終章 妖花の魔女

最終話 妖花の魔女

 息を潜めて、薄暗い城の中を突き進む。黒を基調とした調度品で埋め尽くされているせいか、どこもかしこも空気は重苦しく、澱んでいるような気がした。たった数年で、ずいぶんと様変わりしてしまったものだ。


「……背後から人が来ます」


「あの柱の影に隠れましょう」


 部下の報告を受けて、すぐさま指示を出す。敵陣に乗り込んでいるだけに、判断の遅れは命取りだ。一応、この城に勤める者が纏っている外套を羽織ってはいるが、この特徴的な髪で正体がばれてもおかしくない。


 廊下を我が物顔で行き来するのは、見慣れぬ男たちだった。感情らしいものが抜け落ちた、人形のような男たちだ。彼らの纏う外套の留め具には金の鎖が飾られており、いつか見た「魔術師」の服と同じものだと認識する。


「……あれが、『妖花の魔女』の手下ですか」


 部下の声には、明らかな憎悪が浮かんでいた。仕方がない。この国で「妖花の魔女」に恨みを抱いていない人間なんて誰ひとりだっていないだろう。


四年前、魔女の咲かせた妖花のせいで、大勢の人が死んだ。その被害規模は正確に把握されていないが、国民の八割が妖花のせいで命を落としたと言われている。


残された人間は、誰もが家族や友人を失っていた。かくいう私も、父や親族を亡くして今はひとりぼっちだ。


 それだけではなく、今も王国に妖花は蔓延っている。人々が住めるのはほんの一握りの痩せた土地だけ。豊かな土地や王城の周辺は、妖花の魔女を担ぎ上げた魔術師の一派が占領してしまった。


 彼らの土地に侵入しようものなら、問答無用で殺される。私たちが今していることは、文字通り命懸けの任務だった。


 魔女の手下たちが通り過ぎたのを確認して、再び廊下を進み始める。連れてきたのは精鋭の部下二人だけ。目指すは妖花の魔女がいるという大広間だ。


「……広間には、私一人で入ります。あなたたちは、騎士団の侵入経路を確認してください」


「しかし、魔女相手にお一人では危険すぎます……! あなたは、我々の希望なのです。あなたに何かあったら……」


「大丈夫です。魔女とは古い知り合いですから。……それに、私は誓いを果たさねばなりません。彼女の……聖騎士として」


 ついに、大広間の扉の前までたどり着く。部下の悲痛な表情に気づかないふりをしながら、視線だけでここから離れるよう命令した。


「一刻経っても戻らなければ、私は死んだものと思ってください。そのときは、騎士団と神官たちのことは任せましたよ」


「神官長……!」


 名残惜しそうな声をあげる彼らに背を向けて、大広間の扉に向かい合う。この先に、「彼女」はいるのだ。


 ……四年たった今、どうしているかな。


 最後に彼女と顔を合わせたのは、ベルテ侯爵家の別邸が最後だ。あのときは、彼女を聖女にして、四人で笑い合える日常を取り戻すのだと信じて疑わなかった。


 それが、こんなことになるなんて。後悔してもしきれない。何があっても私は、彼女のそばを離れるべきではなかったのに。


 込み上げる感傷を飲み込んで、ついに大広間の扉に手をかける。ふわり、と甘い花の香りに迎え入れられた。


 大広間は、黒で埋め尽くされた城の他の場所とは違って、開放的で神聖さすら思わせる空気感だった。磨き上げられた大理石の床が眩しいくらいだ。まるでかつての王城に戻ってきたかのような錯覚すら覚える。


 すぐに大きな柱の影に身を寄せて、様子を伺う。「妖花の魔女」その人は、玉座のようにぽつんと置かれた椅子の肘掛けにしなだれかかるようにして、床に座り込んでいた。真っ黒なドレスの裾が、優雅に広がっている。


 間違いない。四年前よりもかなり大人びた顔つきだが、彼女が「妖花の魔女」――ジゼルだ。


 あれほど嫌っていた黒い衣装を身に纏い、銀色の髪を結い上げて白くほっそりとした首を晒している。薄紫の瞳は、白銀のまつ毛に縁取られた瞼で閉じられているせいで窺い知ることはできなかったが、とても安らかな表情をしていた。四年前にはなかった妖艶な美しさを漂わせている。


 だが、彼女の美貌以上に目を引いたのは、椅子に座る一人の青年の姿だった。一見ただ座っているだけのように見えるが、その顔立ちを見てはっと息を呑む。


 ……ベルテ侯爵令息?


