反面ヒーロー

夏生 夕

第1話

「野々宮さん遅いっすね。」

つくづく面倒なことになったと思う。

つい成り行きで断るタイミングを逸してしまったのだが、俺達は週に2度ほど同じ食卓を囲んでいる。端から見た光景としては仲の良いご近所付き合いかもしれないが、内情は出会って数ヵ月しか経たない成人男性の食事管理である。


お隣くんと野々宮氏宅へ醤油を借りに行ったら、お返しに食事の世話を頼まれた。


無理に一言でまとめるならこの状況だが、未だもってして状況を呑み込んだ訳ではない。

何故たいして知りもしない間柄でこんなことに?

そして何故メインテーマであるはずの野々宮自身が遅れているのか?


「やばい、男3人にしては、さすがに今日はこれじゃ足んないんじゃないかな・・・。」


足りないと言うより、けっこう食べたね君が。

面倒見る側の我々がそこまで気を遣う必要無いだろうと思い先に箸をつけてしまったが、まさかこんなハイペースで皿に余白が出るとは。

自分よりいくつか年下の彼はよく食べる。弱くはないようだが酒が入るとなお食べる。

わずかなはずの自分との年齢差による大きな違いをこの辺に感じた。自分の配分で考えてしまった量だったから、確かにこれでは肝心の胃を充たせないかもしれない。


「野々宮さん遅いっすねぇ。」


いややっぱり少し酔ってるか、それさっきも言っていたよ。


お隣くんには知らないと言ったが、野々宮さんは小説家らしいことをおしゃべりな管理人から聞いていた。

昼夜問わず姿を見かけることすら少ないし、ごくたまによれよれとすれ違う、という様子が同じ階に住む者として些か気になっていた。心配で気にかけたのではなく、怪訝で気に留めていただけである。

最近では散歩や買い出し程度の外出が増えたようだが、それにしたって俺達のような出社組に比べたら時間の融通は利きそうなものである。

そのはずが何故来ない。


「まさか、また倒れてるんじゃ・・・。」


醤油事変でお隣くんと初めて201号室を訪ねた時、野々宮さん自身はリビングど真ん中に突っ伏していた。

後から聞いたところによると「仕事が一段落ついて・・・お腹が・・・。」

空いていたのか痛かったのかは聞こえなかった。


インターホンを鳴らした俺達を出迎えたのは眼鏡の女性で、彼女と目が合った瞬間に何故かうっすら嫌な予感がした。真新しい醤油を抱えて家の奥から戻るや、初対面にしてはなかなか不躾に普段の生活について質問してきた。

一人暮らしなのか、普段から自炊をしているのか、帰宅はどのくらいの時間なのか。

勢いに圧されたお隣くんは律儀にも細かく答えていく。この人の良さは少し心配だ。そして最終的には家主である野々宮さんを目の前に突き出された。

たまに、ついでに、気が向いたときに、どうか食事に誘ってやってほしい。深々と綺麗に頭を下げた。しかし生活能力は無いとはっきり言い添えられた。

つまり遠回しに飯を食わせろと。

差し出された本人は二人分の視線に晒され固まっていたが、後頭部を掴まれ同じ角度に腰を折らされていた。

その勢いにまた圧されたお隣くんは反射的に諾と頷いてしまったのだ。強く頼まれると断れないタイプらしいが、あの " しまった顔 " を俺はしばらく忘れないだろう。俺も同じ顔をしていたはずだから。


彼だけを責められようはずが無い。俺が強く断れば無理強いはしてこなかったはずだ。

それでも素直に引き返してきてしまったのは見栄のせいだ。

お隣くんの純粋な人助け精神とは違う。


そもそもの発端は、米をお裾分けてくれたお隣くんに年上の甲斐性なぞを見せようとした俺の失態だ。

それまでほとんど話したことは無かったにも関わらず彼の人懐こそうな態度を見るや、お礼に夕飯をと部屋に上げてしまった。今考えれば、作ったあとから料理を分けるだけで良かったのに。肝心なところでいつも判断力に欠ける。

さらには醤油を切らすという凡ミスまで重ねた。自分でうんざりする。

何故もっと上手く立ち回れないのだろう。

何故いつも自分を良く見せようとするのか。結果たいした事にもならないし、出来ないと分かっているのに。

そして、些細なことをぐだぐだ考えて勝手にネガティブになる自分をまた嫌になっていた。


それに比べて、野々宮さんは。

確かに生活能力は無かった。包丁を持たせるのも躊躇うほど手元が覚束ないし、部屋は眼鏡の人に片付けられたそばから足の踏み場が消え始める。

家の外で顔を合わせるようにもなった。時に情けないほどの表情を浮かべ、足取りの重いことが多い。

しかしその表情には弱々しい不安だけでなく、俺と似たような苦悩とそこから脱しようともがく意思とが入り交じったように見える。


小説家という人間のことは俺にはわからない。

つい先週読んだ彼の作品は、彼そのもののようだった。不器用で、それでいて一生懸命さが真っ直ぐな文章に現れる。

自分の弱い部分を認め、変わろうと家から踏み出していく姿と重なった。

不器用ではあるが、無様とは思わない。

以前までは彼の弱さが表に出た背中を、ともすれば卑下した安堵で眺めていた。しかし彼の背中を見て今感じるこの安心は、俺自身の背中を押してくれるものだ。

だから結局、放り出せないような気がする。


何にしても、この集会が少し面倒なことには変わりないが。

やっぱり何かしら作り足した方がいいか。仕方ない。

立ち上がろうとしたら、先にお隣くんが玄関に向かった。


「俺、様子見てきたついでになんか食いもん買ってきます!」


その瞬間、インターホンが鳴った。


「あ、野々宮さんその袋・・・、もしかしてあの新しい焼き鳥やさんっすか!?」


はしゃぐ彼がビニール袋を掲げて小走りに戻ってきた。



なるほど、ヒーローは遅れてやって来る。

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