東京行深夜バス
緋糸 椎
🚌
首都圏郊外の閑静な住宅街に、真夜中になると罵声が鳴り響く。
(うっせぇな……)
長男で中学三年生の
「おまえはいつからそんな教育ママになった!」
「子供の将来をろくに考えないあんたに言われたくないわ!」
争いのタネは次男・健二の進学問題だ。真島家は一年半前、戸建住宅を購入し、越して来た。ところが、母親のママ友情報では、地元公立中学校の学力レベルは著しく低いという。そこで私立中学を受験させるご近所さんが多いのだが、父親にしてみれば家のローン返済だけでも大変で、私立中学に入れる余裕などないし、ましてやお受験など自殺行為だ。
(この家が……全部悪いんだ)
この家に越してきてから父母の争いが絶えなくなった。いっそ火をつけてやろうか……そんな思いが頭をよぎるが、実際に火がつくのは父母の喧嘩ばかり。
もう限界だ。家を出よう。光一は決意し、リュックサックを背負い部屋を出た。ところが弟の健二が心配そうに顔をのぞかせる。
「兄貴、家、出るの?」
「ああ。どうせあいつら気づかないだろうけどな」
光一は両親のいる階下を指さした。
「なんか……悪いな」
健二は自分が父母の喧嘩の原因になっていることに、少し引け目を感じている。
「謝るな。おまえは何も悪くない」
光一は下に降りそして玄関から出て行ったか、案の定、親は気づかなかった。
☆
誰も知る人のいない、遠いところへ行こうと思った。親のサイフから盗んだ金で切符を買い、ガラガラの電車に乗った。
そうしてたどり着いた東京駅八重洲口。色々な行き先の長距離バスがたむろしている。遠くへは行きたいものの、金の持ち合わせもさほどない。安くて、できるだけ遠くに行けそうなバスを……
そう思っていると、「東京行」と表示板に書かれたバスがふと目に入った。回送車だろうか。しかし乗降口では、いかにも客待ちの運転手がアイコスの白煙をプカプカとくゆらせている。
「あの……すみません」
光一が声をかけてみる。「東京行と書いてますけど、東京のどこへ行くのですか?」
「東京駅ですよ」
当然と言わんばかりの口調。しゃべるたびに煙がモクモクと口から漏れるのが、光一には可笑しかった。
観光用の周遊バスだろうか。しかしその割には窓が遮光カーテンでブラインドされている。どう見ても長距離夜行バスの体だ。
「あの……どれくらいの時間くらい走るんですか?」
「東京駅には明朝七時に到着予定でございます」
「料金はいくらですか?」
「片道千円となります」
片道? 往復とかあるのか? 突っ込みどころは多々あるが、所要時間も料金も宿がわりにちょうどいい。
「じゃあ……大人一枚お願いします」
「毎度ありがとうございます。では、中へどうぞ」
千円札と引き換えにチケットを受け取り、バスの中へ。一人がけのリクライニングシートが前から三列ずつ並んでいる。隣に気をつかわずゆったり座れる配席だ。
客席には、既に四人の乗客がまばらに座っていた。中でも目を引くのは二十代半ばの女性。きれいなお姉さん。少しドキリとする。彼女はカーテンで見えない筈の車窓を眺めている。その目は虚ろとも言えるし、微かな希望を見つめているようでもあった。
その他の客は、年齢層に開きはあるがいずれも仕事帰りのサラリーマンのようだった。いや、朝七時までバスに乗るのだから、帰らずにまた仕事に出るのだろう。
光一のあとからは誰も乗ってこなかった。運転手が乗り込み──ハイデッカーで運転席は見えなかったが──ドアが閉まった。
「本日は○○交通をご利用いただき、ありがとうございます。終点東京には朝七時に到着の予定ですが、交通事情により到着時間が前後することがあります。途中二回、トイレ休憩のために停車しますが、走行中も本車両中央のトイレをご利用いただけます。なお、これより消灯しますが、それ以降携帯はマナーモードにし、スマホやタブレットなど光の出る機器の使用はお控え下さい」
運転手がアナウンスを終えると、読書をしていたサラリーマンが本を閉じた。たしか、去年の本屋大賞受賞作……本屋で立ち読みしたけど、何がいいのかさっぱりわからなかったやつだ。
消灯されると、街灯のオレンジ色の光がカーテンの隙間から差し込む。しかし、しばらく走ると田舎道に入ったのか、辺りは真っ暗になった。まるで闇に飲まれて行くような、そんな感覚。心細い。もしかしたら催眠ガスでも噴射され、知らないところへ連れていかれるのか?