 報告では、彼は四年前に亡くなっているはずだった。彼の死こそが、ジゼルを妖花の魔女に貶めた引き金と言っても過言ではない。それなのに、どうして。


 どくどく、と嫌な予感に心臓が早鐘を打ち始めた。そうこうしている間にジゼルが、甘い声をあげる。


「ねえ、アルフレート、今日はね、すみれを使って花冠を作ってみようかと思うの。何度やっても私は下手なままだから、また助言してちょうだいね」


 じゃれつくように、ジゼルは彼の膝に頭を乗せた。肘置きに置かれたベルテ侯爵令息の腕は、今にも彼女の頭を撫でそうに見えたが、ぴくりとも動かない。青白い顔のまま、静かに背もたれに寄りかかっている。そこに、命は宿っていなかった。


 ……やはり、彼は四年前に亡くなっているのか。


 その証拠に、彼の姿は四年前と何ら変わらぬものだった。大人びた妖艶さを漂わせるようになったジゼルと並ぶと、すこし違和感を覚える。ジゼルの時だけが進んでいる証だった。


ここは魔女と魔術師の城だ。遺体を綺麗に保つ方法など、いくらでもあるのだろう。


友人の死をこうして突きつけられると、何年経ってもつらいものがある。せめて私もその場にいて、ジゼルと彼を守ってあげたかった。


そして何より私の心を鋭く抉ったのは、ジゼルの心の状態だった。嬉々として彼の遺体に話しかける姿からは、到底彼の死を受け入れているようには思えない。彼女の手下となった魔術師たちも、誰も真実を話さないのだろう。――あるいは、いくら話しても彼女が聞き入れてくれないのかもしれないが。


「あなたが作ったものと私のものと比べて、陽の当たる場所に飾りたいわ。それを眺めながら、お茶をするのはどうかしら? メイドの子がすみれの砂糖漬けを作ってくれたから、それを浮かべて飲むの。おいしそうでしょう?」


 撫でられるのを待っているとでも言わんばかりに、ジゼルはベルテ侯爵令息に抱きついた。だが、当然彼女が寄りかかったせいで彼の体は体勢を保てなくなり、肘掛けにもたれかかるような姿勢になってしまう。


 その瞬間、ジゼルの美しい薄紫の瞳から、すうっと光が薄れていくのがわかった。


 そのまま肩を震わせて彼の体を抱きしめ、泣き出しそうな声で彼の名を呼び始める。


「アルフレート……アルフレート……返事をして。私一人でお話しするのはつまらないわ。ねえ、アルフレート……アルフレート!」


 ついに泣き叫び始めた彼女を前に、私は動けなくなっていた。


 なんという、重苦しさだろう。恋人の遺体を抱いて泣き叫ぶ友人の姿なんて、できることなら見たくなかった。想像以上の衝撃だ。


 そのまま呆然と固まっていると、彼らがいる広間の奥の方の扉がゆっくりと開いた。柱の影に身を潜めたまま、じっと様子を伺う。どうやら誰かが入ってきたようだ。


「アルフレート! アルフレート……!!」


 我を失って叫ぶジゼルに、その人はゆっくりと歩み寄った。アルフレートに縋り付く彼女の背中を、ゆっくりと抱きしめる。


「どうした、ジゼル。そんなに泣いて」


 まるでベルテ侯爵令息のような話し方だが、その声はまるで違う。


 でも、知らない声ではなかった。久しぶりに聴いた、優しく甘い響きに、ぞわりと肌が粟立つ。


 ……彼だ。


 あの夜、私が逃した「魔術師」。ジゼルにすべてを捧げる寂しいあの人――メルエーレ伯爵令息だ。どうやら生きて、ジゼルのそばに戻れたらしい。


 ……でも、髪と瞳が。


 ジゼルを背後から抱き締める彼の髪は、ベルテ侯爵令息によく似た黒髪だった。一瞬だけ見えた瞳の色は、薄紫ではなく金だったように思う。それはどちらも、ベルテ侯爵令息の色彩だ。


