短編小説「花にふれて」
あめしき
短編小説「花にふれて」
年季の入った食器棚の横の隙間に手を突っ込むと、誰かの手に触れた。
なんの思いつきか、私は年末でもないのに大掃除をしていた。
念願のマイホームに浮かれていたのは14年前。どれだけ掃除したって、新築のようには戻りはしない。食器棚も、その頃から使い続けているものだ。
その横の隙間。14年間、ただの隙間でしかなかったはずの場所で、誰かの手?
私は思わず仰反るように手を引く。キッチンにぶつかり、切りかけていた食材がまな板から転がる。
隙間に人が入るほどの空間はない。恐怖で心臓が打つ。
でもひとしきりの恐怖を飼い慣らすと、もう一つ、感情があることに気づいた。
誰かの手が私の手に触れるなんて10年ぶりのことだ。
心臓が打つ。先ほどまでとは少し、音が違った。
食器棚の隙間を覗き込む覚悟ができるまで、16時間かかった。夕方、せめて明るいうちにと隙間を覗き込む。だが、せっかくの覚悟は無駄になった。計算されたかのように巧妙に、夕暮れの光も台所の電球も、そこを照らさなかった。
私はもう一度、手を伸ばす。誰かの手に触れる。今度は手をさらに伸ばしてみた。手は大きく、ゴツゴツと節くれだっていた。女性ではない。
思わずその手を握ると、握り返してくる感触がある。さすがに手を引きそうになったが、踏みとどまる。強い力ではない。優しく握る。
手はなめらかに動き、私の手を握り、時にその力を緩める。でも、指先は触れ続けている。
中指が、私の手首をそっと撫で、生命線に沿って動く。私も、と指を手首に沿わせる。ボコッとした血管に触れ、思わず手を離してしまった。
そこで我に返る。平日の夕方、台所に這いつくばって、食器棚の隙間に手を突っ込む中年女性。その姿を俯瞰で思い描いてしまった。すぐに立ち上がり、服についた埃を払った。
だがその日以来、私は毎日のように食器棚の隙間に手を伸ばした。馬鹿なことをしている、と思う。恐ろしいとも思う。でも、夕方になると手を伸ばし、触れる。その手も私に触れ返してくれる。いつしかその時間を楽しみにしている自分がいた。
夫のことを思い浮かべ、罪悪感を覚える。そして罪悪感を覚えたことに驚きと、自己嫌悪を覚える。存在するはずのない場所にある誰かの手。それに触れることに、なぜ夫に罪悪感を覚えなければならないのか。その答えを必死で振り払う。
優しかった夫は、新婚からたった3年で別人になった。
別に暴力を振るわれるわけでもない。大げんかをするわけでもない。ただ静かに、私への興味を失っていった。
4年目には、私の存在は夫にとって、たぶん結婚祝いでもらったコーヒーメーカーと同じぐらいになった。あるとたまに便利だし邪魔でも無いけれど、壊れても買い換えようとは思わない。毎日夫の視線を集めるテレビよりは下の存在。視界には入っても、見つめられることはない。
だが私にとっても夫は、南瓜か何かぐらいにしか思えない。そんなものなのかもしれない。
離婚は面倒だから、わざわざすることすらない。夫婦という形式だけが私たちの間に残った。少し太って外れなくなった指輪もそのままにしている。
その日の夕方も、私は隙間に手を伸ばした。彼もきっと、その時間を待っている。
中指に触れる。中指の第一関節を中指でなでる。手を組むように握る。彼の指と指の間に、私の第二関節が滑り込む。手を握り合い、離れ、またもつれあう。
硬い爪の感触が私の手の甲に触れた。指先が小さく動いている。私は手の甲に神経を集中させる。彼の指は、私の手の甲に何か文字を書いていた。
「あいしてる」
そう動いた、気がした。咄嗟に手を振り払う。台所から逃げるように寝室に飛び込み、ベッドにうずくまる。心臓の形がわかる。何をやっているのだ、何をやっているのだ。落ち着け、落ち着け。そう自分に命じても、昂る気持ちが消えない。
しばらくベッドにうずくまり続けていた。
その、場所が悪かったのだと思う。
先ほどまで彼に触れていた手を見つめる。
