猫と桜と恋の花

悠井すみれ

第1話

 綾乃あやのお嬢様が黒猫の小夜さよを花見に連れて行きたいと言い出した時、女中ののぶは必死に止めたものだ。


「上野はすごい人ですよ。猫一匹、はぐれたら二度と見つかりませんよ」

「でも、ひとりでお留守番じゃ可哀想でしょう。みんな出払ってしまうのだもの」


 日本橋に店を構える呉服屋の大店おおだな播磨はりま屋の箱入り娘のお嬢様は、春の上野寛永寺かんえいじの混雑を、今ひとつ分かっていないのではなかろうか。花見は毎年のこととはいえ、店の者に壁のように囲まれて移動するのでは、押し合いへし合いの大変さを実感することはないだろう。


「うるさくないほうが小夜も落ち付いて昼寝ができますよ」


 店をあげて上野まで繰り出す花見の一日は、使用人にとってはまたとない楽しみだ。播磨屋の主人は気前が良いから、番頭から丁稚でっちの小僧に至るまで、休みがもらえる上に弁当や菓子をふるまってくれる。満開の桜の下での美食はまた格別で、播磨屋では誰もが年が明けたころから花見を楽しみにしている。梅の立場がない、という冗談もあるほどだ。


 でも、冬はお嬢様の膝か火鉢の横(時にヒゲが焦げたりする)。夏は風の通る縁側。季節季節で居心地の良い場所を見つけて寝る名人の小夜は、遠出をありがたがったりしないだろう。


 今も、お嬢様の腕の中で小夜は身体を丸めて寝惚け顔だ。金色の目はほとんど閉じて、信のいるところからだと黒いふかふかした塊にしか見えない。あとは、赤い縮緬の首輪がちらりと。呉服屋のお嬢様の猫だけに、獣ながらに小夜は着道楽なのだ。


「小夜にも桜を見せたいのよ。うちの庭も悪くないけど、寛永寺はまた別格でしょう?」


 それは、もう。寛永寺と言えば開府以来の伝統ある桜の名所、江戸っ子の誇りなのだから。でも、猫にとってはどうだろう。桜だろうと梅だろうと椿だろうと、良い感じの陽だまりや木陰があるかどうか、にしか関心がないのではないか。ほかに、あるとすれば──


「猫は花より団子──っていうか、魚やかつお節なんじゃないですかねえ」

「それなら、なおさら。外でごちそうをあげてみたいわ。ねえ、小夜?」


 うにゃあ、と小さく鳴いた小夜は、多分お嬢様に頷いたのではないだろう。とろとろしていたところに声を掛けられて揺すられたから、うるさい、という抗議の声だ。でも綾乃お嬢様には違ったように聞こえたらしい。


「ほら、小夜もこう言ってるし。ちゃんと繋いでおけば大丈夫でしょう」


 にっこり笑うお嬢様は、おっとりとしているようで言い出したら聞かないのだ。だから──信は諦めて溜息を吐いた。


「仕方ないですね。あたしもしっかり見てますけど──お嬢様も、くれぐれも気を付けて」


 今年の花見は、桜よりも猫を見る時間が長くなりそうだった。


      * * *


 その日は、花見日和の晴天だった。雲ひとつない青い空に、風に舞う淡い色の花弁がよく映える。

 寛永寺の広い境内のあちこちに、緋色の毛氈が敷かれている。播磨屋のように店を挙げての宴席もあれば、親類同士や長屋の仲間内での集まりもあるだろう。女たちや娘たちは、桜やお互いに負けじと華やかに装って、地上にも花が咲いているかのよう。重箱には旬を迎えた鯛の焼き物やふんわりと厚い卵焼き、散らし寿司などが詰まって、こちらも彩に満ちている。


 播磨屋の席の周りには、立ち木を利用してぐるりと紐が巡らせられていた。そこに各々が纏ってきた小袖をかければ、色鮮やかな陣中となる。緋色や紫や紅色の、鶴に桜に御所車。周囲からの目隠しと、播磨屋の商品の披露を兼ねた趣向だった。


 寛永寺は将軍家の菩提寺とあって、酒も鳴り物もご法度だ。とはいえ春に浮き立つ人間たちは、桜と話と茶菓でも酔うことができる。賑やかに語らう家中の喧騒の中、でも、大事に籠に入れられて来た小夜は、毛氈の片隅を寝床と決め込んだようだった。


「小夜、やっぱり寝てばかりなのね。せっかく来たのに……」

「だって、猫ですもの。今のうちに桜を見ましょうよ、お嬢様」


 猫を追いかける羽目にはならなさそうで、信は心底ほっとしていた。小夜の首輪と手近な桜の幹を紐で繋いでいることでもあるし、少しは気を抜いても問題なさそうだ──そう、思いかけたのだけれど。


「そう、ね……あ、小夜、だめ──」


 綾乃お嬢様が、狼狽えた声を上げた。小夜が不意にむくりと起き上がると、なあん、と鳴いたのだ。のんびりとした猫なのに、やけに大きな声で。三角の耳がぴんと立ち、鼻先がふんふん、ぴくぴくとしきりに動いて何かの匂いを嗅いでいる。長い尻尾が揺らめくのは、飛び出す兆候としか見えなかった。


