走れ、ただ走れ
荒川馳夫
命が尽きぬ限り、走り続けろ
「遠いよ、走り抜けられるかなあ……」
少年がぼそりとつぶやいた。
彼は足が遅かった。小学校の体育の授業で100メートル走があれば、ほぼ確実にビリを取るくらいに走るのが苦手だった。
ビルの端っこから、向こうのビルを見つめた。
直感ではあるが、どう見ても100メートル以上の距離がありそうだ。
「おい、いくぞ。グズグズしてちゃダメだよ」
隣にいる友人が早く進もうと言ってきた。
こちらの男の子は足が速く、走ることには自信があった。
向こうまでの距離に怖気づく少年を必死にはげましていた。
「大丈夫、オレがついてる。一気に走り切れるさ。さあ、落ち着いて」
その一言で、少年の心は決まった。
「うん、いこう!」
彼らは静寂を待った。静寂が訪れたときが走り始める合図だった。
そのときはすぐにやってきた。絶好のチャンスが二人に与えられたのだ。
「今だ!いくぞ。周りを見るな。向こうのビルだけを見つめるんだ」
友人の言葉が聞こえてすぐに、少年は周りを見ることを決してせずに、全身を必死に動かした。息が切れそうになっても、気にしてはいられなかった。
ここで目線を動かせば、瞳孔に映る光景で足が止まるかもしれなかった。
どんな状況に置かれても他者を気遣うことができる。友人は本当に優しい子だった。
「あ、くそ……。うう、足が痛い」
あとすこしのところで少年はころんでしまった。足をくじいてしまったかもしれなかった。ズキズキとした痛みが伝わってくる。
「このままじゃまずい。進まないと」
その思いは足を動かすエネルギーとはならなかった。少年は痛みに打ちのめされていたのだ。
「大丈夫か、今、手を貸してやる」
突然、聞きなれぬ声が少年の耳に入ってきた。その後、すぐに少年は目指していたビルのかげへと引きずられていった。
「ありがとうございます」
「足をケガした以外は問題なさそうだね。よかった。銃弾が命中したわけではないようだ……」
助けてくれた男性はカメラを首に下げていた。戦場カメラマンという仕事があることを少年は知っていた。この人がそうなのだろう。
「あれ?ボクの友達はどこにいるんですか。一緒に走ってきたはずなんです」
そう告げると、男性は悲しそうな顔をした。その後に、ビルとビルの間を見た。
少年も男性と同じ方向に目をうごかした。すると、少年の聴覚、嗅覚、視覚がよみがえった。現実を引き連れてきて。
何かが爆発する音は聴覚を、物が焼ける音は嗅覚を刺激してきた。
走っている間にも生じていたはずの出来事が、一生懸命に走っているときの少年には感じられなかった。いや、気にしている余裕がなかった。
そして、視覚が働いたことで最も見たくない光景が目に入った。
友人が道路に横たわっていた。服が赤く染まり、血の池が周辺に広がった状態で。
幼い少年にも、何が起こったのかがはっきりと分かった。
「ダメだ!そちらにいくんじゃない!死ぬぞ」
「いやだ、いやだ!そんなのいやだあ……」
少年は男性の静止を振り切ろうとした。今すぐにでも、友人のそばにいきたかった。彼をひとりきりにしておけなかったのだろう。
せめて、一緒につれていきたかったのかもしれない。だって、一緒に逃げようと言ってくれたのだから。
「銃弾が飛び交っているんだ。残念だが、置いていくしかない」
少年は泣きじゃくるばかりだった。男性はひたすらにはげました。
「泣くな。君のお友達はもう走れない。でも、君は彼の分まで走るんだ。生き続けるんだよ。私がおぶってやるから、一緒に安全なところまでいこう!」
「……お願いします。そして、ボクの友達の死を世界に伝えて」
「ああ、約束する。カメラに収めて、絶対に伝えるから」
男性と少年は命の危機をのりこえて、安全な場所までたどり着いた。二人は別々の使命をおびることとなった。
少年は亡くなった友人の分まで、諦めずに生き続けることを。
男性はその悲しい現実を、多くの人に共有してもらうために走り続けることを。
走れ、ただ走れ 荒川馳夫 @arakawa_haseo111
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