第3話 共鳴する棘

プラスチックの爪に、スチールの弦が当たる。指がフレットを押さえて、音が鳴る。いくつか音を鳴らして最後に、六つ張られたすべての弦を肘から下を振るように下ろして、調律された音が心地よく響いた。ふう、と一息ついて、首から肩にかかった革の帯を上に向けた掌でぐっと支えると音の立たないように床におろし、足元に転がっていたベルトのついた箱のようなものをぼこ、と蹴ると側面に沈み込むように沿ったジッパーを引っかかって止まったりしながらも開けて、起毛したひと周り小さくなった箱の内側にそっと嵌め込んだ。


お母さんの声がリビングから呼んでいる。おなかがくう、と鳴って階段を降りると、テーブルの前の椅子に座り、ご飯を食べる。今日はベーコンエッグとトースト、それにオレンジジュース。前歯が焼けてかたくなった食パンの表面に食い込むのを感じながら今日の授業は、なんて考えていた。最後に一気にオレンジジュースを飲み干すと、たん、とテーブルに置いた。グラスの側面の雫が、ふるふるとゆれて、落ちた。朝ご飯を終えて、洗面台に行く。ああ、もう決まらないなんて言いながらアイロンとドライヤー片手に髪を整える。段のあるウルフカットに切られた赤みの含んだ濃い茶色の髪が熱い風を受けて、つやつやとしていた。また傷むな、この間染めたばっかりだし。なんて思いながら前髪をちょいちょいとトップコートの塗られた指先でいじって、よし、と鏡の中の自分に向かって確認をする。仕上げにリップクリームを塗って、バッグを持ち、ギターケースを背負って、また最後に玄関の姿見でスカートのしわをパンパン、と払って襟をきゅっと直し、行ってきます、と重く作られた玄関のドアを開けた。


紺色のアスファルトを歩いていく。ハイカットの赤い布のスニーカーの、曲がりにくい白いゴムの底から、路面にかかとが当たる感触がして、熱くも寒くもないやわらかな温度が頬に降った。植えられた木蓮の大ぶりなクリーム色がかった白い花が風に揺れて、伸ばした後ろ髪が金具に挟まった。少し痛い思いをしてしまったけれども、毛根を引っ張られた痛みに涙が浮かんだ目には、この世界がやけに彩度と明度ともに増して映って、いいことでも悪いことでも、何かが変わる出来事が起きる。そんな予感がした。


学校は街で一番高い丘の上にある。そこまでこのバッグとギターケースを背負っていくのは少し骨が折れる事だったし、幸いなのかそうでないのかこの学校は勉強のできる学校だったからバッグにも教科書がぎっちりと詰まっていた。けれどもその分か校則はとても自由で、髪を染めようが制服の丈をいじろうが化粧しようがなんだって許された。だからこの学校教室からは、いつも少し甘くて、年頃の女特有の、少しとろけた桃のような甘い香りと化粧品の香りが漂っていたのだが、同じクラスに、ひとり、例外がいた。


その子からは、いつも空と同じ色をした、風の匂いがした。スカートはきっちり膝丈で、化粧ひとつせず、腰まで伸びた緑の陰を帯びた黒い髪の毛がさらさら、と少し重たげにゆれていた。そしてその奥からのぞく、血の通った茶色みがかった黒くて平均よりは少し大きめの瞳がいつもひんやりとした、秋の湖のような光を放っていた。端的に言えば、その子は何を考えているのか、よくわからない。昼食はクラスメイトと取っているようだけれど自分から何か話すことはないし、いつもうっすらと浮かべている笑みには、肉体がなかった。ただ求められているものを磨かれた鏡のように返しているだけの、人型の虚ろがそこにあるようで、少し気味が悪くさえ、思っていた。けれどもこんなことを言うくらいにはあたしだってあの子を見てしまうのだ。だからあたしに言える確実なことは、あの子には華がある、ということだけだった。それが、なんだか、羨ましい。


