傷だらけのモリー

テケリ・リ

一人と一頭の旅路の果て


「モリー、こっちだよ」


 人里を遠く離れた深い森の中で。鬱蒼と茂る草木を掻き分けて、一人の少女が先を急ぐ。


 少女の名はグレイスといった。

 ポンチョを羽織り、赤色のふわりとウェーブした髪をフードに収め、後は至って普通の町娘風のシャツとスカート姿。足元は丈夫そうな革製のブーツを編み上げており、手には鉈を持ち、肩からバッグを提げていた。


 そんな少女にモリーと呼ばれた一頭の黒豹が、その小さな背中を追い掛けて、ゆっくりと歩く。


 その佇まいこそ堂に入ったものを感じさせるも、その動きには猫科特有のしなやかさも、獣本来の機敏さもありはしなかった。

 それもそのはず。モリーというこのおすの黒豹は、目の前を歩く少女――グレイスが生まれた時からずっと一緒に育ってきた、今はもう年老いた獣なのだから。


「もう少しで水場に着くはずだよ。頑張って、モリー」


 弱ったモリーを気遣い、ゆっくりとしたペースで先導するグレイス。手に持った鉈で小枝を打ち払い、足で下草を踏みしめては、背後を歩くモリーがちゃんとついて来ているか確認する。


 少女と言っても、グレイスは今年成人を迎えた十八歳だ。それだけの年数を共に生きた黒豹のモリーは、野生のそれの寿命を遥かに超えた長寿である。

 そんな、人で言えばグレイスの祖父母に相当する年齢のモリーを気遣いながら、グレイスは慎重に森を進んで行った。


「あったよモリー。水を飲んで一休みしよう」


 獣道を避け、グレイス達は森の奥で、滾々こんこんと湧き出る泉へと辿り着いた。


「隠れ里まで、あとどれくらいかなぁ……」


 傍らで地に伏せて水を飲むモリーを撫でながら、自身も腰を下ろしたグレイスは、この旅の始まりを思い返す――――




 ◆




「ごめんねグレイス。ちゃんとお前を導いてやれなくてさ……」

「ううん、お母さん。あたしは大丈夫だから。モリーも居るしね」


 グレイスが育った家は、森の魔女が暮らす小屋であった。彼女が母と呼んだ女性は床に伏せて、なけなしの力で腕を上げて、自身が拾い育ててきた少女の頭を撫でる。


 艶を失ってはいたがグレイスと同じ赤い髪を布団に広げ、急速に老いていくその女性。


「もっと早くに会いたかったねぇ。そうすれば、お前を立派な魔女にしてやれたのに……」

「大丈夫、あなたの娘を信じてよ。必ず隠れ里に行って、良い師匠を見付けて一人前になってみせるよ。だからそんな悲しそうな顔しないで。自然にかえって、あたしを見守っててね」


 言葉こそハッキリと受け答えをしてはいたが、グレイスの瞳はポロポロと涙を溢していた。育ての母の手を胸に置かせると、震える手で母の髪を――魔女の証である赤い髪を一房、ナイフで切り離す。


 魔女は人から産まれるが、人とは違う生き物だ。

 人では有り得ない赤い髪を持って生まれ、人と同じように成長するが、その寿命は遥かに長い。二十歳ほどの全盛の姿を死ぬまで保ち、死する時に一気に老いて、その身を土に変える。


 人では扱えぬ数々の魔法を操り、草花に精通し貴重な薬品を生成し……そんな力を頼る人には手を差し伸べ、人里から離れひっそりと森の中で暮らしていた。

 そんな人とは違う魔女達は、時には敬われ、また時には恐れられ迫害されてきた。


 この老魔女を母と呼ぶ少女――グレイスもまたしかりであった。


 魔女は決まって女性として生まれ、人と交わうことでその数を増やす。

 基本的には森に迷い込んだ男を助け、その見返りに子種を貰い子を成すのだが、時には人里に紛れ、人として生きる変わり者も居た。そんな変わり者の子孫に、時折先祖返りをして魔女として産まれる子が居る。


 グレイスはそのようにして産まれ、その魔女の証である赤い髪を恐れ、また魔女を産んだことで非難を受けることをいとうた両親によって、生後間もないにも関わらず、森に打ち捨てられたのであった。


「二百年は長かったけれど、お前のおかげで最期は楽しかったよ……」

「あたしもお母さんに拾われて幸せだったよ。ゆっくり休んでね……」


 もはやグレイスの顔すら見えない瞳をゆっくりと閉じ、その孤独だった老魔女は満足気な微笑みを浮かべ、息を引き取った。

 その身は見る見る内に骨と皮となり、次第に木へと変じ、さらにはただの土塊つちくれとなっていった。


 グレイスはその土を一掴みだけ手に取ると、小さな木箱に髪と一緒に詰めて、その他の母だった土は森へと還したのであった。


「行こうモリー。お母さんの故郷ふるさとへ」


 グレイスと共に育ち、傍らで共に老魔女を看取った黒豹モリーへと、彼女は声を掛ける。人の言葉をしっかりと理解しているその獣は、グレイスを気遣うようにその身体に優しく擦り寄る。