「小夜……っ」


 猫の名を呼びながら、手を伸ばした信は一歩、遅かった。彼女の指先に柔らかく温かい感触を残して、小夜は吊るされた小袖に、体当たりするように突進した。


「何だ、いったい!?」

「お嬢さんの猫が──」


 店の者たちが声を上げる間に、小袖の幕は大きくめくれあがってしまった。その向こうで宴席を設けていたのも、やはり大きな商家なのだろうか。突然の大声に驚いたのか、播磨屋と同様に巡らせた小袖の間から、ひょいと姿を覗かせた若者がいた。


「猫、捕まえて……!」


 小夜に繋いだ紐は、はためく小袖と絡んでしまっている。急に首が締まった驚きと苦しさにだろう、小夜は激しく暴れて甲高い声で鳴き続けている。首を吊ってしまったら、暴れる弾みに紐が切れてしまったら。綾乃お嬢様と信の悲鳴が重なって、現れた若者に懇願した。


「あ、ああ……? 可哀想に。ほら、落ち着いて……」


 娘二人の必死の声に、目を瞠ったのも束の間。その若者は、すぐに小夜に目を留めてくれた。暴れる小夜を小袖で包んで、尖った爪を避けてあやしながら、宥めてくれる。彼も猫を飼っているのか──ほどなくして、小夜はその人の腕の中で落ち付いた。


「貴女の猫ですか? 怪我はなさそうです。逃げてしまわなくて、良かった」

「ああ──ありがとうございます……!」


 泣きそうな笑顔で礼を言って、お嬢様は受け取った小夜を抱き締めた。信としてもひと安心──と思って、良いのだろうか。

 だって、小夜を助けた若者とお嬢様は、熱い眼差しで見つめ合っている。播磨屋の旦那や番頭が、先方の席にとんだ騒ぎを、とかどうかお礼を、とか言っているのも聞こえないようで。


 まあ──相手の身なりも品も良いようだから、きっと不釣り合いな縁ではないだろう。播磨屋には跡取りの若旦那もいるし、嫁入りだって、婿をもらって暖簾分けだってそう無理なことではない。あとは、親と本人同士が決めること。信が口を出すことではない。


「良かったですねえ、お嬢様」


 だから信は、惚けて小夜の頭を撫でるに留めた。ひと騒動起こした黒猫は、寝ていたところを叩き起こされた、とでも言いたげに、被害者づらでにゃあ、と鳴いた。


      * * *


 十年以上前のことを語り終えて、信は締めくくった。


「──これが、お父様とお母様の馴れ初めです」

「ふうん?」


 首を傾げるおきぬお嬢様は、綾乃奥様の末のお子様だ。あの日からとんとん拍子に縁談がまとまって、綾乃お嬢様は嫁いでいった。あの若者は、播磨屋と同じく呉服屋を営む伊勢いせ屋の跡取りで、つまりはまたとない相手だった。信もお嬢様について行って、こうして子守をしたりしている。


 奥様に似て可愛らしく夢見がちなお絹お嬢様は、丸い頬を両手で包んでうっとりと呟いた。


「……源氏物語みたいねえ。あの、女三宮おんなさんのみやの」

「ええ、播磨屋では若菜の変と呼んでいますよ」


 光源氏の妻の姫宮が、猫のせいで姿を人目に晒してしまった巻にちなんでの命名だ。あの日の出来事も、その結果の縁組も物語のようで、江戸っ子らしからぬ雅な想像を、誰もが思い浮かべたのだ。源氏物語では、猫を切っ掛けにして道ならぬ恋が始まるのだが、まあ細かいことは良いだろう。


「小夜もそんなに元気だったことがあるのねえ」

「ええ、あのころも十分大人だったと思うのですけど」


 ぐうたらな小夜が突然起き出したことについて、信は少し疑うことがある。猫といえば花より団子、桜より魚やかつお節──と言ったのは彼女だけれど、猫はほかにもっと好むものがあるだろう。


 例えばまたたび、とか。


 大好物のまたたびの匂いがしたら、寝ていても起き出すし、匂いのもとを探して騒ぐのではないだろうか。小夜を大切にしているお嬢様が、あんなに花見に連れて行くと言い張ったのも、思えば怪しい。またたびで小夜を酔わせて騒ぎを起こして、さっそうと助けに入る──そんな一幕を、ふたりは計画していたら?

 店の格や財力では良い縁でも、親がうんと言わなければ縁談は儘ならないもの。誰もがこのふたりなら、と納得するようなを、猫と桜にかこつけて企んだのではないだろうか。


 もちろん、何年も前のことで証拠もない。言ったところで誰も損も得もしないことだ。小夜は災難だったかもしれないが、後で十分良い餌をもらっていたし、あの後は家から出されることなく、ぬくぬくとした生活を送っている。


 だから──信がこの話をしたのは、幼いお絹お嬢様を納得させるためでしかない。


「──だから、吉野よしのをお花見に連れていくことはできませんよ。いつもは寝ていても、不意に飛び出してしまうかもしれないんですから」

「……そうねえ。逃げてしまったら可哀想よねえ」


 吉野──小夜の子で、親に似ず明るい茶色の縞の猫──の背を撫でて、お絹は残念そうに呟いた。


「ええ、そうですよ」


 信に説得を任せた奥様は、もしかしたら娘が自分と同じ企みをするのを警戒しているのだろうか。いや、これも邪推に過ぎないのだけれど。


 猫の手など借りずとも、ご両親はお嬢様の幸せを何より願っているのだろうから。

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