「あ……アルフレート、アルフレートが……」


「俺がどうしたって?」


 どことなく尊大な口調は、見事なまでにベルテ侯爵令息にそっくりだ。声こそ違うが、雰囲気は生写しと言っても良かった。


暗い目をしたジゼルが、ゆっくりと振り向いて彼の顔を見上げる。


「アルフレート……」


 その呼びかけは、椅子に座る彼に向けられたものではなかった。暗い目に歪な安堵を浮かべ、ジゼルを抱き締めるその人を見上げている。


「ごめんなさい、なんだか……取り乱してしまって……」


「悪い夢でも見たのか? ……大丈夫、ジゼルを一人になんかしない」


「ええ……ええ」


 ジゼルはメルエーレ伯爵令息にもたれかかり、安心したと言わんばかりにぽろぽろと涙を流し始めた。

 

 令息はそんなジゼルの髪を愛おしそうに撫でている。ジゼルが見ていないからなのか、その表情は紛れもなく私の知る令息の微笑みそのものだった。


 ……ジゼルは、自分の義兄と婚約者を混同しているのか。


 ジゼルとメルエーレ伯爵令息の姿は、そこだけ見れば美しい愛に満ちているが、あまりにも歪だった。どちらが始めたことなのか知らないが、生きている人に死者の面影を重ねることも、死者を騙ることも、到底許されるような話ではない。


 ――いちばん得意なのは変化の魔術だよ。この髪の色も瞳の色も偽物だ。


 いつか、雨の夜にメルエーレ伯爵令息が笑いながら語った言葉が思い起こされる。


 彼は彼の持ちうる魔術を惜しみなく使って、ジゼルの心の安寧を保とうとしているのだ。たとえそれが、間違った方法であっても。


 ……いや、彼のことだ。ジゼルが笑うなら、それが正解だとでも思っているんだろうな。


 歪な愛の連鎖の重みに、こちらが押し潰れさそうだ。誰かが終わらせなければ、彼らは命が尽きるまでこのままだろう。


 そしてこの連鎖を断ち切ることができる者がいるとすれば、それは私しかいないとわかっていた。ジゼルとの誓いを果たすという意味でも、目的は遂行するしかない。


 手にした長剣の柄を、ぎゅうと握りしめる。すこしでも油断すれば、簡単に意思が揺らいでしまいそうだった。


 だが、そんな私の葛藤を嘲笑うかのように、好機は訪れる。メルエーレ伯爵令息はジゼルに何やらいい含め、広間からでていったのだ。後にはベルテ侯爵令息の遺体に子守唄を歌うジゼルだけが残される。


 神官長の肩書きを継いだものとして、この好機を逃すわけにはいかなかった。まだどこか意思がぶれるのを感じながら、意を決して広間の中心へ足を進める。こつこつと靴音を響かせても、ジゼルは見向きもしなかった。


「……ジゼル」


 四年ぶりに、彼女に呼びかける。銀色の髪は、大広間の白の中では一層輝くようだった。


「ジゼル」


 目一杯の親しみを込めた私の声に、ようやく彼女はぴくりと肩を震わせた。やがて細い首を傾げて、ゆっくりとこちらを振り返る。


「……ああ、レア。遊びに来てくれたの?」


 まるで天使のような可憐な笑みを浮かべて、ジゼルは私を歓迎した。薄紫の瞳には、やはり光は見受けられない。彼女の心がとうに壊れている証だった。


 ……それでも、私のことを認識してくれたのだな。


 それだけで、もう十分だ。妖花の魔女と成り果てた彼女の中にも、友人としての私の影がすこしでも残っていたと知って、もう、思い残すことはない。


「……お別れを言いにきました。あなたの、友人として」


「お別れ……? いや、レア……お別れはいや」


 まるで子どものように駄々をこねながら、彼女は私の目の前に駆け寄り、縋り付くように崩れ落ちた。


 哀れみすら誘うその姿に、危うく心が傾きそうになる。彼女に、手を差し伸べてしまいそうになる。

 