少し前まで、家事をしたり包丁を握ったりするだけだった、私の手。でも今は違う。
思わず手の甲を舐めてみる。そこから止まらなかった。
7年ぶりに自慰行為をした。彼と触れていた手は、いつの間にか彼の手そのものになった。彼の手が様々な場所に触れる。鎖骨の辺りから心臓をめがけて肌をなぞる。へそをかすめ、その先に向かう。
その手がまた、あいしてると動く。「あいしてる」と誰かの声が、私の口のあたりから聞こえた。開花を我慢する、くぐもった声も。
ベッドでぐったりとしながら、私のものに戻った手を、胸に当てる。
本当に、何をやっているのだ。食器棚の隙間に誰かの手がある? ありえない。もし本当に誰かがいるのなら、警察にすぐ連絡だ。ましてや、その手に…。
私の頭がおかしくなったのだろうか。恐怖にやられて、その恐怖を別の何かと取り違えた。おかしくなった頭にそれがこびりついた。
だとすれば、決別せねばならない。
私はすっかり暗くなった台所へ向かい、食器棚の隙間に手を入れる。彼の手に触れる。絡めようとする指をいなして、彼の手の甲に触れる。
「さよなら」
その4文字を書くのに3分かかった。手が震えている。
「なんで」
彼の指が触れる。
「あなたは、いない」
「ここにいる」
「いてはいけないの」
「なんで」
「こんなスキマに人はいない」
「いるさ」
「いたとしても、ふれてはいけない」
「なんで」
「夫がいるの」
「いないよ」
「いるのよ、あなたはしらない」
「いないよ、きみはしっているだろ」
その時、気づいた。いつもの夕方じゃなく、もう夜だ。なぜ夫は帰ってこないのだろう。
いや、そうじゃない。夕方とか夜とかそんな問題じゃない。
夫は、いつから帰ってきていないのだろう。
「もっと おくを」
彼が手の甲に書く。もっと奥? 私は彼の手を超えて、さらに奥に手を伸ばす。
誰かの手が、私の手に触れた。
彼の手ではない。それとは別の手。彼の右手とは別の左手。その薬指に、硬いものがあった。
それを掴むと、すんなりと抜ける。食器棚の隙間から取り出すと、それは結婚指輪だった。私と夫を、形式だけ繋げていたものだ。
隙間の彼の手に触れた日、私はなんで大掃除なんてしていたんだっけ? 年末でもないのに。
覚えている。夫を包丁で刺した血が、部屋中に広がっていたからだ。
あの日、私は夕飯の用意をしていた。煮付けでも作ろうと、南瓜を切っていた。
その時なんとなく、夫を殺そうと思ったのだ。南瓜を半分まで切った包丁で、テレビを見ている夫を後ろから刺した。なんの感情も湧かなかった。夫が私に向けた無関心と、私が夫に向けた包丁は同じようなものなのだろう。
感情は湧かなかったが、血は湧き出てきた。リビングに死体があると邪魔なので、バラバラにした。さらに部屋が散らかって、真夜中の大掃除が始まった。
手は2本まとめて、食器棚の隙間に放り込んだ。そうだ、私が放り込んだのだ。
忘れていたのは、無関心だったからからだろうか。もしくは無関心の殻の底で、頭から消し去ってしまうほどの苦痛があったのだろうか。
そこまで思い出しても、隙間の彼は夫の手だとは思えなかった。少なくとも私が毎日触れ合いたいと思っていたのは、夫ではないはずだ。そうではない、はずなのだ。
私は流し台に結婚指輪を流した。
もう、食器棚の隙間に手を入れることはないだろう。
寝室に戻り、ベッドに飛び込む。
このまま眠ろう。そう思いながら、ふとベッドと壁の隙間に手を突っ込むと、誰かの唇に触れた。
柔らかいそれは、なぜかすぐに唇と分かった。
私はすぐに手を引っ込める。とてもじゃないが、人が入り込める隙間ではない。こんなところに、なぜ唇があるのだ。
心臓が打つ。
でも、誰かの唇が私の手に触れるなんて10年ぶりのことだった。
(了)
短編小説「花にふれて」 あめしき @amesiki
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