温かな“猫の手”

misaka

私の場合

 古びた2階建てアパートの一室。

 その日、私は、10年間描き続けた漫画の最終回、その締め切りに追われていた。

 1人黙々とペン入れからベタ塗りまでをこなす。

 傍らには空になった栄養ドリンクの瓶や缶が放置されていた。


 私はずっと、1人だった。

 誰かの手を借りることが、なんだか弱さを見せているような気がして。


 今書いている最終回も、納得がいくまで何度も何度も描き直しを重ねることになった。

 そして、ようやく形になったのが昨日。


 しばらく安眠できていない今の私の顔はきっと、悲惨なものに違いない。

 視界はぼやけ、思考もまとまらない。


 「あと3日で、残り8ページ……」


 うわごとのように漏れる声。


 とても間に合わない。

 学生の頃から書き始め、新人賞を受賞して。

 10年以上、すべて1人でやってきた。


 できてしまっていた。


 だからこういう時、私に頼れる人脈がなかった。

 余計な意地を張り続けてきたツケがが回ってきたのだと後悔する。


 もう、ペンも握れない。


 意識が遠のいていく……。






 ふと、ぼやけた私の視界に、いくつかの人影があった。


 「――さん? ――さん!」


 私の知らない誰かが、私の名前を呼んでいる。

 最初、やつれた私を見て驚いていた彼ら彼女らだったが、部屋の惨状と白紙の原稿を見て、察してくれたようだ。


 「私たちが手伝います! 安心してください!」

 「僕たち、先生に憧れて、漫画家になったんです!」

 「勇気も元気も、たくさんもらいました。だからせめて、これぐらいは……!」

 「ごはん、持ってきましたよ。食べてください」


 すぐに持ってきた道具を広げ、原稿を仕上げ始める彼ら。

 ちょうど猫の手も借りたい状況だったのだ。

 たとえ怪しくても、誰何は後にして、今は彼らの厚意に甘えよう。


 『ありがとう……』


 どうにか言葉を絞り出し、私も最後の力を振り絞ってペンに手を伸ばした。






 助っ人が来てくれて、3日目の朝。

 それは締め切り当日の朝でもあって……。


 「「終わったー!」」


 とうとう、原稿が完成した。

 その間、何を書いたか、どんな作業をしたのか、正直、まったく記憶がない。

 それでも、目の前には私が納得できる原稿がある。


 助けに来てくれた彼らの腕も確かなもののようで、作風や線のタッチから、私の作風をよく理解し、好いてくれていることが伝わってきた。


 誰かと漫画を描くのはこれが正真正銘、これが初めて。

 人生で一度も味わったことのない達成感が胸を焦がす。


 「先生、お疲れさまでした!」


 助っ人の1人が声をかけてくれる。

 彼に倣うように次々と、他のアシスタントさん達も声をかけてくれた。


 「これでもう、大丈夫ですね」

 『えぇ……そうね……』


 寝不足のせいで、呂律もうまく回らない。

 それでも私は、感謝の気持ちを言葉で伝える。


 「尊敬する先生のお手伝いが出来て、光栄でした」

 「後は私たちが対応しますから、先生はもうお休みください」

 「確かに! ひどい顔ですよ?」


 そう言って、彼らは笑う。

 もう彼らがどこの誰なのかなんて、どうでも良かった。


 自分以外に漫画を好きで描いている人たちがこんなにいる。

 それが何だか温かく感じられて。

 その温もりのせいか、私の瞼が重くなる。


 『ごめんなさい、私、眠くて……』


 久しぶりの睡眠前特有のふわふわした感覚に包まれる。


 そう言って少しずつ頽れる私を見て、彼ら彼女らはなぜか涙を流す。

 が、すぐにそれが原稿が完成した喜びによるものだと理解した。


 「お疲れさまでした、先生」

 「安心して、お休みください!」

 「ごはん、また持ってきますね」


 そう言って、私が結局口を付けなったコンビニ弁当を撤収する。


 熱中し、忙殺され、猫の手も借りたい状況のまま、終わってしまった私の人生。


 そのままでは死にきれなくて。

 ペンも握れない身体のまま過ごすこと1年。


 ようやく私は、待ち望んでいた”猫の手”を借りることで作品を完成させることが出来た。


 その手は、私の作品を愛してくれた人々が差し出してくれた、どこまでも温かな手のひらで。




 私の場合、猫の手を借りた結果――無事、成仏することが出来そうです。






 『本当に、ありがとう……』


 やせ細り、未練に満ち満ちた表情が嘘だったように優しい笑顔を浮かべて。

 その幽霊は、輪郭を薄れさせていく。


 自分たちに夢と勇気をくれた、偉大な先輩に対して。


 「こちらこそ、ありがとう、ございました……!」


 声に涙をにじませながら。

 未来を担う作家たちはいつまでも、いつまでも。

 深々と、頭を下げ続けたのだった。

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