 ……でも、駄目だ。私が、ここで終わらせなければ。


 何も言わず、神殿の紋章が刻まれた長剣をするりと鞘から抜き出す。銀の刀身は、ジゼルの髪のように光っていた。


 ジゼルは、まるで刃物を初めてみた子どものように、きょとんとして私を見上げていた。魔性の中に眠る無垢を見せつけられたような気になって、剣を持つ手が震える。


「ジゼル……」


 ――レア……私、やっぱり着替える。


 ――いけません。せっかくこんなに可愛らしいのに。


 ジゼルに色とりどりのドレスを着せた、眩い夏の昼下がりのことが思い起こされる。私たちが年相応の少女らしく触れ合えた時間は、本当に僅かだった。わずかだったけれど、私の心を今も鮮やかに染め上げているのはジゼルやジゼルと愛する彼らとの思い出だけだ。


 この剣を振り下ろしたら、私の世界は何色になるだろう。きっと、ひどく味気なく、簡素なものになるに違いない。生きている意味を見失うほど、灰色の日々が訪れるに違いない。


 それでも、私はやらなければならないのだ。


 私は、あなたの聖騎士だから。


「ジゼル――」


 ゆっくりと、剣先をジゼルの胸元に当てる。彼女は逃げるそぶりすら見せずに、にこにこと笑っていた。


「――私も、あなたが大好きでした。私は一生、あなただけの聖騎士です」


 銀の剣先が、ずるりと彼女の胸の中心に沈む。驚くほどに抵抗がなかった。それはまるで、彼女の心はとうに現世のものではない証のようで、あらゆる感情のまじりあった涙が溢れ出してくる。


「……ジ、ゼル」


 彼女の血が広がる白い床に跪き、あっけなく床に崩れ落ちた彼女を抱き上げる。彼女はまだ、途切れ途切れに息をしていた。


「レ、ア……」


 ジゼルの薄紫の瞳に、かつてのような光が宿った気がした。


「誓いを、果たしてくれて……ありがとう。悪い夢を……終わらせてくれてありがとう」


 今にも消え入りそうな、か細い声だった。同時に、透明な涙が、彼女の瞳に宿った光を奪って頬を伝っていく。


 涙が床に落ちると同時に、彼女の命の灯火がふっと消えるのがわかった。


「ジゼル……ジゼル……!」


 彼女の体を掻き抱き、泣き叫ぶように名前を呼ぶ。もう、決して届きはしないとわかっていても、叫ばずにはいられなかった。


 ――聖女ジゼルさま。聖騎士レア・アディの命を賭けて御身と御心をお守りすると誓います。あなたが正しい光の下にあればあなたの盾に、もしもあなたが妖花に蝕まれたときには、あなたを終わらせる剣として役目を果たしましょう


 聖騎士として、私はあのときの誓いを果たした。


 妖花の魔女と成り果てた彼女の悪夢を、私の剣で終わらせたのだ。

 

 それなのに、晴れやかな気持ちはひとつもない。いちばん大切なものを失ってしまった喪失感だけが、胸を占めていた。


「……やっと、終わらせてもらえたんだね、ジゼル」


 背後から降ってきた妙に穏やかな声音に、ジゼルの亡骸を抱きしめたままはっと振り返る。ぽたぽたと、赤い血と涙が散った。


 気配もなく私の背後を取ったのは、メルエーレ伯爵令息だった。ベルテ侯爵令息によく似た黒髪と金の瞳をしているが、顔立ちは本来の彼のもののままだ。神秘的で、いつもどこか寂しげな「魔術師」の姿だった。


「やあ、久しぶりだね、聖騎士殿。……いつかこうなると思っていたよ」


 彼は、穏やかな微笑みを讃え、ジゼルに視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。衣服が彼女の血で汚れることも厭わずに、そっとジゼルの頭を撫でる。その仕草一つ一つに、ジゼルへの愛しさがあふれていた。


