『今日から、ふたり――』
龍宝
「今日から、ふたり――」
染めてから日の浅い茶髪が首筋をくすぐったのが、どうにも落ち着かない。
雑踏の中で、まるで初めて迷子になった小学生のような、
自分ひとりだけが、場違いのような。
自分が今ここに立っていることが、信じられないような。
この感覚を忘れた時が――そんな時が、果たして来るのだろうか――忘れることができた時が、都会に慣れたということなのだろうか。
小柄なサキの身体を避けようともしないで、帰路を急ぐサラリーマンや若い女が、早足で追い越していく。
容赦なく
アルバイト帰りの身体に
宵闇が
中心部から離れている区画とはいえ、それなりに珍しい光景である。
茜色の空に向かって歩いている自分が、まるで追われているような、取り残されているような存在に思えて、サキは鞄から使い古した音楽プレーヤーを取り出した。
「――通い慣れた駅のホームで あたし振り返らなかった♪」
イヤホンを耳に
上京して、大学の勉強についていきながら、学費のためにアルバイト
何もかもが慣れなくて、戸惑うサキを都会は容赦なく置き去りにしようとする。
「――背負い直したかばんが いつまでも馴染まなかった♪」
余裕のないサキを見抜いたのか、学部の同期は
ここでも、自分ははぐれている。
「――ぱたぱたと切り替わる掲示板 行き先をごまかして♪」
次第に、声が大きくなってくる。
「――追ってくるやつなんて
それでも、
大変な毎日だが、自分にはここで頑張るしか道はないのだ。
「――駅員の声に
地元には、帰らない。
そう決めて、この町にやってきた。
「――締まるドアの向こう 古い看板と眼が
もう、何度聴いただろう。
物心ついた時から、自分の家庭が常軌を
毎日、毎日ぶたれて、悔しくて、拳に
そんな地獄で、この歌に出会ったのだ。
「――客のまばらな車内が やけに他人行儀で♪」
中学生の頃に、近所に住んでいた先輩から貰ったお下がりの音楽プレーヤー。
娯楽も何もない生活で、サキはそれだけが希望で、楽しみだったのだ。
家中に響く怒声も、イヤホンで
「――見慣れた景色よ あたし知らない町へ行く♪」
歌の中の少女が自分の境遇と重なって、サキはいつかきっと、自分もこうやって家を出るのだと思い続けてきた。
この歌に勇気を貰いながら、荒れた高校時代を堪えしのぎ、やっとの思いで都会の大学に出てきたのだ。
「――あたし今日から また生き始めよう♪
これっきりで おさらばしよう♪
あたし今日から また人生始めよう♪
これっきり ぜんぶこの街に置いていく♪」
下宿のアパートが見えてきた。
イヤホンを外したサキは、ようやくの安心感を抱きながら、
二階、自分の部屋を通り過ぎて、隣の部屋の前で足を止める。
サキの唯一の友人、隣人にして姉貴分の
ひょんなことから顔見知りになったふたりだが、以来妙に気が合って、特に用がなくても
今日は、彩子の誘いで一緒に夕飯を食べる約束になっていた。
インターホンを押そうとして、そういえば数日前から壊れたままだったのを思い出す。
合鍵でも貰っておけばよかったな、と試しにドアノブを
「あや
自分が来る時間帯なので、前もって開けておいてくれたのだろうか。
そう判断して部屋に入ったサキの耳に、信じられないものが聞こえてきた。
「――見慣れた景色よ あたし知らない町へ行く♪」
一瞬、上着のポケットに
いや、それはない。
記憶をさかのぼるまでもなく、確かにイヤホンはつながったままのはずで、何より歌は
慌てて、サキは部屋の奥へ駆けていった。
「あ、あや姐――‼」
「おかえり、サキ。早かったね」
「バイト終わって走ったから――って、そうじゃなくて! それ! その歌!」
こちらに気付いた彩子が、ベッドに腰掛けたまま
その膝の上には、今の今まで
「あァ、聞こえてたか。良い感じでしょ? あたしのお気に入りでさ」
「な、何で、あや姐がその歌知ってるの⁉」
「何でって――これ、あたしの歌だから」
思わぬ同好の士に興奮するサキに、彩子が何でもないことのように言った。
