恋の前夜

夢月七海

恋の前夜


 天井を見上げていた。ホテルの電灯の白い明かりでも、部屋の隅では闇が蹲っている。

 虚脱感だけを覚えていた。仕事や運動の後とは違う疲れが全身に残る。その一方で、体の芯には、先程の熱がじんじんと疼く。


「どうだった?」

「……すごかった」


 花の蜜のようにとろりとした声に、そう返すのが精いっぱいだった。同じベッドの上、隣の彼女は、くすりと笑う。

 寝転がったままで、上半身を起こした彼女に目を向ける。下着すらも付けていない体は、オレンジの濃淡のある縞模様の長い毛に包まれている。俺が愛撫した部分が逆立っていた。


「大分激しくしちゃったかな」

「いいの。気持ち良かったから」


 俺も、とはちょっと言えなかった。気持ちいいなんて次元の話ではなかった。頭のてっぺんから、脊髄を貫き、踵へと通り抜けていく衝撃に、俺はよがっていた。

 人間の男として生まれたのに、人間の女では、満足するどころか萎えてしまっていた。悩みに悩んで、猫獣人の娼婦の手を借りることにした。


「……人間の客って、珍しいのか?」

「まあまあいるわよ。珍味目的でね」

「俺はそんなんじゃないぞ」


 勝手に、怒気の含めた声が出た。だが、彼女は苦笑で返した。

 そっと、本を開くように、直前までの情事を思い返す。肉球の付いた手で、触れられた時の身体の震えや、爪を立てていない指で胸をなぞってもらった時の心の喜びを。


 だが、俺の切実さは伝わらず、彼女はからかわれると思ったようだった。彼女はベッドから降りて、床に脱ぎ捨てていた、パンツを拾った。


「帰るのか?」

「もう時間だから。あ、もしかして、延長?」

「そんな体力はないよ」

「私も。お金くれたら、頑張るけど」


 俺と彼女は、客と娼婦の関係か。当たり前のことに、少しだけ寂しさを覚えた。

 彼女がパンツを履く。尻側についた穴から、尻尾がにゅるんと出てきたのを見て、器用だなと感心する。


 そのまま、彼女は化粧台の前に座り、櫛で亜麻色の髪を梳かす。その次に、櫛とは違うブラシで自分の毛並みを整え始める。

 彼女の手つきはとても丁寧だ。テーブルに零れたミルクを拭うかのように、逆立った毛をならす。そうして、俺の痕跡を消していく。


 好きになったのかもしれない。背中を見ながら、そんなことをぼんやり思う。あまりに頼りない、恋の予兆だった。

 キスの時のざらついた舌。純白の腹毛。琥珀色に浮かぶ縦に細い瞳。桜色した小さな鼻。口の周りの柔らかな膨らみ。誇らしく伸びるヒゲ。優雅にくねらせる尻尾。それら全てが愛おしかった。


 だが、この気持ちが情欲から来ていると指摘されれば、言い返せない。もしも、彼女とは違う獣人と肌を会わせれば、その子の方を好きになっていたのかもしれない。

 化粧台の鏡に映る俺の顔は、酷く腑抜けている。一方、同じ鏡に映る彼女は、不機嫌そうに口を曲げている。背中の毛を梳かそうとして、届かないのが不満らしい。


「背中、やろうか?」

「あ、お願いしてもいい?」

「もちろん」


 ベッドから降りてから、素早くパンツを履き、彼女の背中に回る。手渡されたブラシは、かなり年季が入っていて、酷くごわついていた。

 逆立った彼女の毛に、ブラシを入れる。下へ動かそうとしても、絡まった毛に止められてしまう。長く美しく、柔らかな毛なのにもったいないと、苦心する俺を見て、彼女が溜息をついた。


「毛が長いのは嫌ね。いつも大変で」

「俺は、羨ましいよ」

「自分が獣人だったら、自慰だけで満足できるから?」

「そういう意味じゃない」


 彼女のジョークに、ムキになって言い返す。それでも、彼女は肩を竦めただけだった。本気にしてもらえていない、そう感じて、心に隙間風が吹く。

 きっと何度も、似たようなことを言われ続けたのだろう。彼女に何を伝えても、海に叫んだかのように、俺の声は波の間に消えていく。


「私ね、料理人になりたかったの」


 外の音すら届かないこの一室で、彼女が波紋を起こすかのように呟いた。


「でも、料理に毛が入るからって、どのお店でも門前払いにされたわ」

「酷いな」

「身の程を知らなかったからね」

「そんなことない。素敵な夢だよ」


 彼女はふふっと笑った。

 背中の殆どの逆毛をかした俺を見上げて、「上手ね」と歌うように言う。


 もっと知りたくなった。彼女のことを。昼は何をしているのかを、どんな映画を見るのかを、子供の頃の思い出を。

 そして、自分のことを彼女に教えたいと思った。俺と彼女が、替えの効かないくらいに、唯一無二の存在になれたらと、夢想する。


 背中の毛を梳かし終えてから、彼女はてきぱきと荷物を片付け始める。濃紺のドレスを履き、肩にドレスの紐を掛けて、化粧台の上のピアスを耳に付け直す。

 一連の動きを、ベッドに座ったまま、俺は黙って見ていた。彼女が鞄を持った時点で、やっと口を開けた。


「また、会えるか?」

「ご指名してくれれば」

「そういう意味ではなくて、」


 否定の言葉はすぐに出たが、その後が続かない。

 じっと俺を見下ろして待つ彼女に、飴玉のように口の中で転がした言葉を、一気に吐き出した。


「……よく晴れた昼間に、二人で公園へでも」


 太陽の下で、彼女と会いたかった。日光を浴び、その毛はキラキラと黄金色に輝くだろう。

 彼女は柔らかく微笑んだ。細めた目に見惚れている間に、ベッドの隣の小テーブルにあったメモ帳に、何かをさらさらと書きつける。


「これ、私の番号」


 そう言われて数字の並んだ紙片を渡されても、現実感が持てなかった。


「好きな時に電話して。昼は大体暇だから」


 それだけ言い残すと、彼女は軽く手を振って、ドアを開ける。俺も慌てて、手を振り返した。

 ドアの閉まる音。自分だけが残された部屋で、宝箱の鍵のように、彼女のメモを大切に握っていた。今夜が何かの前触れになる、そんな期待と共に。
























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