「平気だよ。あたしにはあなたが居るから」


 グレイスを老魔女が拾ったのと時を同じくして、同時期に生まれ同じように親から捨てられていた黒豹の仔。それがモリーであった。

 老魔女の元で、グレイスとまるで兄妹のように共に育ったモリーは、金色の瞳を優し気に細めて、未だに涙を流すグレイスを宥める。


 こうしてグレイスとモリーの、魔女の隠れ里を目指す旅は始まったのであった。




 ◆




「確か赤龍山脈の麓に、結界を張って暮らしてるって言ってたよね。もうあと少しだよ、モリー」


 泉のほとりで一夜を明かし、夜明けと共に再び歩み始めたグレイスとモリー。一人と一頭は老魔女の小屋を後にして既に半年もの間、人里を避け森を進み、森の恵みで生を繋ぎながら、魔女達が安心して暮らせると聞く隠れ里を目指していた。


 老魔女の教えの賜物か、森での暮らしに困ることはなかった。精霊の声に耳を傾ければ、食べられる木の実や茸、そして野草などはいくらでも見付かった。

 簡単な罠で小動物を捕まえたり、時にはモリーが獣らしくシカやイノシシを狩ってくることもあり、肉もキチンと食べられた。何であれば、一番苦労したのは魚を捕まえることであった。


 足を休めている間は、魔女の里にはどんな人達が暮らしているのだろう、と希望に満ちた未来を語り合った。

 新天地での新たな暮らしを夢見て、老魔女に約束した一人前の魔女になることを決意して、グレイスとモリーはひたすらにそこを目指したのだ。




 さらにひと月程が経ち、グレイスは異変を感じ取っていた。黒豹のモリーが、目に見えて弱ってきていたのである。


 その身は瘦せ衰え、金の瞳からは力が失われつつあった。

 その姿に森へと還った老魔女を想起させたグレイスは、より一層彼に気を使いながらも、不安に駆られ進む足を速めたのだった。


「もう少しだよモリー。もうひと月も掛からずに、赤龍山脈に着くはずだから。だからお願い……頑張ってよ。あたしを独りにしないで……!」


 油断すればよろめき、足をもつれさせる。

 食欲も落ち始め、もはや獣を狩ることも出来なくなってしまったモリーに、それでも懸命に声を掛け続け、夜は抱きしめて暖を分け与え、一歩ずつ確実に歩を進めるグレイス。


 親から捨てられた者同士。共に老魔女に育てられ、自分より成長の早い獣の彼を、兄と慕い生きてきた。

 グレイスにとって、老魔女を除けば唯一の家族。兄でもあり、恐怖や寂しさからいつも守ってくれたヒーロー。


 老魔女に続き彼まで失うことは、グレイスにはとてもではないが耐えらえなかった。


「モリーっ! 一緒に行こうって言ったよね……! お母さんの身体を故郷に返すって、約束したよね……!」


 懸命に声を掛けながら、その強く優しい黒豹の身体を支えながら、グレイスは森を進んだ。

 こんなにも軽くなってしまったと、その浮き出た肋骨に涙をこらえながら。足を止めることなく、彼女達は共に山を目指した。


 あと少し。ほんの少しでいい。

 隠れ里に着くまで。母の身体を届けるまでは一緒に居たい。


 その強い思いを拠り所にし、そしていよいよ目的の赤龍山脈の稜線が木々の隙間から望めるようになった。


「見えたよモリー! あの山の麓に行けば、ゆっくり休めるからね……! もう少しだから、お願い頑張って……!」


 ようやくだ、と胸を撫で下ろしたグレイスとモリーは、より一層深くなる森へと足を踏み入れていった。


 しかし、目的地を目前にして気が緩んでしまったのか。警戒が甘くなり、の接近に気が付くのが、あまりに遅すぎた。


 モリーが唸り声を上げて睨んだその先の茂みから、獣よりも恐ろしい、魔物が飛び出して来たのである。


「ゴブリンの群れ!? ここまで来て……ッ! モリー、逃げ――――ッ!?」


 老いた黒豹を逃がそうと上げたグレイスの言葉は、最後まで紡がれることはなかった。背後に回り込んでいたゴブリンが投げた石が頭に当たり、彼女は気を失いその場に倒れてしまった。


 遠く彼女の耳と森に、獣と魔物の絶叫が響き渡った。




 ◇




「――――ここは……?」

「目が覚めたかい? ここはアタシらの隠れ里だよ。良く頑張って辿り着いたね」


 見知らぬ天井。その視線を声のする方に差し向ければ、自分と同じく赤い髪を持った、妙齢……に見える女性の姿。


 その魔女しか持ち得ない髪を見た瞬間、グレイスは旅を為し遂げたのだと確信を得た。


「頭の傷は大したことなかったけど、気分はどうだい? 状況が分かるかい?」


 グレイスは頭の中を整理する。


 母である老魔女の死。共に育った黒豹モリーとの旅路。そして最後に見たのは、襲い来るゴブリン達――――


「ッ!! モリーは!? あたしと一緒に居た黒豹は!?」


 思わず飛び起き、魔女へと質問を浴びせる。しかし魔女は。


「立って歩けるかい?」


 詳しくは語らず、グレイスに肩を貸して立ち上がらせると、その魔女は家の裏手に立つ倉庫の中へと連れて行った。


 そこには身体の至る所に傷を負った、モリーが、静かに横たわっていた。


「アンタを背負って里に飛び込んで来たんだ。辿り着いた途端倒れて、そのまま……」


 良い使い魔を持ったねと、そう気遣う魔女に対してグレイスは、ゆっくりと左右に首を振った。


「使い魔じゃない。モリーは兄で……あたしだけのヒーローなんです……!!」


 さめざめとした慟哭が、遂に辿り着いた魔女の隠れ里に木霊したのであった――――



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