をクッキリとさせるメイクと濃い頬紅が見てとれた。古代を思わせる、ドレープのある
辺りを警戒しながら目を配っていると、席についている観客の表情に気がついた。ギクリ、と足が止まりそうになる。
着飾った若いカップルは、恍惚とした面持ちで前方を見つめていた。二人の目は
マザランとシスターに目配せすると、二人ともやはり異様な気配を察知しているようだった。
見回すとみな同じ様子だった。堂々とした押しだしの紳士が、古風ないでたちの老婦人が、みな一様に魂を抜かれたみたく一点を、舞台上を見つめている。
全身が総毛立った。気づけば会場には舞台のもの以外の音が全くない。しわぶき一つ聞こえないのだった。オーケストラの静かな演奏が、どこかレキュイエムめいて劇場を殷々と渡っている。
ここは人が息づく世界ではない。
不意にそんな想いが脳裏に去来した。書き割りに画かれた世界が、まさに今ここに現出しているのではないか。星々を越えた、遥かなヒヤデス星団の暗黒星がーー。
初めからそういう演出だったのかは定かでないが、演者たちはマイクではなく生声で喋っているようだった。石段を下りるにつれ、舞台の台詞がハッキリとしてきた。
幽鬼が、魂に囁きかけるがごとき陰鬱な、それでいてよく通る声で女にーーあるいは観客にーー語りかけた。
「生ける神の手に落ちるのは恐ろしいことであるぞ」
すると前に出ていた貴婦人のひとりが、悲痛な叫びを上げた。
「わたくしたちにはやめてください。ああ、王よ、わたくしたちにはやめてください!」
恐怖で貴婦人が卒倒する。彼女が足元に横たわると、幽鬼がゆらりと動いた。
両腕を大きく広げ、身に纏っている布ーー奔放な色づかいの
大鴉が羽ばたくように。
風にはためく様を表現するかのように。
頭巾めいて幽鬼を覆っていた布が剥がれ、中から頭部が覗いた。
「〈
シスターが鋭く呟いた。
幽鬼は、くだんの無気味な仮面を嵌めていた。
見るなり
幽鬼が四肢を、奇妙な様子で動かし始めた。
それはギクシャクとした、不恰好で不可解な動作だった。手も足も上下左右まったく連動しておらず、バラバラでデタラメで、見るからに不愉快だった。
信じられないことにーーだが確実にその動作の余波で、劇場中の篝火の焔がいっせいに揺らめきだした。
風が生まれていた。
「まずいぞ!」
先行するマザランが、
そこから先は、もどかしいくらい進まなかった。水の中を歩いているみたいだった。
不気味な動作を繰り返しながら、幽鬼が忌まわしい
「いあ・いあ・はすたあ・はすたあ・くふあやく・ぶるぐとむ・ぶぐとらぐるん・ぶるぐとむ・あい・あい・はすたあ……」
異質な次元の、異質な超存在を呼ばわる、異質な言語だった。それは心を掻きむしるような不穏で異質な音律と旋律だった。
「いあ・いあ・はすたあ・はすたあ・くふあやく・ぶるぐとむ・ぶぐとらぐるん・ぶるぐとむ・あい・あい・はすたあ……」
さっきまで魂を抜かれた人形のようだった観衆が、にわかに反応し始めた。まるで彼らも、周到に演出された劇の一部であるかのように、幽鬼の声に唱和し始めたのだった。
最初は不明瞭な
「いあ・いあ・はすたあ・はすたあ・くふあやく・ぶるぐとむ・ぶぐとらぐるん・ぶるぐとむ・あい・あい・はすたあ!」
詠唱は、瞬く間に叫喚へと変化した。
叫びながら観衆は、隣席の者や同伴者に掴みかかった。若者は恋人の首を絞め、恋人は若者の顔にマニキュアも鮮やかな爪を立てた。親が子をステッキで殴り、子は親に馬乗りになった。
「いあ! いあ! はすたあ! はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ あい! あい! はすたあ!」
互いに殺し合いをしながら観衆は、狂乱状態で絶叫する。
「いあ! いあ! はすたあ! はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ あい! あい! はすたあ!」
空気の流れが奔流のようになっていた。目を開けるのが辛くなってきた。
「いあ! いあ! はすたあ! はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ あい! あい! はすたあ!」
照明のガラスが砕ける。
「いあ! いあ! はすたあ! はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ あい! あい! はすたあ!」
底に着くころには、舞台は闇に沈んでいた。いや違う。灯りはもうないはずなのに、無気味なほど視認性が保たれている。幽鬼の纏うエネルギーが、蒼白い光を伴って放出されていた。まるで太陽コロナのようだった。
斜面を下りきるなりマザランは、
だが。
鎗とマザランに、
それはウネウネと蠢く触手をもった半透明の物体で、どのような原理なのか、翼も持たずに宙を飛び回っていた。船底に貼りつくフジツボみたくそいつらは、マザランとシスターに凝集して動きを封じた。やつらは口笛のような警戒音を発した。
「〈
マザランが、捕まったままで素早く
だがポリプ生物どもは、驚くべき反応速度を持っていた。焔の軌道を見定めたように、軽々と身を
「
マザランの悪罵は続かなかった。ポリプ生物が、槍の柄とマザランの腕にそれぞれしがみついた。密集された重みでマザランは、槍を取り落とす。さらに、身体にも重なっていき、ついにはまったく動けない状態でマザランは、押さえつけられた。シスターもとっくに拘束されている。
明らかに〈
殺到してきた〈
魔術というほどでもない、手妻のような術だった。〈
だが事態はどんどん悪くなっていく。
ポリプ生物の生んだ風と襤褸を発生源とする風が呼応し、どんどん強まっていった。
幽鬼の纏った布は、幾重にも重なっているにもかかわらず今や、まるで薄いマントのように、あるいは
とーー。
気配を察知して地に伏したのと、風が急激に突風に変化したのが同時だった。
見えない巨人の手が、周囲を薙ぎ払ったようだった。オーケストラの面々ーー舞台の女官たちーーポリプ生物までもーーがおよそ数メートルも吹き飛ばされた。ーーキャルを除いて。
空気がごうごうと逆巻き、幽鬼を中心にして外へ外へと吹き荒ぶ。もはやそれは
それは信じがたい光景だった。
「殿下!
シスターの叫びに応え、
「そう……だ……急げ……」
「女……か…世界…か……贅沢な…選択肢…だ……」
現れていたのは見慣れた市長の、ノナ・ローランドの顔だった。だが瞬く間にその顔面に亀裂が走った。正中線にそって、ローランドの顔が熟れた柘榴みたいに
こいつがシフォックだ。自分自身を
虚空の〈
紙粘土を捏ねて金と灰色と深緑と土留色を塗りたくったようだった仮面の表面は、ヌメヌメと濡れて柔らかくなりーーまるで生きているようだーー
「王子!」
シスターが急かす。やるしかなかった。今すぐに。
「キャルヴィン・バーデン!」
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