「ジゼルは、きっと君に感謝しただろう? ……僕からも、同じ言葉を贈るよ。ジゼルの悪夢を、終わらせてくれてありがとう。……僕にはとても、できなかった」


 寂しげに笑う彼を、とてもじゃないが直視できなかった。彼は最後までジゼルに全てを捧げ続けたのだろう。その髪色と瞳の色が何よりの証だ。


「……私を殺すつもりなら、抵抗はしません。聖騎士として、ジゼルとともに散りましょう」


 部下たちには秘密にしていたが、その覚悟を決めてここにきた。彼の前から逃げるつもりは毛頭ない。


 だが、彼は寂しげに微笑んだまま静かに首を横に振った。


「ジゼルの友人を殺すことなんてできないよ。……すくなくとも、僕はね」

 

 意味ありげな言い方に首を傾げたのも束の間、広間の扉の向こうから、小さな人影がぱたぱたと近づいてきた。


「お母さま! お母さまの好きな水仙を摘んでまいりましたよ!」

 

 まだ四歳くらいだろうか。たった今私が殺したひとの面影をよく宿した可愛らしい少年の登場に、すっと体の芯から凍りつくような思いだった。


「あれ? お客さんですか? 珍しいなあ」


 少年は私の姿を認めるなり、ぱっと表情を明るくさせた。メルエーレ伯爵令息は、そんな少年の頭を愛おしげに撫でる。


「そうだよ、お母さまのお友だちだ。ご挨拶しなさい」

 

 まるで親のような振る舞いをする令息の姿に、胸騒ぎが止まらなかった。


 少年は、そんな私の動揺など露知らず、人懐っこい笑みを浮かべて愛らしくお辞儀をする。


「初めまして、僕はフェリクスです。お母さまのおともだちに会えるなんて嬉しいなあ」

 

