猫の手を借りた末路

透峰 零

猫の手は招く

 その日はとても暑かったのを覚えている。

 近所に住んでいたお姉さんが死んだので、お母さんと、三歳下の弟の真白ましろと一緒に、僕はお葬式みたいなところに行っていた。

 はっきり断言できないのは、あまりにも小さくてよく覚えていないことと、お姉さんの自宅に真昼間に行ったからだ。

 今から考えると、恐らく近所付き合いがあった故の通夜前の弔問だったのだろうと思う。


 とにかく、僕ら三人は真夏の昼下がりに真っ黒な服を着て、陽炎が立ち上って蝉が鳴きわめく中を出かけていたのだ。

 お母さん以外にも黒い服を着た大人が沢山いて、深刻な顔をして話し出したものだから、僕と真白は早々に暇を持て余してしまった。

 最初はお母さんの周りでおとなしくしていたけれど、大人たちの話が終わる気配はない。つまらないので真白と一緒に近くの脇道をぶらぶらしていると、と出くわした。

 猫爺は近所でも有名なゴミ屋敷の主で、どうして猫爺と呼ばれているかというと、ゴミに溢れた彼の家からは常に猫の鳴き声が聞こえるからだ。

 おおかた、餌付けした野良猫でもいるのだろうというのが大人達の見解だった。

 近所で下着泥棒をしたという噂もあり、死んだお姉さんも被害に遭ったようだと、お母さんとお父さんが話していた気がする。

 猫爺はいつもボロボロの格好をしているのだが、その時は珍しくちゃんとした服を着ていた。お母さん達と同じ、真っ黒な服――喪服だ。

 だから、僕はてっきり猫爺もお姉さんのお葬式に来たのだと思った。猫爺は暗がりから僕らの方を向いてじっとしていたが、不意に口を開いた。


「猫の手を貸してあげようか?」


 ボサボサの前髪で目は見えなかったが、彼は笑っているようだった。手を持ち上げ、僕らに向かってゆらゆらと振る。白い手袋をした、奇妙な形に膨れた手だった。

 大人達には、猫爺に着いて行ったらいけないと言われている。

 学校の先生も、怪しい人に着いて行くのはいけないことだと言っていた。そして猫爺は怪しい人だ。

 けれど、後じさった僕の前にパッと小柄な影が飛び出した。


「猫、みれるの?!」


 きらきらと目を輝かせた真白の問いかけに、猫爺が緩慢に頷く。

「ああ、見れるよ」

「じゃあ、いく!」

 止める間もなく、真白は猫爺の元へと走っていった。右手を伸ばした猫爺が小さな手を取る。

 真白は少し怪訝な顔をして猫爺を見上げていたが、特に何も言わなかった。振り返り、僕に笑いかける。

「お兄ちゃんも行こうよ!」

 ここで止めれば良かった。大人達のところに走って逃げれば良かった。今ならそう思う。

 だがその時の僕は、目を離した隙に弟がどこかに連れていかれることの方が怖かったのだ。

 猫爺が、空いている左手をゆらゆらと振る。その奇妙な動きに釣られるように、気がつけば僕も彼に手首を握られていた。

 手袋越しに、やけに柔らかくて温かい感触が伝わってきた。ぎょっとして見上げたが、猫爺は相変わらずニタニタと口元を歪めているだけだ。気味は悪かったが、真白が平気な顔をしているので僕も我慢することにした。




 猫爺の家は近くに寄るとすごく臭かった。

 あちこちに黒いゴミ袋が溢れかえり、牛乳を拭いて放置された雑巾のような臭いが漂っている。

 暗い家の中からは、やっぱり猫の鳴き声が響いていた。猫爺はゴミが積み上がって閉められなくなった玄関から、僕らを連れて中に入った。

 奇妙な五芒星の描かれた扉が蝶番を軋ませ、僕らを飲み込む。

「靴は脱いでね」

 と言われたので、とても嫌だったけど仕方なく脱いだ。床の色は変わっていたし、奇妙な液体があちこちにこぼれていた。プリンの蓋や弁当の空き容器が床に直接放置されており、隅の方ではやけに大きな団子虫が幾匹も丸くなって干からびている。

 靴下越しにでも、そんな家の廊下に足をのせた時は背筋を変な悪寒が駆け抜けた。

 僕を左に、真白を右側に侍らせながら猫爺は嬉々として家の奥へと引き摺っていく。歩く場所を厳選したかったが、手を掴まれたままだったので僕は足の裏で変な虫の死骸や液体を踏みつけて進まざるを得なかった。

 ダイニングを通り抜け、リビングへ。

 玄関よりも廊下よりもダイニングよりも――そこは今まで通ったどの部屋よりも臭くて澱んでいた。

 窓はあるはずだが、うず高く積み上げられたゴミの山のせいで意味を成していない。積もった埃が薄暗い中に舞い上がり、僕ら三人の服を白く染めた。

「ねぇねぇ、猫は?」

「目の前にいるよ」

 無邪気な真白に答え、猫爺が顎をしゃくった。彼の言葉に導かれて前方に目をらした僕は「ヒッ」と上ずった悲鳴をあげる。

 目の前には、無数の猫がいたのだ。

 暗闇に浮かび上がる猫のシルエット。だが、彼らは一様に異様な姿形をしていた。させられていた。


 そこにいた猫はすべて、手が切り取られていたのだ。


 そして、頭部にはまるで目隠しでもするかのようにガムテープがぐるぐる巻きにされている。その数は一匹二匹ではなかった。十か二十か……しかも、声から察するに奥の壁際にも、姿が見えないだけでいるだろうことは容易に予想がつく。

