白い花、黒い外套

micco

私だけの希望

 春になると私は花を飾る。白い花だ。

 その辺の野原に平凡に咲く、踏みつけられて枯れてしまうような小さな、小さな花。


      ◇


 ――私は岩陰で体を丸めて這いつくばり、決して声を漏らさないよう地面に唇を擦りつけた。

 痛みなど感じなかった、ただ震える体の立てる音が外に聞こえてしまうのではないかとそればかり恐れていた。

 なんで、どうして! 怖いこわい怖い。

「おら女がそっちへ行ったぞ!」「逃がすんじゃねぇ回り込んで捕まえろ!」 

 ただ退屈で長閑だった村には瞬く間に火の手が上がり、下卑た毛むくじゃらの男たちが我が物顔で地面を黒く赤く汚していく。

 それは村の中に留まらず、周囲の緑は血に染まり女と子どもの悲鳴で揺れていた。

 私はそれを目の当たりにして手近な、けれど村で私だけが知る岩と地面の隙間に身を隠した。もう十三になる体には窮屈で頬も膝も肩も、岩肌の尖りに刺さった。


 次に目を覚ますと、身じろぎした体が酷く軋んで痛くて私は呻き声を上げた。瞬間ヒッと声を飲む。自分が残虐な盗賊から逃れ隠れていることを思い出したからだ。見つかったら殺される。

 でも私はまだ見つかってないみたいだった。見覚えのある岩肌とそれを侵食する木の根、強い地面の匂い。真っ暗だった。

 夜だろうか。かすかに差し込むはずの光も感じられない。

 今だ、外へ――!

 でもそれは叶わなかった。血の匂いを嗅ぎつけたか狼の遠吠えが夜闇を濃く湿らせていた。

 私は再び声を漏らさぬよう口を塞ぎ、もし見つかって狼が口を開けても見えないよう目を瞑った。まぶたの裏がチカと点滅して恐怖が甦る。

 よく知る朝の挨拶を交したばかりの人たちが次々に両断された、血しぶきを。

 死んでも尚、腹を抉る真っ赤な刃の切っ先。

 隣の姉さんが地面を引き摺られ、狂ったように乱れた髪の動き。

 何人もの男に乗り上げられた剥き出しの脚。

 怒号、悲鳴、嘲笑――。

 胃が不快にうごめき、私は嘔吐いた。さすがに声を抑えることが出来なくて、低くむせぶ。

 唇の傷に胃酸が染みて歯を食いしばった。


 夜が明け、私は地面から這い出た。

 強烈な喉の渇きに耐えられなかった。お腹が空いて舌を伸ばしたけど、やっぱり土も砂も食べられなくて吐き出すほかなかった。

 村はどうなっただろう父さん母さん、兄さんは。けれど私は怖くて恐ろしくて、村と反対の方向へ駆けた。

 隠れていた場所から少しのところに何かの塊が地面を汚していて、私はまた嘔吐いた。もう腹には何もない。粘ついた唾液がひと雫落ちるだけだったけど息を吸うのも上手に出来なくなって、私は転がるようにその場を離れた。


 ささやかな野の花が咲く丘まで登った。白い小さな花が咲き乱れる、大好きだった場所。

 森を拓いて作った村――煮炊きの白い煙と女たちの笑い声がここまで聞こえてきた村は、ただの消し炭になっていた。動く物などなかった。

 膝が折れ、私はそのまま座り込んだ。それでも、一瞬でも、誰かの生きる気配があるかもしれないとそこを見詰め続ける。

 蝶が目の前を過ぎていった。羽虫がどこか私の頭に留まってはどこかへ飛んで行った。漂う饐えた匂いが、吹き渡る風と小さな花たちの香りで少しの間誤魔化されては消え、また漂った。


 ――頭が燃えるように熱いのに気づいて、随分と時間が経ったと知った。視点の合わない景色の中でも、村だった場所はもう息をしていなかったのに。

 そのとき突然日が翳った。雲だろうかとゆっくり空を仰ぎ、強い動悸に呼吸が止まる。

 男だ。


「子どもか」


 腕を掴まれた。

 恐怖で動けない。

 まさか村を襲った盗賊? いやだ怖いこわい、こわい!

 声も出ず、口を開けたまま浅く呼吸を繰り返す私に、男は腕を離した。

 逃げなきゃ、逃げなきゃ。

 僅か、後ずさる。でも男は大きくて、逆光でこの世の闇を閉じ込めたみたいに真っ黒だった。いや、と口が動く。もう一度後ずさろうとしても膝が笑っていた。


「生き残りか」


 男は低く呟き、腰から提げた何かを取り出す動きをした。

 剣だ殺される!

 私は咄嗟に頭を庇って腕を上げた。

 ――ひた、と腕が濡れた。温い何かが肘まで伝い、太腿を濡らした。


「……お前を殺しはしない。水だ」


 みず? 私は細かく震えたまま自分の腕を確かめた。土と砂にまみれていたそこは川が出来たようにひと筋、洗われていた。まさか本当に、と呆然と見上げる。

 黒い男が革袋を傾けた。

 ほら、と顔に水が降った。目も鼻も唇も溺れそうになりながら私は必死でそれに舌を伸ばした。鼻から水が入り噎せる。思わず顔を下げたけど、喉の渇きはますます酷くなって今度は両手すら伸ばして水を求めた。


「近くの村は止めておけ。逃げるなら南だ」


 革袋が空っぽになると、男は濡れ鼠の私に干葡萄を握らせた。そして背を向けた。

 薄い外套が風をはらみ男の痩身を露わにした。遠ざかる。

 村と反対の方へ丘を下っていく姿が見る見る内に小さくなる。

 それはまるで森に取り残された村の消し炭みたいに真っ黒だった。私は男が丘を下りきるまでただ干葡萄を握ったままでいた。

 

 不意に、強い風が吹いた。

 体が傾ぎ、手から葡萄がこぼれた。我に返り、地面に手をつく。

 すると爪ほどの土虫が早くも葡萄にたかり始めた。わら、と甘く匂う葡萄に群がり、我先にと乗り上げ囓りつき奪い合う。

 ――カッと激しい怒りが沸いた。

 憎悪に葡萄ごと虫を払いのけた。

 目に付いた蠢く一匹を、そこに慎ましく咲いていた花ごと掴んだ。

 走る。

 駆ける。

 日の真下へ。

 黒い外套を、消し炭のように真っ黒な男を。

 追い駆けた。


      ◇


 南に逃れた私は、元の村とよく似た場所に身を寄せた。そしてそこで男に留守を任されている。

 男は雨の夜にだけこの家に帰ってくる。

 夜闇に紛れ、雨音に紛れ、真っ黒な外套に身を隠して。外套の下が血に濡れ手が血にまみれていることも、もう怖いと思わない。暗殺を生業として、その瞳がどんなに暗く翳っていようとも。

 彼は私と、あの盗賊たちを一人残らず排除すると約束してくれた。


 部屋に飾る白い小さな花は、私の憎悪。

 彼は私だけの希望ヒーロー

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