文学部の現代における問題と悪循環について
以上の理由により文学部は必要であり、活動をし続ける必要があります。規模感も、現状の程度で良いのではないでしょうか。文字・文学へのリソース量は意外に甚大だと思います。
問題なのは文学者や文学部教授そのものが社会的権力者になってしまい、各方面に悪影響を与えることだと思います。
なぜ文学者は文学部教授は権力者になってしまったのでしょうか。
それはメンテナンスするということは、学問的にはあるものに追認を与えるということになるからだと思います。
つまりできたものに権威を与えるということです。権威を与える人をどう呼ぶか。権力者ですね。つまり文学者や文学部教授には権力が備わっているということです。トートロジー的ですが。
権力を持っている人が権力を振るうことは普通のことです。当然のことであります。文学にその権力を振るうことまでは私は否定しません。
しかしそれはあくまでも文学上の権力であり、社会上の権力ではないのです。
特に知識人として権力を多方面に振るうことは論外です。
しかし権力はそれを与えた側にも問題があると思います。
「文学者・文学部教授が言っているから、専門外のことであってもこれは正しいことなのだろう」と鵜呑みにしてしまう精神も強く詰問されなければならないでしょう。それはマスコミやメディアだけではなく、私たち自身へも問われなければならないことです。
しかし現状、文学内で権力を振るう学者より専門外で権力を振るう学者のほうが、格が高く、お金を稼ぎ、裕福に暮らしているように見えます。
それは権力はさらなる権力を求める悪循環があるからだと思います。
言ってしまえば、帝国主義的な思想です。いまの文学部はそれにとらわれています。
だから不要論が叫ばれ、支援金も減らされ、そのせいでお金を呼び込める「ものを言う」文学者・文学教授の価値がますます高くなるという、こちらも悪循環が生まれるのだと思います。
この二つの悪循環を断ち切るのはどうすればいいのでしょうか。答えは学者側だけが持つのではなく、私たちすべてが考えるべき問題だと思います。なぜなら文学とは象牙の塔にあるものではなく、私たちが日常的に使っているものなのですから。
以上をもちまして文学・文学部の有用性に対する私の論考を終わりたいと思います。
文学、文学部に有用性ってあるの? 陋巷の一翁 @remono1889
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