譜面を広げて、コードを書いていく。C,B7、Em……抱えたギターを鳴らしながら、これがどうかな、なんて試し試しに。頭の中で絡まりあう音を丁寧にほどいて、布へと仕立ててゆく。あたしが作った音楽がどうなるにせよ、誰かを救うなり、それとも傷をつけるなり、ともかく人に何か感覚を与える、震えた鼓膜から脳に伝わるちいさな電流がこの白みがかったプリンみたいなものの中で小さな爆発を起こしてくれればそれでいい。


人気のいない図書館前のコンクリのベンチで、放課後、ギターとにらめっこをしていた。一つ、かき鳴らして、ああ、と声を出す。プレハブの壁にあたった音が反射して、耳に届く。頭の骨の中で共鳴するそれと発された声が交じり合って、脳を少しゆらした。息を吐く。首を振る。整えた髪が乱れるのも構わず頭をぼりぼりと掻く。

「ダメだな」

その声には魅力なんてもの、かけらぽっちもなかった。音は取れている。リズムもくるっていない。ビブラートだってかかっている。けれども、その声には、見るものの眼さえ焦がすような、きらめきがなかった。あたしには才能がない。いいや、あたしの音楽は、最高だと自分では思っている。そう、思えている。けれども、歌は。自分で自分のことを信じられない人が音楽、いやそれだけではなくて表現全般をやるならば、それはきっと何よりも必要なことだ。あきらめのような、夕焼けの色をした感情が、かあかあ、と空を飛ぶ鴉の声に乗って流れている。やりたいことをやるためには、才能がいる。それはそのものの才能ということではなくて、何者にも折れないしなやかな、敲かれた青い鋼のような、決意とまなざしのことだ。ただ自分を信じ切るということ、宗教のような、と言ってもいい。ただひたむきである才能。それがあたしには、欠けているのかもしれなかった。太陽の落ちてきた空をそっと見上げて、ふう、とひとつ息を吐き、手に持ったままのボールペンをなんとなくくるくる、と回してみたりなんかして、今日はやめよう、とペンケースにしまい、起毛したくぼみにギターをはめ込んだ。ジッパーの取っ手を引っ張ろう、としたとき、聞こえた。


 それは声だった。そして、歌だった。ふくよかで、きめの細かい、どこか胡弓にも似た、そしてなめらかな手触りのどこかにひそかな棘のある、どこか脳髄をそのまま引っ搔いて擽るような、美しい、と呼ぶべきか、迷うような。けれどもどうしようもなく耳を向けずにはいられない声だった。いままでライブハウスに通って、生でいろいろな人の声を聴いた。でも、今わかった。これが、華。魅力。抗えない魔性なのだと。自分でそれがほしいなんて言っておきながらその実在を疑いさえしていたのだけれど、本当にいた。そのことに驚いてしばらく、思考の言語化もできないまま十分、十五分ほど、時の実感がないほどに茫然としていると、声が止まった。声は隣の、特別教室棟の屋上からしていた。脊髄の奥から干上がるような熱が立ち上がり、その場の荷物を乱暴に抱えて遮二無二その場を駆けだした。


上履きは摩擦が少ない。劣化した靴の底のゴムと、のっぺりとしたリノリウムにワックスが塗られて、さらにぬるついているところを何とか走っていく。何回か転びそうになって、職員室の前を通った時には誰かはわからないけれども教師の注意する声が背中に掛けられた、と思うけれどもあたしはそれどころではなかったから、とにかく屋上に向けて階段を駆け上がった。背中にがつがつと当たるギターケースの中で相棒が暴れるように揺れている感触のせいで腰が少し痛くなった。上から二番目の階段を上がる時、さら、と風に揺れる黒くて長い髪の毛のようなものの影が見えたような気がしたが、とにかく屋上に行かなければならないという気持ちに感覚総てが支配されて、気にしなかった。


