【10】ペンと、桜
池田春哉
ペンと、桜
SNSにもマナーというものがある。
細かいものもすべて含めればその文章量は六法全書を凌ぐのではと思うほどだ。しかも今もなおSNS市場は成長を続けており、それに伴い新しいマナーが次々と生まれている。
その最たるものが『真夜中にメッセージを送らない』だと僕は思う。
真夜中の定義は人によって曖昧だろうが、僕は基本的に零時以降だと考えている。それは多くの人が眠っている時間だからだ。睡眠中に通知が来たら目が覚めてしまうかもしれない。
SNSの発展によって人はいつでも繋がりあえるようになった。だからこそ、相手の生活の邪魔をしないよう気をつけなくてはいけないのだ。
ただ、すべての物事がそうであるようにSNSマナーにも例外はある。
――それは相手がただの他人ではなく、とても大切な人だった場合だ。
『眠れない』
スマホの画面に浮かんだポップアップには一言そう表示されていた。送り主の名前は『
時刻は午前一時十五分。部屋のカーテンの隙間からは暗闇しか見えない。立派な真夜中だ。
いつもは日付が変わる前に眠ってしまう彼女だが、まあ無理もない。
『明日だもんね、合格発表』
彼女が入学を目指して必死に勉強していた壱西高校の合格発表が明日なのだ。たしか朝九時だと言っていた気がする。
『うん。こわいね』
こわい。そんな言葉を彼女が吐き出すなんて思わなかった。シンプルな文字だからこそ、彼女の心情が真っ直ぐに伝わってくる。
僕は『大丈夫だよ』と返信しようとして、全部消した。
そして言葉を打ち直す。
『入試に必要なのは刀じゃなくてペンだよ』
トーク画面に僕のメッセージが表示されると、すぐに既読マークがついた。
『それ私が
『そうそう。僕が二刀流は最強って話したときのやつ』
『結局最強だったけどね』
笑顔の絵文字が文末にくっついている。本当に笑っているのかはわからない。
『そうでもなかったよ』
『そうなの?』
『うん。僕は確かにスポーツ推薦って形でみんなより早めに入学は約束されたけど』
そこで一度メッセージを送り、すぐに続けて次のメッセージを送る。
『代わりに高校では陸上部に入ることを約束させられた』
既読マークがつく。ただ返信は来ない。彼女は僕の話の続きを待っている。
『僕の高校生活はもう決められてるんだ。もし僕が卒業までにカメラに興味を持っても、楽器に興味を持っても、小説に興味を持っても――高校では陸上部に入る』
既読マークがつく。
『それは完全な勝利じゃない。自由と引き換えに合格を得た、取引みたいもんだ』
そのメッセージを送るとすぐに、彼女から短い返信が送られてきた。
『後悔してるの?』
『そうじゃないよ。僕の磨いた剣術が誰かに必要とされて嬉しかったしね。僕はこの道を歩いていくことに決めたから。……でもやっぱり完璧な未来を手にするのは、ペンのほうだったのかなとは思うよ』
『刀だって、誰にでも持てるものじゃないでしょ』
『だからこそだよ』
『だからこそ?』
静かな自室に彼女からの言葉が届く。
声もない。顔もない。それでも届く。
『刀じゃなくて、ペンで道を切り開いていく楠谷さんはすごくカッコいいなって思ってた』
僕がそう送ると『なにそれ』という文字が笑う絵文字と一緒に返ってくる。笑っていてほしい、と思った。
『簡単じゃなかったと思う。ペンなんか誰にでも握れる。その中で勝ち抜いていかないといけないなんて大変だ』
既読マークがつく。僕と彼女しかいないトーク画面で僕たちだけがそれを見ていた。
それは目が合ってるのと同じじゃないだろうか。
『それでも僕が見てきた楠谷さんは、ずっとペンを握ってたよ』
既読マークがつく。彼女は今どんな顔をしてるんだろう。
『だから結局』
僕は立て続けにメッセージを送った。
届け、と祈りながら。
『楠谷さんは最強なんだ』
僕の言葉が二人の世界に投げ込まれる。
そして既読と表示されてから、しばらくして。
『ありがとう』
ただ一言、それだけ返信があった。絵文字もない。
それでも彼女はきっともう大丈夫だろうと思った。
『おやすみ』
僕の送ったメッセージに、既読マークはつかなかった。
***
カーテンの隙間から青空が覗き、鳥の鳴く声が聞こえる。
画面に表示された時刻は午前九時十五分。
顔を洗うことも着替えることもせず、ベッドに座ったまま僕はスマートフォンを握りしめていた。じっとその画面を見つめる。
その手の中のスマホが一度だけ震えた。彼女の名前が表示される。
僕はトーク画面を開く。
――そこにはペンと、桜の絵文字だけが送られていた。
(了)
【10】ペンと、桜 池田春哉 @ikedaharukana
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