Nameless Hero

佐倉伸哉

本編

(……どうしよう、まさか今来るなんて)

 通勤中の電車内、悪阻つわりが襲ってきた。

 いつもはお腹が空いている朝の起きた時、または疲れが出てくる夕方から夜に出てくるけれど、まさか出勤中に出るとは思ってもいなかった。

 混み合っている車内という状況に加えて、微かに漂ってきたタバコの香りを意識してから、急激に体調が悪化した。車内は当然禁煙だが、スーツに染み付いたタバコの臭いはなかなか抜けないものだ。非喫煙の私はタバコの臭いに慣れてないのもあるが、妊娠中で匂いに過敏になっているのも大きい。

 体の内から強烈に込み上げてくる吐き気、加えて体が鉛に変わったような倦怠感けんたいかん。立っているだけでやっとな状態で、正直しんどい。

 通勤通学ラッシュの真っ只中というのもあり、座席は埋まっている。優先席にはユニフォーム姿の男子高校生のグループがおしゃべりに夢中で、私の事など気付いていない。他の乗客も、両耳にイヤホンで音楽を聴いていたりスマホに注視していたりで、誰も私の事に気付いていない。または、気付いていても席を譲るのが嫌なのか気付いていないフリをしているのか。

 妊娠時の悪阻は“本当にしんどい”と聞いていたが、ここまでとは思ってもいなかった。いつも似たような時間に出てくるから、その時さえ気を付けていれば何とか乗り切れていた。何とか乗り切れるかなと思っていたけれど、やっぱり悪阻はしんどい。

 誰も助けてくれない……悪阻で具合が悪くなるのは自分のせい、助けてくれなくても仕方ないのかな。

 そう思っていた時だった。

「あの……大丈夫ですか?」

 隣から、声が掛けられた。ふとそちらを見ると、学ラン姿の男の子。

 心配そうな表情でこちらを見ている。どうやら、私は相当ひどい顔をしているみたいだが、そんな事を気にする程の余裕はない。

「ちょっと、悪阻がひどくて……でも、大丈夫です」

 本当は全然大丈夫じゃないが、他人に迷惑をかけたくない思いがまさってそう答えてしまう私。

 しかし、男の子は私の返事を聞いても納得してない様子。

「いや、顔が真っ白でとても大丈夫そうには見えませんよ。とりあえず、座りましょう」

 それから、男の子は自分の前に座るサラリーマンの男性に声を掛ける。

「すみません。この方、妊婦さんで体調が優れないみたいで……席を譲ってもらえませんか?」

 この男性は私を見て見ぬフリをしていたが、男の子からお願いされるとやや気まずそうな顔をしてスッと席を立った。本来なら率先して立つべきだったのに年下の子から促されて申し訳なさが表情に出た形だ。空いた席に座れた私は、ちょっと楽になってホッとする。

 しかし、強烈な吐き気と倦怠感は依然として残っている。どうしようかと考えていたら、男の子がさらに声を掛けてきた。

「顔色が悪そうなので、次の駅で降りませんか? 駅員さんには僕が説明しますから」

 この男の子も通学の途中の筈だ。そこまでしてもらったら悪いと思うが、自分の体調を考えると目的の駅まで持つか分からず、背に腹は代えられない。ここは男の子の厚意に甘えることにした。声を出すと一緒に胃の中のものが出てきそうだったので、黙って頷く。

 そうこうしている間に、電車は次の駅に着いた。

「すみません、妊婦さんが降ります。妊婦さんが通ります」

 男の子は混雑する車内で声を掛けながら先導する。“妊婦さん”の言葉と具合の悪そうに歩く私の姿に反応した乗客が、黙って道を空けてくれる。まだお腹も出てない私が“妊婦さん”には見えない事をちょっと申し訳ないと思いつつ、男の子に支えられながら駅に降りる。

 ホームに降りると、駅員さんがすぐに駆け寄ってきた。恐らく、誰かが駅員さんに私の事を伝えてくれたのだろう。誰か知らない人の好意には感謝だ。

 男の子は駅員室まで連れ添ってくれた。駅員室に簡易ベッドがあり、そこに横になった私は、男の子に声を掛けた。

「あの……本当に、ありがとうございました。後日、お礼がしたいので、お名前や連絡先を教えて頂けないでしょうか?」

 すると、男の子はサラリと答えた。

「いえいえ、困っている人を助けるのは当たり前の事ですので、お礼は必要ありません。……では、僕は学校がありますので、失礼します。どうぞ、お大事に」

 そう言うと、男の子はペコリを頭を下げて駅員室から出て行ってしまった。その颯爽とした後ろ姿に、私は頼もしさすら感じた。

 男の子は“困っている人を助けるのは当たり前”と言っていたけれど、その当たり前をさりげなく出来る人はなかなか居ないのだ。私だって、昨日までなら見て見ぬフリをしていたかも知れない。


 結局、私はこの男の子がどこの学校に通っている誰かすら分からなかった。でも、本当に苦しかったあの時に助けてくれた事で、私は救われた。

 名前の知らない誰かさん。それが、私だけのヒーロー。

 些細な事かも知れないが、小さな好意で救われる人は必ず居る。私もまた、今度似たような人が居たら、助けてあげたい。そういう気持ちにさせてくれる、そういう男の子だった。

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Nameless Hero 佐倉伸哉 @fourrami

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