屋上につき、もどかしげに乱暴な手つきでドアノブをひねる。そしてやっとの思いでドアを開けると、そこには誰もいなかった。空気が湿って重くなり、水の匂いが鼻に届いた。雨が降る。あたし、今日傘持ってきてない。ギターはとかく水に弱い。ケースの中とは言え濡れる前に帰らなければならない、と思って我に返り、また来た道を走って引き返し、ハイカットのスニーカーの紐の根元を手で掴んでぎっ、と引っ張って広げ、つっかけるように足をねじ込んで学校を飛び出した。もうアスファルトは薄く濡れ始めていて、白い靴底の端が、砂の混じった水で、じんわりと汚れた。


こういう時は家が近くてよかった、と思う。丸く切られた髪のトップがへんにょりと湿って、目にかかる。ぱっぱっと払うと朝付けたオイルが少し溶けて、手がぬるついた。重い玄関のドアをぐっと引っ張った。ぎぎい、と音を立てて開くと、気圧が変わって空気が軽くなった。お母さんのお帰り、という声にただいま、と返して部屋に戻る。無性にギターに触りたかった。確かめるように、一音一音、またそれが重なって、コードを作る。薄いピックの弦に引っかかる感触を、ひたすらに、味わっていた。



夕飯も済んで、お風呂に入る。あたしは髪を染めているから、ヘアケアはきちんとしなきゃいけない。髪を洗って、トリートメントを塗って、シャワーキャップを被って湯船に浸かる。天井から冷えた水滴がぽつ、ぽつと落ちてくるのを見つめながら肩までお湯に入る。そうしていると、何となく声が出た。きょう、人類がはじめて、木星についたよ。昔の流行歌。動画サイトで何かいい曲ないかな、と探している時に偶然見つけた。歌とか、音楽とか。人間だけのものじゃないけれど、人間が、ひとである上で、とても大事だと思っている。ひとが体から離れていく、というのは、また動物になってやり直すということだ。人間は元から動物だけれど。音楽、音というものは、それが発される元は何にしろ、肉体そのものだと思う。だから。あたしは音楽と生きていたい。頭からかぶったシャワーが、身体の泡を流していく。足元で散らばって排水溝へと向かうあれらの中には、過去のあたしがいる。スキンケアをして、ヘアミルクとオイルを髪に塗ってコームで梳かす。ドライヤーの風を当てると、朝見た時より、色がほんの少しだけれども、薄くなっている。ひとは自らを改変できる。見た目も、たぶん心も。あたしはどうなりたいのか、今もよくわかっていないのかもしれない。


次の日、あの子は学校に来なかった。あの声も聞こえなかった。本当ならそこで関連のことを考えなくてはいけなかったと思うけれども、あたしはあの子の声を聴いたことがなかった。三年まではクラスが別だったし、あの子の選択科目は音楽じゃなかった。休む人なんてもう三年ともなればいることにはいるし、珍しいことでもなかった。だから、あの子がいない空間の欠落を、ただ見つめる事しかできなかった。


ふと思いついて、あの屋上で昼ご飯を食べた。あたし以外だれもいない。もともとそんなに友達もいないし、同じクラスにご飯を食べる相手もいないから、別にどこで何しようと困る人はいなかった。あたしはもともと目つきも鋭いし、空き時間があればひたすらギターを触っているような質だから、友達がぱっぱとできるようなことはなかった。だからと言っていわゆるコミュニケーション力のある人がうらやましくて、なんてこともないし、ひとりでいることも苦じゃなかった。だからこの時期にもなってバンドを組んでいない。屋上は高いフェンスに囲まれていたけれど、建物の向こうの空がよく見えた。ここは標高が少し高いから、空気の密度も少し薄いのかもしれない。持たされたおにぎりをかじり、自販機で買ったお茶を飲むと、世界がやたらと広く見えて、風が吹いた。毛先が頬をくすぐって、世界は緑色にきらめいていた。あ、昆布。感覚の解像度が上がって、肌のきめの一つまでに浅い霧が入り込むようだった。


