非実在を夢想する

染井雪乃

非実在を夢想する

 二十数年暮らした部屋を空にしていく。着なくなった服、小学生の頃収集したカード、中学生になって読むようになったファッション誌。布の端切れ。糸川いとかわなぎを構成してきた物たちだ。

 最後のページにあれこれと書きこみのある中学の卒業アルバムと、書きこみなど一つもない高校の卒業アルバムも出てきたが、凪は容赦なく両方捨てた。

 過去なんて、燃やしてしまえ。

 ごうごうと猛り狂う暴風雨のごとく、凪の感情は荒れていた。

 無表情に、ヘッドホンをしたまま、一切の容赦も慈悲もなく、ただ物を捨てていく。両親が出かけているうちに、この作業を終わらせてしまいたかった。両親、特に母は、物を捨てられないタイプで、卒業アルバムを捨てたことが知れたら、少々面倒だ。

 本棚から仕事の参考になりそうな本と、特に好きだった本を選び出し、箱に詰めた。そして、本棚に最後に残ったのは、過去の日記だった。無駄に立派な日記帳なので、保存状態はいい。


 処分を決めきって、凪は過去の日記に手を伸ばす。

「さっさと捨てるに限るな」

 凪の左側に人影が立った。年の離れた父親違いの姉の長男、りつだった。聡い子であっても、まだ十歳かそこらなのもまた事実だ。年相応の甘えと年齢不相応の賢さを併せ持つこの子どもに、凪はどうにも強く出られない。ヘッドホンを外し、律に意識を向ける。

 律は姉の子どものなかで唯一父親が違う。そんな事情もあってか、姉夫婦のところから、割と頻繁に糸川家に泊まりに来る。

「凪さん」

 懇願するような声だった。行かないで、と縋りたいのを堪えているのだろう。

「どうした」

「……日記、捨てちゃうの?」

 何か言いかけて、やめたことはわかりきっていた。

「今の俺にとって、過去はいらないものだからね」

 それを聞いて、律は泣きそうな顔になった。

「律が泣くようなことじゃないよ」

「……だって」

 目線を合わせてやれば、律は凪が聴き取れる程度の、それでも普段よりは小さい声で言った。

「凪さん、引っ越して、俺のことも、会わなくなって、過去になったら、いらなくなる……?」

 はっとした。律の孤独を軽く見積もっていたかもしれない。凪は自分の浅慮を恥じた。

「そんなことない。この日記書いてた頃は捨ててしまいたいけど、律のことを捨てたいなんて思わない」

「本当……?」

「凪さんそういう嘘はつかないだろ?」

 静かに頷いて、律は凪のベッドに腰かけた。凪もその隣に腰を下ろし、律を自身の左側にした。凪と話すときは、凪の右側に座らない。凪の右耳は、ほとんど聴こえないから。糸川家でのルールだ。

「律。少し、真剣な話をしようか」


 昔の、糸川凪の話だよ。

 中学校まで俺はろう学校に通ってた。今なら聴覚支援学校って呼ぶこともあるだろうけど、当時は聾学校だった。

 楽しかったよ。すごく、すごくね。

 でも父さんや母さん、律にとってはじいさんばあさんだけど、あの二人は、俺の将来について、ずっと悩んでたんだ。

 聴こえないってだけで、社会に出て稼げるお金が違うから。

 まあ、それは多分大学出て就職してもそうなんだろうけど、高校、それも聾学校出身だと、稼げるお金はもっと低い。

 そういうことを、父さんと母さんは毎晩悩んでた。

 俺はそれに気づかない振りしながら、思ってたよ。誰か、俺の耳を治してくれって。

 でも、そんな”誰か”は現れなかった。

 いろいろ調べて、俺は進学校を受験して、合格した。父さんと母さんは喜んでたよ。少しでも未来が明るくなるならってね。

 高校生活楽しくなかったけどな。いじめとかそういうのはなかったけど、友達はできなくて、ずっと勉強してデザインのラフ描いてた。

 進学校入っても、自分の味方が自分しかいないことに気づいたんだ。

 自分を救済できるのは、自分だけなんだってことに、ようやく気づいた。

 悩んでいる父さん母さんも、進学校も、あてにしちゃいけない。もちろん、医学の進歩も。

 自分だけのヒーローなんて、誰かによる救済なんて、まやかしだ。

 自分を救えるのは、自分だけだ。


「凪さん……」

「俺はできる限り律の味方でい続けるよ。でも、ずっといられるわけじゃないし、律が一人で先へ行かなきゃ意味がないんだ」

 酷な現実だが、いずれ突きつけられることだ。

 律は、覚悟を決めたように、ゆっくり頷いた。その目には小さいながらも、光があった。

「でも、ね。凪さん」

「何?」

「凪さんは、ヒーローなんていないって言ったけど、凪さんは、凪さん自身を救ってるから、ちゃんとヒーローだよ」

「……それはどうも」

 凪は立ち上がって、過去の日記を勢いよくゴミ箱に投げ捨てた。片付けを始めた頃よりずっと、晴れ晴れとした気持ちだった。

 律にも、律自身の手による救済が訪れるといい。そして、こうして晴れやかに何もかも捨ててしまえたらいい。

 心から、そう思った。

(了)

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