「言ってなかったっけ。あたし、ミュージシャン志望でさ。こっちに出て来てからしばらく、熱心に活動してたんだ。これは、あたしが一番初めに作ったやつでね。思い入れがある」
「ええ……⁉」
驚愕に固まったサキだったが、彩子が証拠とばかりに見せてくれた動画投稿サイトのチャンネルを見て、ついに本人だと納得せざるを得なかった。
「だ、だって、あや姐、いつもギターとか弾いてなかったのに」
「あー、うん。ね。最近はさ、こういうのやってなかったから」
ギターを片付けた彩子が、ラップトップの画面を
その声が何とも言えない響きを含んでいるように思えて、サキは思わず彩子の横顔を見
「あたしも、もう二十三だし。あんたと同じ歳でこっちに来て五年。夢を叶えようって、がむしゃらにやってきたつもりだけど、何だかよく分からなくなってきちゃってさ。このまま、歌ってていいのかなって」
困惑するサキに気付いたのか、彩子がわざとらしく笑い声を上げた。
「馬鹿、そんな顔してもらうような話じゃないよ。……さ、それよりお腹空いてるでしょ? 晩御飯にしようよ」
ラップトップを閉じて、台所に立った彩子の背中をサキは
自分が、青春のすべてを費やして
だが、その本人が、自分のやってきた道に迷っているとは、どういうわけなのか。
興奮とも怒りとも、何とも形容しがたい感情を持て余して、サキは自分でも分からないままポケットに手を突っ込んでいた。
思い切り、つながっていたイヤホンを抜き取る。
一拍置いて、狭いアパートの一室に歌声が響き渡った。
そうだ、どうして今まで気が付かなかったのか。
この歌声は、親のそれよりも耳に
「――サキ、それ……⁉」
「私、この歌を聴いて生きてきた。どんな時も、この歌の主人公みたいに、いつかこのくそったれな家を出てやるんだって、そう思って
傷だらけの音楽プレーヤーを握り込んで、サキは彩子の眼を見つめた。
「私の青春は、ぜんぶこの歌で、この人だったんだ。あや姐。あや姐の歌なんでしょ?」
胸の奥から湧いて出てくるものに
「あや姐が、こっちに来てから、どれだけ苦労したかは知らない。売れるとか売れてないとか、そんなの私には関係ない。私は、私にとっては、この歌が――あや姐が、私だけのヒーローだったんだよっ」
込み上げる熱が、両眼からこぼれ落ちる。
頬を伝うそれを
「だから、だからさ――歌わないなんて言わないで。私には、それしかなかったのに」
まるで子供のわがままだ、とサキは我ながら思った。
だが、初めて口にするわがままだった。
「……馬鹿。だから、あんたが泣くような話じゃないって」
「あや姐、でも――」
「――泣きたいのは、あたしの方だよ」
とっさに顔を上げたサキを見返した彩子の眼尻には、確かに
「あたしの歌が、もしあんた以外に聴いてるやつのいないような歌でも、井住サキってひとりの人間の人生にそんなに役に立ったんなら、それでいいのにね。……ははァ、馬鹿はあたしか」
言って、彩子はきつくサキを
「歌うよ、サキ。これからも、歌うさ」
「あや姐……!」
「まずは、あんたのために一曲、歌ってやらなきゃね」
どちらからともなく、笑い合った。
今日からだ。
今日からふたり、この町で生き直そう。
今日から、ふたりでまた人生を始めよう。
『これっきり』作詞・作曲:AYAKA
通い慣れた駅のホームで あたし振り返らなかった
背負い直したかばんが いつまでも馴染まなかった
ぱたぱたと切り替わる掲示板 行き先をごまかして
追ってくるやつなんて 居やしないのに
駅員の声に急かされ あたし電車に乗り込んだ
締まるドアの向こう 古い看板と眼が合った
客のまばらな車内が やけに他人行儀で
見慣れた景色よ あたし知らない町へ行く
あたし今日から また生き始めよう
これっきりで おさらばしよう
あたし今日から また人生始めよう
これっきり ぜんぶこの街に置いていく
『今日から、ふたり――』 龍宝 @longbao
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