上級国民のなり方。
東 哲信
新しい風
私は人を恨むという術を知らぬ。じっさいには、恨みという情念が続かぬだけの話ではあるが、そうはいえども憎悪心がかなり少ないタチであると自負している。
先日、飯塚幸三氏の有罪が確定した。この飯塚幸三という人は、通産省かどこかの偉い役人を務めたことのある人だそうで、彼の罪状は暴利な運転の結果として、前途ある親子を殺してしまったことである。
私は、時折夢の中で、飯塚幸三と面会することがある。妙なことであるが、ほんとうに拘置所のアクリル越しに彼と面会しているのである。
「飯塚さん、本当に、ブレーキは壊れていたのかね」
「ほんとう、です。」
「が、メーカーはあり得ないと言っとるが」
「あなたは、私の弁護士として、えー、私の証言を、訝ろうというのですかね。なりませんよ、かようなことは、なにを、文句言われようと、私の事故は製造会社に、その、問題があるのですよ。」
年老いた飯塚幸三は、常にコトバが詰まるようで、そのうえ声もハリが無い。このご時世、マスクもせねばならぬし、そのうえアクリル板越しの会話である。私は彼の会話を聞き取るのに随分と夢の中で苦労するのである。
「さて、そういわれましてもなぁ。世相も上級国民だと騒いどる。早いところ罪状を認めてしまった方が、何分にコート殿からの心象もよかろうなぁ。どうです、」
だいたいいつも、そのあたりで目が覚める。目が覚めてしまっては、夢の中の自分が「どうです」の続きに何を述べようとしていたかはめっきり忘れてしまうのである。
その日も同じ夢を見てしまい、私は憂鬱な気分にみたされていた。第一、夢は個人の願望の現れと馬鹿なことを言う奴がいるが、未来ある子供を殺した人間と面会したいという願望がこの世のどこにあるものか。才美ある女子の手を引いている夢の方が、よっぽど自身の欲望にそぐうとも。まったく不可思議なこともあるものだ。
ゆえに私は今、普段は素通りしてしまうようなモダンな喫茶でコーヒを舐めている。その不可思議について考察したいわけではないが、夢に出てきた女子が気になってしまうように、私も飯塚幸三という男にひかれてしまったのである。
「なぜ、ああもかたくなにメーカに責任転嫁するのか、」
「刑が軽くなるのを望んでいるのでは」
「反省はあるのか」
「どうだろう。人間を殺したら、さすがに罪悪感の一つくらいはおころうし、」
と、うだうだ考え込んでいるところで、一組のアベックが喫茶店を訪ねてきたのである。
「たけちゃーん。私、パフェが食べたーい。」
「いいね、美幸ちゃん、ぼくも甘党なもので、生のコーヒなんて飲めやしないんだ。」
私は一瞬、憎悪を覚えた。というより、羨望だろうか。私は大学卒業後、小説家になりたいなどという馬鹿な夢を追いかけて、今もフリーターという身分に追いやられている。ゆえに、どこの女にも相手にされるような身分にない。それなのに、このアベックときたら、自分よりも苦労を知らなさそうな面構えで、私のほしいものを持ち得ているのである。
「第一なんだい。近頃の男と言うものは、生のコーヒー一つ飲めずに、よくも男児がつとまるか。こちとら、一杯九百円、つまるところ一時間分の時給が詰まっているコーヒーをたしなんでいるわけだ。まったく、不愉快な」
喫茶店の窓の外をみながら、私は誰にも聞こえぬようにつぶやいた。が、どうもこの手の憎悪心はいつも長続きはしないのである。ひとつ、呟いてしまえば、独りよがりな自分の言い分に気が付いて、テーブル二つ挟んで談笑しているアベックに詫びたくなってしまうのである。
「私はつまらない人間であろうに。」
もう一つ呟いて、私はひと箱五百円もするタバコに火をつけたのである。
「やぁだ、たけちゃん。私タバコきらーい。」
背後からは女、というより、雌の声が聞こえてくる。近頃は喫煙可な喫茶にのこのこ入り込んでおいて、文句を垂れる被害者ヅラの馬鹿が増えたので芳しくない。
「被害者ヅラ、それは私もじゃないか」
そう気づいたとき、飯塚幸三氏が上級国民なる論調で痛烈に批判されていることを私は思い出したのである。
人は、被害者ヅラをしたがる生き物なのである。第一、殺された親子やその親族、友人が飯塚幸三に怒り、上級国民とかいう誹りを述べることには何らの道理を弁える心配はあるまい。なぜというに、彼らは被害者ヅラではなく、いうまでも無く被害者だからである。が、その事故の当事者でもないのに、怒れるというは、おそらく被害者ヅラなのだろう。上級国民というワードが実にそれを際立たせている。裁判所で虚偽を述べて逃げようとしている爺の、何が上級であるか。それに、爺が現在していることと、爺がかって上級であったことに因果律はない。資本家に苦しめられた恨みか、それとも自分に持ちえないものを持っていることに対する羨望か、そういったものが渦巻いて、上級国民などと易く言う連中はまるで当事者でない自分までが被害を被っているように感じているのであろう。
とくに、この羨望の情念は彼らの被害者ヅラ意識を助長しているであろう。もはや過去に過ぎ去った栄光の寂寥感なるものをひしひしと感じつつ、老いて死にゆくだけである肉体を携えた老人を、自分たちより上級などと突き上げて勝手に羨望しているのである。バカバカしい。
「かといって、人の痛みをわかってやることも重要じゃないすか、あなたの言い分には被害者の同情が無視されている」
背後のアベックがそう言ったように感ぜられた。
「なら、いつぞやの飲酒運転で、子供を何人も殺したドカチンにだ、世の中被害者ヅラをするヤツが居ないのはどうしてだい」
はなはだ義憤を覚えた私は一つ呟き、会計を澄まして外を出た。
「どうせ、今期のコンクールも佳作どまりだ、なら、俺もいっそのこと上級国民にでもなってやろうか、」
「人を殺してねたまれるなんて、オカシナはなしではないか。」
「でも、ドカチンのおっさんはねたまれることはなかった。つまりは、ある程度の品位は必要なわけで、」
「じゃぁ、もっと小説を書いて、品位を稼ごう。そうして、人は殺すのはまずいとして、不倫とか、浮気とか、そういう許されないことをしよう。そうすれば、私は一番うらやましがられる人になれる」
様々な想念が暴れる中、あすからも小説書き続ける力を飯塚幸三という男にもらったのであった。
上級国民のなり方。 東 哲信 @haradatoshiki
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