真夜中、背徳の時間

海堂 岬

第1話 背徳のコーヒー

 真夜中。昼間の喧騒が、嘘のように静まり返った部屋で、動いているのは俺一人だ。


 金属の刃が唸り、次々と刃に触れたものを砕いていく。砕かれたものの成れの果てを、容器に注ぎ、沸騰したばかりの熱いお湯を一気に、かつ丁寧に注いだ。フィルターのついた蓋をセットしたら、準備は完了だ。


 背徳の時間の始まりだ。蓋からわずかに漏れる香りは、俺の疲れた頭を晴らしてくれる。


 数分後、タイマーの音が、静まり返った医局に響いた。フィルターを押して、コーヒーの出来上がりだ。俺はもっぱら携帯式のフレンチプレス。コーヒーを淹れる方法は、いろいろあるが、俺はこの方法が好きだ。正確に測るだけで出来上がる。


 ドリップでコーヒーを美味しく淹れる方法も、そのための道具も沢山あるが、なにせ、ドリップの間、コーヒーから離れられない。蒸らす時間も面倒だ。


 俺は、今日このときのために用意した菓子の袋をそっと開けた。まだ、時間はある。


真夜中、背徳の時間。


 珈琲店の店長や店員達と顔見知りなるくらい通い詰めた店で買った、シングルオリジンのコーヒー豆の柔らかい香りを鼻腔いっぱいに吸い込む。


 夜、カフェイン入りの飲料を飲むと眠れなくなるから、飲まないほうがいいですよ。と、日々患者さんに言っているその口で、コーヒーを飲む。

 

 真夜中、背徳の時間。


 夜遅くに、食べないほうがいいですよ。太りますから。そんな事を言っている舌が、チョコレートフィナンシェの味を楽しむ。少し胡桃が入っているのが美味しい。


 真夜中、背徳の時間。


 緊急検査の結果が出るまでの僅かな時間の楽しみだ。時計は、流れていく時間を刻んでいく。休憩は終わりだ。


 俺は、電子カルテを操作し、検査結果を確認した。

「結果出てるぞ。見たか?」

今日一緒に当直をしている研修医に、PHS越しに問いかける。正常値と異常値を見つけるだけが、答えではない。一見、正常に見える検査値、異常に見える検査値が、なぜそうなっているのかを考え、原因を突き止めなくてはならない。


「んー。じゃぁ、次はどうする」

研修医に考えさせながら、手は電子カルテを操作していく。研修が始まったばかりにしては、上出来の返事だが、患者さんを待たせるわけにはいかないのだ。

「ま、そのとおりだ。急ぐから、実は、オーダーはしておいた。確認よろしく。あと、患者さんに説明して、看護師さんに頼んで、放射線科にも連絡して。CT撮影が何時頃になるかも、大事だからな」


 歩きながら、指示を出していく。これから入院する病棟にも、準備をしてもらわないといけない。


 真夜中の背徳の時間は、今日も長続きしなかった。俺の白衣のポケットの中で、切ったばかりのPHSが鳴る。

「先生、○階の看護師です。○○号の患者さんが、点滴を抜いてしまって」

「そうか、抜いたか。抜けたのはしかたない。いれられる?」

「難しい人なんです。血管無くて。△先生が、苦労していれてくれたんですけど」

「え、△先生?あの先生が苦労した人を、老眼の俺に?」

「先生、当直じゃないですか」


 おっしゃるとおり。今この時間、病院にいる医者は俺と、研修医になったばかりの新米だ。だが、ベテラン看護師が失敗した患者さんの点滴を、一度で成功させることが多い△先生と、老眼の俺を同列に見られても困る。

「温めといて。ホカホカに温めといて。一人、入院させたらいくから」

「先生のために、ホカホカに温めて、患者さんと一緒に待ってまぁす」

「ありがとう」

夜勤の看護師の明るいふざけた返事に、俺は少し笑った。

 