スマートフォンが鳴る。画面を見ると、部長からだった。ちょっと考えて、出るか、と通話ボタンを押し、もしもし、とこたえた。

「ねえ、どうする?」

あたしはバンドを組んでいない、が軽音楽部ではある。七月に文化祭、十一月に卒業ライブがあるのだが、それには出なければならない。三年生なので。いざとなれば弾き語りでもするかな、なんて思ってもいたけれども、この部長はやさしくて、心配しいの子だったから、こういう電話をくれる。つまり、バンドは組めたか?ということだ。それはもう言ったが、組めていない。あたしは結構わがままだから、いままで誘いはあった。自分で言うのもあれだが、ギターは多分、一番うまかったから。だけれど首を縦には降らなかった。あたしは、あたしの納得する相手としか、音楽をやりたくなかったからだ。そのせいで部長には迷惑かけてるな、と思うけれど、そこは変えられないことだった。


 そして、あたしはあの声を聴いた。聴いてしまった、というほうがいいか。わかっていることはその人はこの校内にいる、ということ。そうなればあたしは、絶対、何が何でも、あの声といっしょに音楽がやりたかった。だから、待ち伏せすることにした。放課後になると一目散に屋上へ走って、そこで練習をした。これに効果があるのか、それとも逆効果なのかはわからないけれど、それでもあたしがあの声に巡り合うためには、それしか取れる手はないのだと思ったから。それをはじめて十日目くらいだろうか。ギターを弾いていると、後ろのドアが開く音がした。ぱた、ぱたと足音が近づいてくる。そのわずかな振動を腰骨で感じながら振り向かず、ただ耳をすませていた。あたしの背の1メートルほど後ろで歩みが止まる。その体の主が口を開く。

「……あなた、ギター弾くのね」

それは、あの子だった。あの、髪のきれいな、あの子。そしていきなり、その髪をばっさり切ってしまったあの子、だった。


十日ほど前の、一日、あの子が学校を休んだ次の日の朝。教室のドアを開けるとそこは騒然としていた。教室の、窓際の真ん中のほうに人だかりができて、女子たちがきゃあきゃあ、と声を上げていた。どうしちゃったの、きれいだったのに、と口々と。何があったのか、と人と人の間をのぞき込むと、あの子がいた。腰まであった黒く、長く、つややかな髪は顎先の長さまで短くなって、ぽってりとしたラインを作っていた。何よりあたしの目に留まったのはその顔色だった。青さえ帯びて真珠の影のような白い頬は、白さこそ変わりはなかったが、皮膚の奥から湧き上がるような桜色の紅がぽお、とさしていて、生気に満ち溢れていた。垂れてきた髪を耳に掛けるその指先にまで確実な血が通っていて、今までよくできた細工鏡のような、陶器の人形のような面持ちでさえあった佇まいがまるっきり、体温の燃える生命になってしまったようだった。それに見蕩れるようにじっと見ていると、同級生たちの騒ぐ声がうるさくて、もったいないだの、なんで切っちゃったの、だの好き勝手言うのを放っていられなかった。だからこれは、ただの自己満足でしかない。

「似合うよ、それ」

たったこれしか言うことはできなかったけれど、あの子は少し噛んでいたくちびるをそっと放して横にすっと引いて、笑った。歯の跡がまだ、残っていた。

「ありがとう」

それしか返ってはこなかったけれど、それが本心ならば、ただ、一筋の救いの、その引っ掛かりにさえなるのなら、それでいいと思った。


「わたし、うれしかったの」

あなたがああ言ってくれて、と続いた言葉にひたすら驚くしかなかった。あたしとしてはまず覚えていたのか、ということとそもそもあたしのことを認知していたのか、ということだった。だから、知ってたんだ、ということしかできなかった。それを見てあの子はすこし、顔の力を抜くように、いたずらっ気ににい、と笑った。そんな顔もできるんだな、と思った。もともとが整った顔の人だからそれが冷ややかな透明な氷のほころぶようで、きれいだな、と感じた。あたしが何も言えずにあの子の目をじっと見ていると、無言に耐えかねたのかまた口を開く。

