死したる英雄に贈る賛歌

故水小辰

死したる英雄に贈る賛歌

 鹿角独雄ろっかくどくゆう岳亮山がくりょうさん

 邪教の者に育てられながらその縁を切って義を為すことを志し、牡鹿の角に似た独特な形状の双刀で武林を席捲したこの孤高の刀客は、五年前に消息を絶ったきり、今では流浪の講談師があること無いこと並べ立て、散々に脚色しながら伝える話で知られるばかりになっている。口ひとつで江湖を渡り歩き、あらゆる武林の豪傑たちと酒を飲みかわしたと豪語するこの講談師李秀りしゅうは、今日も酒楼の片隅で、程よく酔いの回った聴衆相手に一席打っていた。この日の題目は『断角誅邪』、すなわち岳亮山が最後に姿を現した、邪教徒の一団との恩仇と血肉の渦巻く大立ち回りだ。さかのぼること五年前、邪教の一派に囚われた李秀を救うため、岳亮山は鹿角刀を手に、幼少の時を過ごした場所に単身乗り込んだ。そこで彼は血みどろの死闘を繰り広げたのだ。


「……すると電光石火、鹿角の閃きとともに一陣の風が吹きつけて、梅の実の地面に落ちるが如く、ポトリ、ポトリと敵の首が転がり落ちた! 首無しのまま立ち尽くす男たちが高々と血しぶきを上げる中、岳亮山がくりょうさんは次の敵に狙いを付ける。己の未来を目の当たりにしてもなお、敵は勇敢にも得物を構え、岳亮山に襲いかかった! だがやんぬるかな、奴らは初めから鹿角ろっかくに敵う手合いではない。新しい首無しから新しい血が噴き出して、辺りは一面文字の通りの血の海だ。……しかし、本物の血の雨をこの目で見ることができようとは、百聞は一見に如かずとはまさしく言い得て妙。あのときの岳大哥岳のアニキほど凄みのある奴を私は知らないね」


 休むことを知らない口がべらべらと言葉を並べ立てる。こと岳亮山の戦いの場面となると、李秀りしゅうの言葉にはより一層熱がこもって手の付けようがなくなるほどだ。



 ところがこの日は、いつもの調子でやれ英雄だ、天才だ、江湖一、天下一、刀の神だ閻羅王の右腕だとひたすら岳亮山を持ち上げ褒めちぎる李秀を遮る者がいた。


「なあ、先生。鹿角独雄ろっかくどくゆうは、本当にこの戦いで死んじまったのかい?」


 その一言で、李秀はふっと話を止めた。李秀は、眠っているときと食べるとき以外は常に喋っていると言われるほどに口が回る。そんな李秀が、あろうことか十八番の講談の最中に口をつぐむという前代未聞の出来事に聴衆が訝しげにささやきを交わす中、李秀は静かに口を開いた。


「鹿角独雄の生死、か。いやはや兄台は鋭い質問をされる」


 口調こそ普段と変わらないが、言葉の裏にはにわかに暗雲が垂れ込めている。双眸から光が消え、乾いた笑いを漏らす李秀に、話を遮った男までもがどうしたのかと顔色を変えた。


「鹿角独雄の生死……本当に知りたいか? 兄台」


 背筋が凍るような空気に、男は慌てて首を横に振った。李秀は「まあ、良いさ」と言ってもう一度笑うと、


「今日は特別だ。特別に、岳大哥の秘密を明かすとしよう」


 と言い、誰かのおごりの酒をぐっとあおった。


「さて、どこまで話したかな……岳大哥が閻羅王の右腕のようだったというところまでか。だがもう本は役には立たないな。

 そう、それから、岳大哥は縄に繋がれた私の方に真っ直ぐ歩いてきた。噴き出すもののなくなった首無しどもが次々と倒れ伏し、最後の雨滴が地に落ちる中を、頭のてっぺんから足の先まで血に濡れた岳大哥だ。あれには私もすっかり怖気づいてね、縄の端を持っていた奴に蹴られるまで小便を漏らしていることにも気づいていなかった。いい年で恥ずかしいことだ」


 ——ちょっと大哥アニキ、そのことは誰にも言わない約束じゃないですか。あんたが鬼神じみた真似してビビらせてくれたせいで、こっちは小便臭いって散々冥府で馬鹿にされたんですよ?