 頑張るしか無いのだ。俺は気合を入れた。背徳のコーヒーとチョコレートフィナンシェが、日中の仕事に疲れに溺れそうになっている俺に覚醒を促す。


「入院手続き、やり方わかるか」

「はい。病棟の指示、これでいいですか」

日々成長していく研修医が入力した内容を、確認していく。

「いいな。でも、この人の病気は何だ?そうすると、ここは駄目だろう」

指導してやりながら、研修医のポケットに、お菓子のおすそ分けを突っ込んでやる。

「燃料だ」

「はい。ありがとうございます」

疲れているが、若い分覇気がある。細かいことは覚えていないが、俺にもこういう頃はあったのだ。

「じゃぁ病棟にいこう。指示出すだけじゃなくて、確認しないとな」

まだまだ夜は長いのだ。


 朝、次々と出勤してくる医者で、医局が騒がしくなる。当直帯に入院した患者さんを、疾患毎に該当する科の医者に引き継ぎ、俺の当直は終わる。


 引き継ぎを終えた俺は、もう一度、豆を挽き、コーヒーを淹れる。

「先生、明けですよね」

俺の席のお隣は、△先生だ。

「そう。明け」

「○階の患者さんの点滴ありがとうございます」

「たまには俺がいれさせていただきますよ。△先生」

「先生、一回でいれたって、夜勤にききましたよ」

「俺は温めてもらったからな」

「私も、頼まれた時点で、腕を温めるように頼みます。患者さんにとっても手間でしょうけれど、お互いのためです。一度それで点滴はいったら、納得してくれますしね」


△先生は、紅茶派だ。茶葉を計って、ティープレスで淹れる。


 俺は、コーヒーに口をつけた。昨夜、あるいは今日の早朝というべきなのだろうか。窓の外が暗闇に沈む中、静まり返った医局で味わった背徳のコーヒーと同じ豆だが、味は若干変わる。疲れで、嗅覚や味覚が落ちたせいかもしれない。


 背徳というスパイスがないためだろうか。美味しいが、違う。真夜中に飲むコーヒーが、背徳のコーヒーなら、このコーヒーは何だろう。


「背徳の反対語って、何でしたっけ」

「背徳の反対語ですか。んー、殉教?でも、それだとキリスト教に限定でしょうか。どうしてまた、そんなことを」

「当直の時、起きてるために、コーヒーを飲むんですけど、背徳の味って感じがして、好きなんですよ。じゃぁ、明けの今、飲んでるこれは何の味だろうとね」

「日中仕事して、当直して、また日中仕事するための、ドーピングのコーヒーに、先生は随分と文学的ですね」

△先生が、スマホを取り出した。


「ドーピングも、殉教も嫌ですよ」

俺もスマホで調べればよかったと、ふと思い出す。やはり、当直明けは頭が働かない。


「まぁ、勤務時間は最初から過労死ライン超えてますから、殉職ですか」

「△先生、酷いな」

「あ、ありましたね。道徳、他にも人道とか、仁義とか」

「仁義ねぇ」

「殉教、殉職、道徳、人道、仁義。どれも、背徳のコーヒーの対義語としては、なんだか雰囲気が違いますね」


 △先生の手は、パソコンを操作し、目は電子カルテに据えられている。

「さっさとおうちに帰りなさいコーヒーですね、先生」

△先生がにやりと笑った。

「大賛成ですが、確認しないといけないCTが有るんですよ。11時撮影予定」

「頑張ってください。応援してます。その結果が良い結果なら、さっさと帰れるように、他の仕事を終わらせましょうか」

「そうですね」


 時計は流れていく時間を淡々と刻んでいく。


「明けは早く帰りましょう先生。研修医のように、我々は制度で守られていません。自分で見切りをつけて帰らないと。明日出来ることは明日やればいいんです」

「おぉ、まさしく背徳の諺」

「スヌーピーです。Why do today what you can put off till tomorrow.いい言葉でしょう」

「いいですね、それ」

「そう、だから先生、今日じゃないと駄目なことだけ、さっさとやる。ほら、行きますよ」

やんちゃ坊主を二人育てている△先生の口調に俺は笑った。

「早く帰りましょうコーヒーを飲んだ以上、頑張りますよ」

俺は立ち上がった。

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