裸の物象

高黄森哉

裸の物象

 俺の目が見えなくなり始めたのは、中学を出て、高校に入学した初めの月くらいから。始めは遠くが霞む程度であった。


 五月には黒板がぼやけ、六月には教科書がぼやけ、といった具合に、月を追うごとに視力は低下していった。病状は、いよいよゲームのやり過ぎでは済まされなくなり、眼鏡屋から眼科に切り替える。検査の結果は、若者にありがちな失明に至る病であった。


 家に帰るが、ことさらすることはない。居間で緑茶を呑んでいると、病気を電話で伝える震え声や、妹の号哭が、気分を憂鬱にさせた。自分だけが我慢をしてるようだ。

 

 俺は泣きたくなかった。子供の頃は泣けば嫌なことはどうにでもなっていた。子供じゃない今、泣いてもどうにもならないことを知るのが怖かった。現状、俺は泣いていない。だから、泣いたらどうにかなるのかもしれない可能性がある。その考えが、架空の安全マージンとして働く。


 どうにもまだ、心は晴れない。眼鏡をはずすと世界がぼやけていて、まるで、ずっと泣いてる視界だった。眼鏡をかけると曇りが入っている。レンズを服でこすると涙をぬぐってるように見えやしないか心配になる。


 俺は泣いてると誤解されるであろう、動作の一つ一つが注意を惹き、苦しくなってきた。慰められるのが怖い。慰めとは、どうにもならないことに対する諦めである。もし、どうにかなるならば、人は鼓舞するか応援を送る。


 外気を吸う必要がある。まだ、見える内に世界を鑑賞しておこう。本当は家にいると心が曇るから。つまり居間にて目の前が真っ暗になる前に、新鮮で不幸とは無縁に見える世界の散策をしたくなった。



 ◇



 川が流れている。ここら辺は工場が多いので、水面から生ごみのような腐臭が漂ってくる。両側は、コンクリートで埋められており、工場の延長のような外観だ。川の中は濁り、毫も見通せない。ただ、色の暗い鯉が表層に来ると、てらてらとした背中が明らかとなるのが分かった。それも目を凝らすと、消えてしまった。


 『おうい』と、声を掛けられる。彼は、ひろしといい、俺の友人で、入学始めの教室で出会った。ひろしの学級は一つ手前で、俺とは別なのだが、彼は間違えて俺のクラスで待機していたのだ。そしてそのまま、自己紹介まで俺の学級で過ごした。


 クラスが別れてからも、交流は続き、今ではよき理解者となっている。ひろしは俺の目が日に日に見えなくなっていくのを、俺よりも気にしていた。だから来年までには失明してしまうことを明かすのは気が引ける。


 しかし、ここで明かさせて欲しい。家族は泣くばかりで、口を開けば俺の心は気にもせず今後の不幸を羅列してしまう。それは俺にとって、何よりも辛い経験になるのだ。だが、ひろしはそうはしないだろう。ちょうどよく悲しんでくれることを期待した。


「なあ、ひろし。ちょっと話があるんだ」

「なんだよ」

「ここのところ、目が悪くなってただろ。眼下にいったんだ。そしたら、来年までに失明するそうだ」


 俺はそう伝え、無口になった彼の方を見ると、ひろしは柵に寄りかかり、ただ川を見ていた。くすんだ灰色をした不透明な流れを、じっと観察していた。そして、そのままに口を開く。


「そうか。それは残念だな。……………… 今日の夜は開いてるか? 天体観測にいこう」

「よしとくよ」


 ここで、了承すると、バイトで稼いだ金をつぎ込んで、高価な望遠鏡を買ってくる予感がしたのだ。


「大丈夫だ。誰も呼びはしないよ。それとも眼鏡じゃ星は見えないのかい? それでも結構。大切なのは経験なのさ」

「そういうものか」

「ああ。ただ一つ、持ってきてほしくないものがあるんだ」

「持ってきてほしい物、じゃなくてか」

「そうさ。持ってきてほしくない物。懐中電灯を持ってこないでくれ」

「分かった」


 俺は不振に思いつつ、また、裏にあるたくらみを無下にしたくないと強く思った。

 ひろしは、するコトがあるらしく、話を早々に畳んで、あっさりと返ってしまう。彼方岸と此方岸を結ぶ橋の上で、お別れをし、俺と博は反対側にある住宅地へ歩みを進めた。ふと俺が振り返ると、丁度、ひろしが角で見えなくなるところだった。