「何? どうかしたの」

あたしも何か返さないと、と思って少し焦ってどもりながら抱えたままのギターをきゅ、と抱きしめてあちらこちらをきょろきょろと見る。手首の内側にあたる弦が冷たいことだけが、実感としてあった。口の中に溜まる唾液を飲み込み、しゃら、と鳴ろうとするギターを掌でミュートして抑え込み、何とかしゃべりだした。

「浅貴さんこそ。どうしてこんなところに」

あの子、いや、浅貴椿は短くなった髪の毛の、もうないところをかきあげるようなしぐさをすると、あ、そうか、と言って口元を育ちのよさげに手で隠してまたふふふ、と今度は心の底から楽しげに笑った。

「あなた、まだ知らないのね」


そのまま浅貴はひとつ、深く呼吸をして、口を開いた。そして声が溢れ出す。それは、その声は、あたしが焦がれた、あたしが欲した、あの声だった。それは、空間を伝って。まるですべてを支配でもするように響いていく。前聴いたあれも、すごかった、とんでもなかったけれど、今はそれ以上だった。それは髪を切ったからなのか、それとも付随する何かがあったからなのかはわからないけれど、あたしの世界というものを、ゆで卵にひびを入れて、それを蛇口から流れる水道に当てた時のようにつるりと剝いてしまった。立っている浅貴に合わせて、自分も立たなければ、なんて思うこともできずぺたん、と座り込んでいると彼女があたしの視線に合わせてしゃがみ込んでそれ、弾いてくれないの?と言った。いつもは見えない色素のない膝小僧が、スカートからこぼれ落ちた。

 

あたしはギターを抱えなおしてぎゅっと抱きしめたせいで狂ったチューニングを、ペグをきりきり、とひねって調えると重たい革のストラップを斜めにかけなおし、ピックを構えた。少しタメの、グルーヴィーなリズムを、カッティングで作り出してゆく。C,B7、Em……。

「へえ、フライングキッズか」

そう感心するようにうなずいた浅貴の声があたしのギターに乗る。今まで何人かボーカルのバッキングをしたことはあったけれど、こんな体験は初めてだった。まるで二人の脳が、脊髄と脊髄を介してつながって、電流を送りあっているような。幸せであるように、心で祈ってる。幸せであるように……ただそこには、純粋な音楽だけがあった。あたしの、欲しかった、すべてがあった。


 一曲弾き終わった後、息が切れていた。そんなに疲れることは何一つしていないはずなのに、ぜえぜえと音を立てるほどに体力を使っていた。前髪の生え際から垂れてくる汗を手の甲で拭い、思いっきり息を吐くと、前に立っていた浅貴の目をもはやにらみつけでもするように、じいっと見た。浅貴は少したじろいで、そのあとすっと姿勢をただした。この人はいつもぴしりと背筋が美しく伸びていた。楽しげな色を灯していた瞳が落ち着き、あたしのほうに、まっすぐな視線を向けた。

「浅貴さん」

あたしが切り出すのを待っていたかのように何、と言葉が返ってくる。あたしは一瞬迷って、けれどもそれを振り捨てた。今しか、機会はない。理由はわからないが、そのことは確実に、わかっていた。この時だけが、この浅貴椿という女を、こじ開けられるチャンスだと思った。

「あたしと音楽、やってよ」

浅貴はそれを聞いて目を伏せた。だめか、と思った。そうして視線を上げて、あたしのほうを向き、口を開く。あたしは怖かった。この声を活かせるのは、あたししかいない。そう、思っていたのに。