 目が見えないからか、あるいはこの屋敷に充満するひどい臭いのせいか。どの猫もふらふらと覚束ない足取りで、暗闇の中を彷徨い歩いている。

 まるで悪夢を見ているようだった。

 呆然としていると、何か柔らかくて温かいものを踏んだ。思わず悲鳴をあげて足を退けると、僕らの足元には一匹の白猫が蹲っていた。猫爺の口元がにちゃりと歪む。

「この猫は良い目をしているだろう?」

 言って、猫爺は足先で猫をひっくり返す。ガムテープの切れ端が引っかかった右目は潰されて白い虫が湧き、濁った青い左目が僕らをうつろに映している。

「青い目はね、異界を覗いた目なんだよ。信号とおんなじさ。黄色は危険信号、赤は手遅れ。左というのがまた良いだろう? 古代エジプトでは左目は供物のシンボルとされる。それに左は過去を、右は未来を表しているとされているんだ。これは神道の考えだったかな? つまり、この猫は己の過去を供物として異界を覗いたことになる」

 言葉の合間に猫を足先でなぶるが、その体が動くことはない。白猫を奥に蹴った猫爺は次に、壁際に吊られた猫を僕らに見せた。

 同じように残らず両手を切り取られ、目を覆われている。それだけでなく、上半身をなぜかパンストで縛られ、天井から吊るされていた。

「こいつらは仕上げだったんだけどな。もういらなくなった」

 猫たちは威嚇するように低い声で唸り、歯をかちかちと鳴らしている。手が無いにも関わらず、その身体は普通の猫より大きく感じた。

「お前ら、あの女の死に顔を見に行ったんだろ? どうだった、どんな顔をしていた? 俺は見せてもらえなかったからな」

 黄色い歯を剥き出しにして、猫爺は笑う。

「知ってるか、なんであの女が死んだか。あの女の婆さんが昔、俺を馬鹿にしたからだよ」

 意味がわからない。

 猫爺は何かに憑かれたように、唾を撒き散らしながらまくし立てる。

「散々優しくしておいて、俺じゃない違う男と結婚しやがった。だから、猫の手を借りて復讐してやることにしたんだよ。なかなか洒落が効いてるだろ」

 暗闇で響く猫の声が一層大きくなった気がした。

 僕らを見下ろした猫爺の目が長い前髪の間から覗く。爛々と金色に輝き、瞳孔はくっきりと縦に長い。

 まるで猫の目だ。

「猫は七代祟るって言うだろう? だから、俺の姿が見えないように目を潰してから、こいつらの手をあの女ん家の庭に埋めてやったんだ。原理は犬神と同じだな。その手を踏んで、あいつら何も知らずにず―――っと暮らしてたんだよ。面白いよなぁ。まさに「手を借りて」ってやつだ。ハハッ、ざまあみろ。そうしたら、あの女の血筋は全員さっさとくたばっていきやがった。ハハッ、ハハハハハハ」


 狂ったように笑っていた猫爺は、そこでようやく僕らの手を離した。

 思わず抱き合った僕らの前で、猫爺がゆっくりと手袋を外す。

「そうしたら、俺もこのザマだ。でも後悔はない」

 手袋から出てきたのは、人の手にしては毛深い。薄暗い中で、白い毛がぼうっと浮かび上がった。指も四本しかないし、そもそも指と呼べるほど手の先が分かれてはいない。かろうじてものは掴めるだろうが、それは異形と言っても差し支えないくらいには歪だった。

 見せつけるように掲げた掌はやけにゴツく、薄紅色の膨らみが中央と、本来なら指があるところに広がっている。


 ――それは、歪な猫の手の形をしていた。


 彼に手を握られた時の何とも言えない感触を思い出し、背筋から一気に汗が噴き出す。


 部屋に響く猫の鳴き声が、ぴたりと止んだ。





 それから後のことは、正直よく覚えていない。

 真白の手を引いて、無我夢中で猫爺の家を飛び出し、泣きながら母親の元に帰ったことだけは朧げに覚えている。猫爺のことを話そうかとも思ったけど、とても無理だった。

 誰かに言えば、あの恐ろしい化け物が襲ってくる気がしたのだ。真白にも「忘れろ。忘れないとお兄ちゃん、お前のこと嫌いになるからな」と言ったら、可愛い弟は次の日にはあっさりと忘れていた。

 猫爺にずっと捕まれていた手首には奇妙な形の痣が残ったが、彼はそれも特に気にしなかったようだ。つくづく、三歳児の単純さは羨ましいと思う。





 そしてしばらく経った秋口。

 猫爺の家が燃えた。

 火の不始末か、煙草のポイ捨てか、原因は不明だがとにかく全焼。

 木造でゴミも多かったから、よく燃えたのだろう。焼け跡からは猫爺と見られる高齢男性の焼死体が見つかった。

 だが、不思議なことにその死体には両手がなく――また、消火作業の間は煩いほど声がしていたにも関わらず、猫の死体は一匹も出なかったそうだ。

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