それはそれで、あのうんざりする日常よりは面白いかもしれない。心細いなりに、親に一矢報いたような達成感で心が躍っていた。そして、ついついきれいなお姉さんに目がいく。彼女の存在は、この真夜中の逃避行に添えられた一輪の花だった。彼女は相変わらず見えない窓の外を眺めている。
いつの間にか眠っていた。目を覚ますとバスは停車していた。トイレ休憩だ。サラリーマンたちは熟睡して車内に残っていたが、きれいなお姉さんの姿だけがなかった。
光一はバスを降りた。そこはトイレと自販機しかない簡素な休憩所だった。見上げると満天の星。星数でここが東京から大分離れた場所だということが実感できる。垣根では、きれいなお姉さんが星空を眺めていた。光一はさり気なく近づき、話しかけた。
「星がきれいですね」
「ええ、とっても」
たったそれだけの会話。それでも、誰かと気持ちを共有できたのは嬉しい。できれば、ずっとこのままでいたい。
しかしこの小さな幸せは、「まもなく発車します」という運転手の声でかき消された。
バスに乗り込むと、また眠気がやって来た。そうしてまた目が覚め、二回目のトイレ休憩となった。
今度はどこにでもありそうなサービスエリアで、サラリーマンたちが降りて行った。彼らは自販機でそれぞれドリンク類を買ったが、資金に限りのある光一は我慢した。そんな光一に気を利かせたのか、運転手が缶コーヒーを差し出した。
「これ、どうぞ」
「あ、すみません……」
光一は遠慮も躊躇もなく受け取ると、プルアップしてゴクゴク飲んだ。
「私もね、あなたくらいの頃は、家を出たいと常々思ったものですよ」
運転手はアイコスをうまそうにプカプカさせる。……家出がバレている。かすかな戦慄が走る。
「家に……連絡するんですか?」
運転手は首を横に振る
「そんな野暮なことはしません。そもそもあなたの連絡先も知りませんしね。それに……ほかのお客様もみな同じです。たとえばあなたがさっき話していた女の人、彼女も相方から逃げて来たんですよ」
「彼女をご存知なんですか?」
「そういうわけではありません。さっき私、アイコスを落としてしまいまして、その音で彼女が一瞬ビクッとしたのを見たんです。あれはDV被害者特有の反応ですよ」
「運転手さん、まるで探偵みたいですね」
「いやなに、この仕事をずっとしていると、その人が何を背負ってきたか、だいたいわかるようになります。ほかにも、会社をクビになったことを家族に言えない、横領がバレて逃げている、出世レースに敗れて絶望している……今日のお客様はそんな方々です」
「みんな、逃げて来た……」
「ええ、自由を求めてやって来るんです。たとえ明日の朝、辛い現実が待っているとしても、忘れていた一息のために、刹那の自由が必要なんだと思います」
光一は飲み干したコーヒーの缶を、ペコンペコン鳴らした。
「明日バスを降りたら……僕はどうしたらいいんでしょう」
「何でも出来ますよ、どこかへ逃げてもいいし、お家や学校に戻ってもいい。それを選べるのが自由ってもんです。どうです、自分で人生を決められるってワクワクしませんか?」
バスの中での残り時間、光一はこれからのことについて考えた。なかなか結論は出ない。しかし、運転手の言うように、ちょっぴりワクワクする気持ちもある。
朝七時、バスは定刻通り東京駅丸の内口に到着した。乗客たちは眠い目をこすりながら、ゆったりとバスを降りていく。
「ご乗車ありがとうございました」
一人一人に挨拶する運転手。光一も深々と頭を下げた。
バスが走り去ると、乗客たちは元の生活へと歩き出した。サラリーマンたちはどこか幾分腹が据わったように感じられ、きれいなお姉さんは、こころなしか清々しく見えた。
光一も家に帰る。でもそれを決めたのは自分だ。そう思うだけで、昨日より少し強くなれた気がした。
東京行深夜バス 緋糸 椎 @wrbs
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