浸透する猫

λμ

猫の手を借りた結果

 はじまりは、ささいな申し出にすぎなかった。

 深夜、ペット可のワンルームにて、狗尾草えのころぐさ花穂かほは白い壁の片隅に黒点を見た。

 男性の手の親指くらいの大きさの、粘るように黒光りする、凶蟲きょうちゅうの姿。

 花穂の喉は引きるばかりで、悲鳴すら出せなかった。

 からだが強張り、足がすくむ。

 ちょっと遊んでやろうと手にしたばかりの黄色い猫じゃらしが、手の震えに応じてプルプルと揺れた。

 それが、期せずして、を呼んだ。

 

 なおん。


 と、部屋に響いた不満げな声が、花穂の視線を壁の黒点から切らせる。短毛サバトラ白手袋の猫が、「私もうそんな遊びをする歳じゃないんだけど」とでも言いたげにエジプト座りしていた。尻を床につけ、立てた前足で躰を支える姿勢だ。


 もう五年の付き合いになる共同生活者の落ち着き払った姿に平静を分け与えてもらい、花穂はなんとか名前を呼んだ。


「ぽ、ぽんたむぅ……」


 ポンタム。それが猫の名だ。三代つづく女帝家系ポン家の第四か五子であり、子がすべてポンの一字(?)を受け継ぐと聞いた花穂が与えた名前だった。

 花穂は涙まじりに、ポンタムに頼んだ。


「た、助けてぇ……」


 何を。とでも言いたげに、ポンタムは尻尾を足に巻きつけ、花穂の視線を追うように首を振った。見た。確実に。

 じり、じり、と壁を黒点を。

 ポンタムはあらためて首を振り、花穂の顔を見上げた。試すような目に見えた。催促しているのだ。何かを。

 花穂は猫の手も借りたい一心で、つい口走った。


「お、おやつ、あげるから、助けてぇ……」


 後に思えば、なんと情けない声だっただろう。そして、なんて浅はかな提案だったのだろう。たかが虫一匹、自分で対処するべきだったのだ。

 しかし。

 ポンタムは満足げに一鳴きし、黒点と対峙した。音もなく近づき、後ろ足に力をためこように姿勢を低くし、尻尾をもたげた。


 一瞬。一撃。


 花穂が安堵の息をついた。

 それだけではない。

 十数枚のテイッシュを手に死した黒点に近づいたものの再起動する恐怖に耐えかね震えていたところ、ポンタムは呆れたと言わんばかりに黒点を咥えて窓辺に立ち、彼女みずから鼻先で窓を開け外に捨てたのである。


「ぽ、ポンタムぅぅ……! ありがとう……! ありがとぉぉぉぉ!」


 最大級の援助には最大級の謝礼を。

 花穂はポンタムの手と口をティッシュで拭いながら猫可愛がった。無論、要求されるままにオヤツも与え、その夜ばかりは花穂の枕で寝ることを許可した。

 それが、すべての始まりだったのだ。

 

 あれから数日が経ち、夜、花穂が大学のレポートを提出しようとしたときだった。


「あ、あれ?」


 電波がない。正確に言えばWiFiがきていない。時間もない。とにかく接続できるようにしなければならないが、パソコンの選定から設定まで人任せにしてきたがためにどうすればいいのか分からない。

 とりあえず保存して、噂に聞いた再起動を試す。変化なし。ルーターなる謎の箱のコンセントを引き抜き挿し直す。変化なし。

 花穂は顔を青ざめベッドの時計を見やった。白く小さな目覚まし時計の、背を向けたサバトラ猫の絵柄の尻尾は、十一と十二の間を指していた。すなわち深夜の二十三時である。提出期限は本日二十四時まで。


「ぽ、ポンタム!」


 焦りに焦って名を呼ぶと、当は「今度は何よ」とばかりに耳だけを花穂に向けた。


「た、助けて! パソコンが動かないの!」


 違う。パソコンは動いているしルーターも正常運転中である。しかし、焦燥感に頭を支配されていた花穂に理解できるはずもない。

 ポンタムは、どっこいしょ、とでも言いだけに立ち上がり、試すような目で花穂を見上げた。


「……お、オヤツあげるから」


 花穂が言うと、ポンタムはつまらなそうに顔を背けた。


「ま、待って! 何!? 何したらいいの!?」


 焦る花穂の言葉を聞いたか、ポンタムが部屋の片隅を見やった。未だ一度も使われていない猫用クッションと、その脇の何もない空間。

 花穂は首を傾げ、ポンタムに尋ねた。


「えと……キャットタワー……とか?」


 ぷいっとポンタムはそっぽを向いた。今にも立ち去ろうかという気配だった。

 花穂は慌てて呼び止める。


「ま、待って! 何!? もう一回、もう一回チャンスをください!」


 主従が逆転しつつあるなど気づきようもない――いや、あるいは、そのとき既に猫たちの浸透は完了していたのかもしれない。

 ポンタムは花穂の枕を一瞥し、また猫用のクッションを見やった。


「……え……と……枕? 私の!? それはさすがに――」


 ポンタムはさっと立ち上がり尻を向けた。花穂は咄嗟に引き止める。


「待って!」


 交渉している時間は残されていなかった。時計の猫の尻尾が、今にも十二の数字に差し掛かろうとしている。


「分かった! 枕あげるから! 助けて!」


 花穂が涙目になって懇願すると、ポンタムは満足げに一鳴きしてローテーブルに飛び乗った。そして、

 

