愛がん動物

姫路 りしゅう

第1話

「あ~ん忙しい忙しい! もう、猫の手も借りたいくらいだよう」

 引っ越しの準備などで朝からてんやわんやだった美也子が叫ぶと、横で手伝っていた浩美が急に手を止めた。

「美也子、そういうの本当によくないと思う」

「……ん? はは、あれ? わたし何か言った?」

 美也子も手を止めて振り返り、そこで初めて浩美の顔が怒りに染まっていることに気が付いた。

「自覚もないんだ。そっか。美也子がそういうタイプだとは思ってなかったかな」

「ちょっと待ってよ、ごめんね。気を悪くさせたなら本当にごめんなさい。それと、何が悪いかわからなくてごめんなさい。でも自分が何したかわかってなくて。わたしが何したか教えてくれない?」

 浩美はまるで品定めするかのようにじっとりと美也子の顔を舐めまわすように見た。

 そして不機嫌そうな顔のまま、「猫の手も借りたいってどういう意味よ」と言った。

「……いや」

 有名なことわざだよね。

 猫の手ですら借りたいくらい相当忙しいことのたとえのはずだ、と美也子は思った。

 しかしそれを言うと浩美の表情が消えた。

「意味を分かってて使ってたんだ。一層タチが悪いね」

「だから、本当に何の話?」

「その言葉、猫さんに失礼じゃない?」

「……」

 美也子は一瞬、何を言われたのかわからずフリーズした。

 それを見た浩美はため息をついて説明を補足する。

「忙しくて猫さんの手でもいいから借りたいって、本当は他の手が借りたいけれど妥協して猫さんでいいやってことでしょう。そこがまず失礼だし、猫さんの気持ちをガン無視して猫さん程度ならいつでも手を借りられると思っているってことだよね。ちょっと自分勝手すぎない?」

「……は、いや……」

「美也子が言っているの、お腹空いたからお母さんでいいや、晩ご飯作って。って言ってるのと一緒だよ。わかる?」

 浩美の言っていることは全然わからなかった。

 わからなかったけれど、浩美が何か不愉快に思っていることはよくわかった。

「ねえ、わかる? って聞いてるんだけど」

「……」

 美也子は困惑しながら思考を整理する。

 まずたとえ話。それはよくわかった。確かに「母親でいいや、ご飯作って」なんて発想は母親に失礼だし、自分何様だという感じだ。

 そして浩美は、猫も同じだと言った。

 や、同じだろうか。猫って愛玩動物でしょう。と美也子は思う。

 それでも、浩美の怖い顔に委縮した彼女は小さい声で「ごめんなさい」と言った。

「愛玩動物とはいえ、ちゃんと尊重するべきだった。反省したよ」

「……」

 それでもなおも不機嫌そうな浩美。

「どうしたの?」

「愛がん動物っていう言葉も好きじゃないんだよね。猫さんをおもちゃ扱いするのってどうなの。と言いつつ、まあそのあたりはじっくり意識を変えていけばいいよ」

「……」

 妙に上からなのが鼻についたが、美也子は唇を噛んで頭を下げた。


**


 その少し、あるいはかなり後。どこか別の場所にで。


「あ、ネコチャン!」

 学校からの帰り道、道端で野良猫を見つけた灯里は小走りで駆け寄った。

「春果! ネコチャンだよ~!」

 しかし春果は険しい顔で灯里の様子を見ていた。

 春果ってネコチャン嫌いなのかな、と思ったけれど、それよりもネコチャンを抱きしめたい欲望が勝った灯里は右手をひらひらと振りながらゆっくりと間合いを詰めていく。

「んぎゅー!」

 野良猫はとてもおとなしく、いとも簡単に灯里の腕に収まった。

 もともと飼い猫だったのか、人に恐怖がないらしい。

「ね、春果。ネコチャンだよ~」

「灯里ってそういう子だったんだ」

「……え?」

 数メートル先で佇んでいる春果が、ぽつりとつぶやいた。

 灯里は聞き間違いかな、と思ってネコチャンを抱きしめたまま春果の方を見る。

「いま、なんて言った?」

「……灯里ってそんな子だったんだね」

「え、ごめん。そんなにネコチャン嫌いだった? あ! もしかしてアレルギー? だったらデリカシーなかったかな。ごめんね」

 早口でそう捲し立てると春果は失望したような表情でため息を吐く。

「なに? ネコチャンって。この子のことを固有名詞で呼ばずにネコチャンってひとくくりにするの失礼だと思わないの」

「んー?」

 言葉は認識できたのに内容が全く理解できなかった灯里は首を傾げた。

「灯里には灯里って名前があるように、この子にもきっと名前があるよね。それを無視して一般名詞で呼ぶのは失礼じゃないの? って聞いてるんだよ。灯里だって明日から“人間”だとか“女”とか呼ばれたら不愉快じゃない?」

「……いや、言いたいことはわかるけど、春果なんか変だよ?」

「変なのは灯里だよ!」

 いや、変なのは春果だよ、という言葉を慌てて飲み込む。

 どうやら彼女は真剣に怒っているようだった。

「でもネコチャンって動物じゃん。犬とか猿とかを一匹ずつ識別しないのと同じじゃない?」

「同じじゃないよ。いつまで古い時代の価値観に縛られてんの?」

 古い時代の価値観、という言葉に灯里は少しだけ狼狽した。

「だいたいそうやってその子を抱きかかえてあんた癒されてるけど、正当な対価は払ってる?」

「せ、正当な対価?」

「うん。労働には正当な対価、つまりは給料が必要だよね。その子はあんたの腕に収まることで癒しを提供している。じゃああんたは?」

「……」

「猫なんていう個体を全く尊重しない名称で呼んで、対価も与えない。はぁ。灯里がそんな子だなんて思ってなかった」

 そうやって言葉にすると確かに酷いことをしているように思えてきた。

 いやいや、と灯里は首を振る。

 それでも、言ってしまえば相手はたかが猫だ。

 そんな動物を、そこまで尊重する必要はあるのだろうか。

「だからそれが、古い価値観なんだよ」

「……」

 灯里は納得がいかなかった。

「春果の言い分はわかった。ネコチャンを尊重したい人がいることもよくわかった。でもそれはその人たちだけでやっていればよくない? 確かにネコチャンに暴力を振るっていたりしたら問題だけど、別に何もしていないわけだし」

「そういう考え、本当身勝手」

「なにを」

「傍観して、自分は無関係ですって顔してるけどね。そういう発想が既に加害者なんだよ。ちゃんと全員が自分事として考えないと世界は変わらないの。ここに不条理な現実がある。それは全員が自分事として捉えて、全員で変えていかなきゃ!」

 春果はだんだんトーンアップしていき、最後は大きなジェスチャーと共に両手を広げた。

 それに圧倒された灯里は俯いて、「ごめんなさい」と言った。

「わかってくれればいいんだよ。確かに価値観が変わるときって怖いよね。でもどっちが正しいか立ち止まって考えてみよう? それで、徐々に受け入れていったらいいよ!」

「……うん」

「そうだ。まずはこの本を読んでみて。すごくわかりやすく問題点と今後の展望を提起しているからさ」

 そう言って春果は一冊の本を手渡した。

『猫と人間』というタイトルで、著者は小寺美也子さん。

「小さいことでも、できることからやっていこう。そしたらきっと、世界はかわっていくから!」

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