「忘れられない」という病
Ab
第1話
ハイパーサイメシアという言葉を聞いたことはあるでしょうか。
初めてこの言葉を聞いた時、私は、ちょっとかっこいいなと思いました。怪獣をやつける必殺技みたいに七色のビームが出せそうで、はたまた未知の生命体である宇宙人の名称のようで。
ハイパーサイメシアとは、病気の名前です。
驚異の記憶力で一度見たものは忘れず、過去の記憶は細部まで思い出せる。そんな病気の名前です。
教科書を流し読みすれば、テストは満点です。
代わりにジグソーパズルは一度しか楽しめません。テレビで芸人が嘔吐するシーンは脳裏で繰り返し再生されますし、私を見て嗤う人たちの顔は、いつまでも頭の中で私を貶してきます。
羨ましいと思うでしょうか。
たった十数年の学校生活を好成績で過ごせるだけの能力を、羨ましいと思うなら……どうか私から奪い去ってください。
このハイパーサイメシアという最悪な横文字を。
「──きさん。島崎彩花さん」
「……んぅ、はい?」
「この問題、解けますか?」
夢の中での現実逃避。
数学の先生が私の名前をフルネームで呼んだので、睡眠という快楽から私の意識は引き上げられました。
ゆっくりと顔を上げて前を見ると、伸びた前髪の隙間から僅かに黒板が見えました。
書かれているのは、未知数と式が4つずつの連立方程式です。
教壇の前に立つ先生が私を睨んでいますが、残念ながらハイパーサイメシアという病気の内容に、計算能力の向上は含まれていません。もちろん解き方は浮かびますが。
「わか──」
りません、と言おうとしたところで、隣の席からカツカツと爪で机を叩く音がしました。
私は一瞬だけ音源に視線を向けて、
「aが7、bが1、cが3、dが11です」
と答えました。先生は私を訝しみながらも、「……よろしい」と言って次の問題を黒板に書き始めました。私の罪はうまく隠蔽できたようです。
私は筆箱からシャーペン取り出して、自分のノートに「ありがとう」とかいた後、ノートを右にずらしてから相手と同じようにカツカツと机を叩きました。
視界の端で相手がこちらを向いたのが分かったので、私はまた机に顔を伏せ、微睡に身を委ねることにしました。
***
「──やか。あーやーかーっ!」
「……んぅ……うるさいですよ。私と由依は1キロ離れて会話しているんですか?」
耳元で聞こえたトランペットのような声に、私は目を擦りながら言いました。
しかし、反省はしていないようで、声の主である由依はべっとりと腕や肩、首や髪に絡みついてきます。
ここが人気のない屋上じゃなかったら、すぐにでも振り解いているところです。
「心も体もゼロ距離ですぅー! それよりさ、お昼休みまで寝ないでよ」
「お昼休みこそ寝るものです」
「じゃあ授業中に寝ないのーっ。数学の授業とか、私の助けがなかったらやばかったでしょ?」
「その件は感謝しています。やっぱり由依はいい友達だと思いました」
「嬉しいけど嬉しくない!」
わーわーと私に絡みついたまま騒ぐ由依を、私は空の弁当箱をどかして膝の上に誘導します。
茶髪、というより亜麻色に近い由依の髪を優しく撫でてあげると、すぐに大人しくなりました。太陽の光を反射して神秘的に輝くさらさらな髪は柔らかく、下まで撫でる間に指が沈み込んでいきます。
「えへへー膝枕だーっ」
「好きですね、膝枕」
「こんなむちむちの太ももに顔を埋めることができるんだから、嫌いな人いないよ。……おお! 今日は水色と白の縞々だー!」
「髪の毛に別れの言葉をどうぞ」
「それはイヤだーっ! 下はダメでも胸ならいい?」
「ダメに決まってます」
「えー」
「大人しく太ももで我慢してください」
「やったー! このえっちな生脚はあたしのものだ!」
「今だけですよ。数学のお礼です」
「うへへ、彩花ぁ、えへへ……柔らかい、すべすべ〜」
「やっぱりどいてください」
「黙ります!」
そう言うと由依はうつ伏せのまま固まり、本当に静かになりました。
よしよし、良い子です。
私は目を閉じ、風の音と指先の感覚だけに集中することにしました。
髪を撫でるだけのこの時間は、睡眠と同じくらい好きです。さらさらな髪は本当に触り心地が良いですし、なにより、目を閉じている間は余計な記憶の蓄積をしなくて済みます。
後者の理由は誰にも伝えたことはありません。
伝えるのは、失礼というものでしょう。
生温い風が私の髪と制服を揺らします。
この夢のような時間はしばらく続きました。チャイムの音は聞こえていないのでまだお昼休みだと思いますが、そろそろ教室に戻る準備をした方が良いでしょう。
「由依〜」
声をかけると由依はすぐに反応して、私のお腹に後頭部を向けました。眠っていると思っていましたが、起きていたようです。
「由依?」
しかし、それ以上動く気配がありません。