 不意に、李秀りしゅうの頭の片隅から声がした。己の喉から出ている声、皆が聞いている声と全く同じ声だ。

 李秀は声には答えずに、虚空を見つめたまま話を続けた。

「……膝裏を蹴られて倒れた私を見て、岳大哥は余計に火がついたらしくてね。瞬きする間に目の前まで来たと思うと、縄を持ったそいつの手を斬り落とした。それから私を起こして、背後の血の海の中に放り投げると、男を真っ二つに切り裂いた……」


 ——あのときの大哥、格好良かったなあ。やっぱり大哥が天下一ですよ、あのときは色々臭くてかなわなかったけど。天下に英雄は星の数ほどいるが、やっぱりあんたは格別だ。大哥は、私だけの英雄ですよ。


「ところがそこは邪教のやること、そいつが全てを握っていたことに、私はもちろん、岳大哥も気が付いていなかった。地面に倒れたそいつは腹と口から血を流しながら、半分閉じた目をぐるりと回して、操られたように残った手で印を結んで呪文を唱えた。そしたらどうだ——真っ二つになったそいつの体が爆発したじゃないか。それに触発されてか、あたりに転がる死体まで一斉に爆ぜて……岳大哥は、私を起こして胸に掌を叩きこんで、私を内力の許す限り遠くまで突き飛ばした。だが岳亮山がくりょうさん本人は爆発に巻き込まれ、以来ようとして行方が知れないというわけさ。言っとくが、私はあの後戦場に戻って確かめたのだぞ。あすこには、邪教の連中はおろか、大哥の死体、服の切れ端、鹿角の欠片すら残っていなかった。さて、兄台、どう思われる? 鹿角独雄ろっかくどくゆうは果たして死んだのか、それとも惨劇を生き延びてどこかでひっそり暮らしているか?」




 ***




 彼と過ごしたのは、二年かそこらという短い時間のはずだ。それがなぜここまで入れ込むことになったのか、李秀岳亮山はこの数年、そのことがずっと分からずにいる。孤独を好み、誰も寄り付かない自分のあとを懐っこい子犬のようについて来る者がいるのが嬉しかったのか。己に接近した理由が、出奔し、組織にあだなした己を、あの一戦で処すことにあったからか。


 それとも。彼が最後に心を変えて、身を挺して己を救ったからか。


 だが、その真相を知る前に、李秀は物言わぬ灰燼と化してしまった。李秀のものとも敵のものともつかぬ灰を酒に混ぜ、飲み干したのが五年前。それから一年は、消えた面影を追い求めるように、彼と同じ装いをし、同じ口調で喋り、同じ顔で笑った。次の一年には彼の姿で江湖に繰り出し、己の話を流布し始めた。武功の修練は辞めた。李秀は何一つ武功ができなかったからその方がかえって都合が良い、だがそのことを抜きにしても、酒と亡者の面影に酔って体を動かすことを辞めた自分が昔のように動けることはもう二度とないと分かっていたのだ。鹿角も、あの時の血に錆びたきり野菜すら切れない有様だ。


 ——大哥。


 耳にこびりついた李秀の声が、頭の片隅から彼を呼ぶ。下心を持ちつつも、最後には任務に逆らい良心に従うことを選んだ、口ばかり立つ腰抜けの英雄。不覚を取った上に友と信じた相手すら助けることができなかった自分より、彼の方がよほど英雄にふさわしい。

 酒楼でおごられた酒以外に今夜は何も口にしなかった。だが、灰の入っていない酒は、妙に寒々として逆に気分が悪くなる。鳩尾を抱え、馬桶に決して多くはない胃の中身を全て空けると、再び李秀の声がした。


 ——あーもう言わんこっちゃない! 私飲みすぎだって言いましたよね、大哥! 


「……すまない」

 岳亮山は震える手で口を拭うと、そのままふらりと床に倒れ込んだ。


 ——ちょっと、大丈夫ですか? 薬飲みます? 水は? ちゃんと寝台で寝てくださいよ、必要なら添い寝でもなんでもしますけど。


「心配ない。一晩寝れば、大丈夫だ……」

 薄れゆく意識の中、目を閉じれば李秀の影がぼんやり浮かび上がる。眠りに落ちる直前、頭の中にあったのは、己のために命を捨てた、自分だけの英雄の姿だった。

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