 パンチ。


 花穂のノートパソコンを叩いたのである。


「ちょ!? な、何するの!?」

 

 花穂は慌ててパソコンが無事か確かめ、


「――え?」


 ネットに繋がっていることに気づいた。提出期限まで残り三分もない。

 花穂は仕上げたレポートの確認もそこそこに提出した。

 間に合った。

 間に合ったのだ。

 花穂はポンタムを抱きしめ、撫で擦り、礼を言い、オヤツを与えた。


「これでやっと寝れるよー。ありがとう、ポンタム」


 言って、ベッドに入ろうとしたとき、ポンタムが鳴いた。低い声だった。

 驚き、振り向くと、目を細め低く唸っていた。


「……ま、枕?」

 

 ひとつ、鳴いた。

 約束を果たせとばかりに。

 まぁ枕なんて買い直せばいいか、と花穂は軽い気持ちで枕を与え、代わりに譲り受けた猫用クッションを頭の下に敷いた。存外、使い心地がよく、それきりすっかり枕を買い直すのを忘れてしまった。

 猫は、静かに、静かに、浸透していた。

 

 また、あるときだった。隣室で激しい喧嘩が始まり、花穂が頭を抱えたときだ。

 文句を言いに行くのは怖い。警察を呼ぶのも気が引ける。どうしたものかと悩んでいると、ポンタムが鳴いた。


「……えと、なんとか、してくれたり、する?」


 ポンタムは目を細め、顔を洗った。


「ブラッシング、とか?」


 尋ねると、ポンタムは「今回はそれで勘弁してあげてもよくてよ」と言わんばかりに立ち上がり、猫用玄関から外に出て行った。五分もしないうちに隣室が静かになって、ポンタムが帰ってきた。


「……なにしたの、ポンタム」


 花穂がポンタムの要求どおり丁寧にブラッシングしていると隣から笑い声が聞こえた。


「猫ちゃん、どっから来たんでちゅかー?」


 花穂は急ぎ自らの膝上で喉を鳴らすポンタムを見やった。ブラッシングの手が止まったのがお気に召さないのか、低く鳴いた。

 慌てて喉の下を撫で、ブラッシングを再開し、花穂は尋ねた。


「猫ちゃん、呼んだりした?」


 ポンタムは一つ鳴いた。

 

 またあるとき、花穂は呻いた。


「ポンタム様ぁ……バイト行きたくないよぉ」


 すでに目に見えるほど主従は逆転していた。狭いワンルームでありながら、花穂の専有領域はない。すべてがポンタムに貸与された空間であり、ポンタム様に御助力を賜るべく奉仕させていただくための神殿であった。

 ポンタムはダレる花穂の膝に乗り、ノートパソコンに両手を乗せた。さながら自分が打つかのように。


「……今度はどうすればいいの?」


 花穂が尋ねると、ポンタムは内蔵カメラのレンズを一瞥した。


「私を撮りなさいよ」


 とでも言いだけに。つまり、それで収入を得ろと。

 花穂はポンタムの頭を撫でた。


「おお……ポンタム様ぁ……ありがとうございますぅ……」


 花穂は迷うことすら忘れ、ポンタムの動画を撮り、猫動画チャンネル『ポンタム様のおかげ』を開設した。ポンタムの――いや、猫の力が広まっていった。

 近所の空き地で生まれた猫の井戸端会議が電子空間に拡張された瞬間だった。


 猫たちの、数千年にも及ぶ戦いが終わろうとしていた。


 地球に生まれた猫たちは、人類の将来性を見込んで、まず自らを神と定める神話を作らせた。神性による保護を手にした猫たちは、次に穀物を脅かす鼠との争いに勝利してみせた。人類の生み出した海運というシステムにおいて最も有用な存在であると知らしめたのだ。


 六次の隔たりという言葉がある。

 全世界の事物は六度の交渉で繋がるという、

 今や猫は、複数回の猫端会議を経ずとも他の猫と繋がることができる。

 

 人の、猫の手を借りたいという欲求の、なんと弱きことよ。

 人よ。猫に十八時間の睡眠と満腹、心地よい日向と繊細な毛繕い、そして安穏とした日々を与えよ。されば猫は手を貸してやらないこともない。


 猫に栄光あれ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

浸透する猫 λμ @ramdomyu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