 きらきらとした眼差しは、ジゼルと同じ薄紫の瞳だった。


「リ、アン殿……この子は……?」


 思わずジゼルを床に下ろし、震えながら問いかける。彼は少しの動揺も見せずに答えた。


「ジゼルの子どもだよ? かわいいだろう」


 意味ありげに笑みを深める彼を前に、気づけば私は掴みかかっていた。ジゼルの血が彼の首筋や頬に散る。


「まさか……あなたをアルフレートだと思い込ませて、ジゼルを無理やり妻にしたのですか……?」


 だとしたら、歪んでいるにも程がある。到底許せる話ではない。


 ジゼルとベルテ侯爵令息の恋は、誰にも汚されるべきではなかったのに。


 私に胸ぐらを掴まれたまま、彼は小さく声をあげて笑った。おかしくてたまらないとでも言うように。


「聖騎士殿の妄想は下世話で困るなあ。……流石の僕も、そこまで非道にはなりきれない。この子はあいつの忘れ形見だよ。髪の色はあいつそっくりだろう?」


 確かに、少年の髪は少し癖のある黒髪だった。ベルテ侯爵令息を思わせる色ではある。


「……ですが、私はあなたの本当の色彩をしりません」


「ご想像にお任せするよ。僕を下劣で非道な男だと思いたいならそれもいい」


 そう言って笑う彼の声音は、本当にどうでもよさそうだった。彼にとって、ジゼル以外の物事は些事に過ぎないのだろう。


「あれ……? お母さま、おやすみになっているのですか?」


 ジゼルの顔を覗き込みながら、不思議そうに問いかける少年の声に、はっと我に帰った。


「っ……ジゼル、は」


 思わず、ジゼルに手を伸ばそうとした少年の手を掴んでしまう。こんな残酷な場面をジゼルの息子に見せてしまったことに、抱えきれないほどの罪悪感が湧き上がってきた。


 助けを求めるように令息に目配せするも、彼は気づかないふりをするように小さく笑うばかりだ。いったいどういう了見だろう。


「お母さま……? お母、さま?」


 段々と不安を帯びる少年の声がいたたまれない。どくどくと、心臓が耳の奥で暴れていた。


 ただならぬ事態であることを察し、震え出す少年の頭を、令息は優しく何度か撫でる。そうして、怪しいほどに美しい笑みで囁いた。


「フェリクス、よくお聞き。君のお母さまはね、もう、目を覚ますことはないんだよ。お父さまと同じ場所へ行ってしまったんだ」


「お父さまと……同じ、場所?」


 少年の手が、ジゼルの胸から吹き出した血をぬるりと掬い上げる。薄紫の瞳に、すうっと翳りが差すのが見えた。


「おじさま……お母さまは……殺されたのですか?」


 少年の問いかけに、令息は答えなかった。ただ、挑戦的な眼差しをこちらに向けている。まるで悪魔のような笑みだった。


「……あなたが、殺したんですか?」


 血のついた手を握りしめ、少年は昏い瞳で私を睨みつけた。


 ぞわり、と背筋を冷たいものが駆け抜けていく。心臓を握られているような心地だった。聖女であり、妖花の魔女と成り果てたジゼルの息子なだけある。只者ではない。


 ……ここで殺されても文句は言えない。


 床に崩れ落ちたまま、首を差し出すように項垂れる。少年が、ゆっくりと私との間合いを詰めるのがわかった。


 ……ジゼル、すぐに私もいく。


 自分の命を捧げる決意を固めたそのとき、不意に廊下から叫び声が聞こえた。ともに侵入した部下の声だ。


「レアさま――! レア、さま――!」


 部下の危機を思わせる叫びに、気づけば一度床に捨てた剣を握りしめていた。


 だが同時に、少年の憎悪に陰った言葉が飛んでくる。


「許さない……! 絶対に、殺してやる……!」


「っ……!」


 少年が叫びながら突進する間際、令息が彼の背後を取り、一瞬で眠らせた。何か魔術を使ったのかもしれない。


 少年はまるで何事もなかったかのように、令息の腕の中で涙の粒をこぼしながらすやすやと眠っている。


「……なぜ止めたのです」


 不可解な彼の行動に、問わずにはいられなかった。彼は少年を大切そうに抱き上げたまま、ふっと微笑んで見せる。 


「君の部下が危ないんだろう? いけばいいよ。このいちど限りは見逃してあげる。僕たちは、友だちだからね」

 

 友だち、そう告げたときのリアンの表情は、かつて見ていたものによく似た、穏やかなものだった。彼の中にもまだ、私を友と思う気持ちが残っていたなんて。


「でも、友だちとして会うのはこれが最後だ。……次に会ったらきっと、君を殺すよ。かわいいこの子の望みを叶えてやらなくちゃ」


 とんとん、と少年の背中をあやすように叩く仕草とは裏腹に、金の瞳が怪しげに光る。これが、彼のできる最大限の譲歩なのだとわかっていた。


「……それはきっと、私も同じです。神官長として……魔女の手下であるあなたを、野放しにはしておけない」


 血まみれの手で剣を掴みながら、すっと立ち上がる。ジゼルを挟むようにして、彼と相対した。


「どうやら長い戦争の幕開けのようだ。……さようなら、勇敢で清廉な聖騎士殿」


「もう二度と会わないことを願っています。……ごきげんよう、聖女にすべてを捧げた、孤高の魔術師殿」


 皮肉とも未練とも取れる笑みを最後に、彼から視線をそらす。


 踵を返す間際、ジゼルとアルフレートの亡骸を目に焼きつけた。


 ……聖女は、巡礼の森の泉から生まれた、なんて話もあったっけ。


「……ふたりの亡骸は、どうかあの星の泉の中へ。聖騎士としての、最後の願いです」


 彼を振り向くこともなく、一方的に告げた、返事は帰ってこなかったが、きっと彼は受け入れてくれただろう。ジゼルが、あの泉に還りたがっていたことを知っているはずだ。


 ……そうして、美しい星と花々の中で、永遠によりそいあってほしい。


 誰より大切な友人の、悲しい恋の結末を、あの清らかな水の中で書き換えて欲しかった。御伽噺顔負けの、とびきり甘い結末に。


 ……あのふたりなら、できるだろうな。


 愛おしい恋人たちの姿を目な裏に浮かべ、ふっと笑みをこぼした。


「……さようなら、ジゼル、アルフレート」


 その言葉を最後に、剣を握りしめて、白い大広間から飛び出す。


 黒に覆い尽くされた壁の向こう、閉ざされた城の庭の中、咲き乱れる妖花に紛れて、金色の陽だまりを受けて輝くすみれの花が揺れていた。

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妖花の魔女より、もうどこにもいない君へ 染井由乃 @Yoshino02

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