今回は反応すらありませんでした。
私は心配になって、由依の横顔を上から覗き込みます。前髪の邪魔なく見えた由依の肌は真っ白で、とりあえず目に光はありました。
ふぅ、と一安心。胸を撫で下ろします。
でも、由依の瞳はどこか儚げでした。
「どうしたんですか?」
もう一度尋ね、少しの沈黙の後、ようやく言葉が返って来ました。
「……彩花がずっと寝てるのって、もしかして、余計なものを見ないようにするため?」
私は息を呑みました。
声音はとても優しいものでした。
もちろん話した記憶はありません。
私がハイパーサイメシアだという知識だけで、由依は答えに辿り着いてしまったようです。核心をつかれてしまっては、否定しても無意味でしょう。
「……はい、そうですよ。でも勘違いしないでください。私は由依のこと、本当に良い友達だと思っています」
「それは心配してないよ。彩花が嫌がっても、あたしが彩花のこと離してあげないもん」
「嬉しいです」
本当に、心の底から嬉しいです。
ですが、由依はまだ話し足りない様子。ここは私から続きを促すべきですね。
「……では、聞いてきたのは単に気になったからですか?」
「……ううん。その、何か嫌なことでもあったのかなって。ハイパーサイメシアが原因で。いや、でも、嫌なことなら思い出して欲しくないし……でも、辛い記憶は彩花には何倍も辛いはずで、だからあたし、力になりたいというか……」
「成績優秀者の国語力じゃないですね」
「……彩花には敵わないよ」
「私はズルしてますから」
「ハイパーなしでも! だって右手の中指、すごいペンダコだもん」
「……由依の方が私の体に詳しいかもしれませんね」
「好きな人のことは何でも知りたいもん」
太ももの上で、由依の顔が熱を帯びていきます。
そんな反応をされては、女の子同士なのに本気にしてしまいそうです。
「すぅー、はぁーっ」
私は胸の鼓動を深呼吸で抑えました。
由依の髪に手を乗せて、小学校の記憶に遡ります。
「大した話じゃないんです。話すのに時間もかからない、ちょっとしたことです」
私がそう切り出すと、由依は黙って聞いてくれていました。こういう些細な気遣いができるところも大好きです。
「私が小学生のころ、学校ではイジメが流行っていました。悪ふざけの延長では許されない、陰湿なイジメです。被害者が助けを求めることも許されなくて、陰で行われるから学校側も適切な対応ができていませんでした」
今でも色付きで思い出せるスマホの画面。
「場所と日時が分かれば、学校側も現場を抑えることができました。でも、それはいじめっ子だけが知ることです。声にも出さず、SNSのグループチャットでイジメの詳細は決められていました。……そのグループチャットを、私は、授業中に一瞬だけ見てしまいました。教室全体が見渡せるのは、窓際最後尾の特権です。文字も小さく、一瞬だけでしたが、私には関係ありませんでした。私はすぐに教員に伝え、イジメを防ぎました。でも、一度防いだくらいでイジメは終わりませんでした」
「それって……」
「はい。学校側に伝えた犯人が私であることはすぐにバレてしまい、見事次なるターゲットにされてしまいました。それからの嫌な記憶は、今でも鮮明に覚えています」
「…………」
一息に話したので、さすがに少し息が切れました。
どんなことでも思い出せてしまう。これほど辛いことが、他にあるのでしょうか。どんなヒーローだって私を救うことはできません。そう、思っていました。
「ねえ彩花」
「はい」
「あたしと付き合おう」
「……はい?」
これは、告白でしょうか。
私の過去を聞いて、まさか告白してくるとは思いませんでした。
「あたしは医者じゃないから、彩花の嫌な記憶を消すことはできない」
「そうですね」
「けど、彩花が嫌なことを思い出す暇もないくらい、幸せな記憶で埋め尽くしてあげることはできる」
「それは……」
初めて、そんなことを言われました。
嬉しいのか、悲しいのか。
分からないけれど、胸の奥が熱くなってきます。
「あ、雨……彩花?」
空は快晴。
由依の勘違いは、私の涙です。
「ど、どどどうしたの!? ごめんね!?」
「いえ……その……嬉し、くて」
「そうなの?」
「はいっ」
あまりにも身近なヒーロー。
その髪をそっと撫で、私は泣きながらなんとか笑って見せました。
「幸せ、たくさんくださいね?」
「うん。絶対」
「私の愛は重いですよ。今の言葉もずっと忘れません」
「あたしの愛の方が重いもんね!」
「ふふっ、負けませんよ」
「あたしだって」
そう言って笑い合い、私は、私だけのヒーローを、上からそっと抱きしめました。
「忘れられない」という病 Ab @shadow-night
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