 ◇



 その夜は、五月にしては変に寒かった。だから、ジャンパーを着ていく必要が生じた。俺はクローゼットからジャンパーを引っ張り出し羽織る。こんな季節に、ジャンパーを着るのはどうかと思うが、見てくれをきにして風を引いたらそれはそれで、どうかしている。


 玄関で靴を履き、懐中電灯を取り出そうとしたところで、博の約束を思い出し、止めた。俺はいってきますと静かに言う。家族は夜遅くの外出に何も言わなかったが、あらぬ誤解されてる気がして無性に殺気だった。そのため扉を閉める時、すごい音が響いた。その動作も誤解されてる気配がして、さらに苛立ちが募った。


 待ち合わせ場所はきっと、どぶ川に架かる橋の上、そう信じて家の裏の径を歩く。夜の径は光が無く、昼間とはまるで違っていた。全てが紺の色彩をまとっていた。空気にさえ色が付いていないようで、つんと澄んでいた。音も色と共に消えてしまっている。でも、歩けない程じゃなかった。


 電灯を渡り歩き、ようやくひろしの下についたのは八時。どぶ川の匂いは冷えて、鼻腔によく通る。水の流れは、ジャボジャボという音を介して伝わってきた。その濁点のついた擬音語に川の汚さが幻視出来るようだ。


「山に行こう」

「山なんてあったかい」

「正確には丘なんだ」

「そうか。ここから遠いか」

「遠くない。少し歩く」



 懐中電灯の照らす範囲は極めて狭く、転ばずに歩くには時間がかかる。持ち主はひろしであり、彼は彼の都合の良い範囲を照らすのだが、俺にとっての見たいどころは視認できず、もどかしかった。俺が指摘すると、ごく短い間、そちらを光らすのだが直ぐに役割を忘れて、自分の道に注力しだすのだ。俺は、懐中電灯を持ってくればよかったと一瞬よぎったが、それはひろしとの約束のためで、だから持ってこなくて正解なのである。



 ◇



 目的地に着いた時には、もう十時。出発から二時間もかけてようやく、丘の頂上に到着し、疲れ果てた俺たちは頂上で並んでぼぉと突っ立っている。街灯も誘蛾灯もないところで、物の輪郭は定かでない。紺色の色彩さえ没収され、墨のような暗闇に閉じ込められる。闇に圧迫感を覚えた。無いものに満たされた空間が常に息苦しかった。


「それじゃあ、懐中電灯を消そう」


 博は、おもむろに懐中電灯を消した。頭上を見上げると、夜闇が濁っている。


「星なんて見えないな」

「そうさ。今日は曇りなんだよ」

「曇ることを知ってたのか」

「朝の天気予報を覚えてたんだ」

「じゃあ、じゃあなんで連れてきたんだ」

「だから、経験が大切なんだって。俺達は、天体観測に丘まで歩いたんだ。でも、星なんて見えなかったんだよ。でも、もっと、大事なものが見えたのさ」

「なんだよ」

「これが真実の世界の姿さ。―――――― 一部を除いて、日中、世界に色が塗られてるのは太陽光線の反射であって、物の持つ発光が由来じゃない。本来、物体に色なんて無いんだ。幻想。光に照らされた錯覚さ。この暗闇が本質なんだよ。この暗闇こそが、お日様の色眼鏡を通さない嘘偽りのない世界。君は物が見えなくなるわけじゃない。現実を曇らせていたレンズが澄んでようやく、物象を正しく見ることが可能になるのだ」


 俺は何も喋らなかった。眼前では、何も見えない筈の世界が、ぼんやりと映った。そしてそれは真実の物象だった。裸の世界が、一点の曇りもなく正しい形状を持って目の前に現れたのだ。



 



 

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裸の物象 高黄森哉 @kamikawa2001

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