「いいよ」

まさかの言葉だった。断られると思って身構えていたのに、答えは是。鳩が豆鉄砲を食ったように口をぽかん、と開けたまま固まっていた。そのまま二十秒ほどいると、心配そうな表情をした浅貴がどうかしたの、と声をかけて、こちらをのぞき込んできた。あたしは体の緊張を何とか抑えて、どうして、と言った。浅貴はどこか遠くを見ていた。

「さあ、どうしてかしら」

そしてでも、と続く。

「わたし、ほんとうにうれしかったのよ」

そういってあたしの目を見て、涙交じりに笑った浅貴の後ろに、山際に沈んでゆく真っ赤な水気のある、はち切れそうな夕日があって、明日は晴れだ、とぼんやり頭に浮かんだ。そしてこの光景は、きっと忘れない。


 その日は二人、話すこともせず夕陽をじっと見ていた。ほんの少しずつ、太陽が山々の間に潜っていって、その裏側からなお光があふれて、紫色の夜が上からゆっくりと帳を下ろしてゆく。確かな熱量が隠れて、じんわりと春のまだ少し冷ややかな風が肌の火照りを癒した。閉門のチャイムが鳴ると、屋上の施錠をしに来た教師が早く帰りなさい、と言った。あたしたちはそれまでずっと、空を見ていた。距離は違うけれど、この学校は街で一番高い丘の上にあって、大体の生徒は校門の前から降りてゆく大通りの一本道を通って帰る。途中まで浅貴と二人で歩いていたけれど、まだ夜になり切っていないほの暗い入りに、うっすらと灰色じみて月が浮かんでいた。今のあたしたちには、影がない。けれど輝き始めた、白い星々のような、確かな輝きに、焦がれている。


浅貴の家は、あたしよりもっと降りたところの、いわばお育ちのいい人たちの住んでいる地区にある。それとなくどこ住んでるの、と聞いた時に、あそこよ、と聞いた時は、納得してしまった。浅貴は完璧だった。よく設えられたひな人形のような存在で、ただその場にいるだけで、視線というものを否応もなく集めた。それはその体温のある瑪瑙のようなつるりとした光を持つまなざしのせいなのか、それともつややかに降ろされた青みを帯びた黒い絹の生糸の束のようなその長い髪のせいなのか、ろくに浅貴に近づいていなかったあたしではわからないけれど、それでも彼女の一挙手一投足に皆意識的にか、無意識的にか注目していたし、それはあたしもそうだった。かと言って髪を切ったからその魅力が失われたというわけではないのが、この浅貴椿という女の本性なのだろう。言ってしまえば、羽化したのだ。今までの浅貴が花なら、今のあれは蝶だ。それもただの蝶ではない。かたい蛹を脱ぎ捨てた、美しく、強いオオムラサキ。オオムラサキは自らの縄張りを守るためならカブトムシだろうがハチだろうが何だろうが分厚い翅と、それを自在に動かす筋力で木から叩き落して樹液を得る生き物だ。ただ美しくだけあった浅貴は、人型の虚ではもはやなく、春の̪羊歯のようにのびやかでしなやかな一つの生命になった。浅貴に何があったかは知らないけれど、それだけが真実だ。


家に帰って、朝整えたベッドにごろん、と寝ころび、スマートフォンを見る。あの時の歌。幸せであるように。ただ、これからのあたしと、浅貴の進むところに、何か一つでもいいから、幸せがあればいいと思った。ストライプのシーツに後頭部がこすれて、染めて傷んだ髪がきしり、とわずかに絡む。あ、と手櫛でそれをほどいてふう、と靴下を脱いだ。湿り気を帯びた足先がフローリングに触れて、ぴとり、と音がした気がした。制服のスカートが床に落ちる。軽く背伸びをすると肩の骨がぱきぱきと鳴って、ううん、と息が漏れた。一つ二つ、屈伸をしたりして、身体をのばすとまたその下着のままベッドに寝ころび、スマートフォンを見た。ふ、と思い出した。メッセージアプリを開き、トークルームをさがしてタップする。

そして言葉を打ち込む。仲間、見つかったよ。今度、連れて行くから。


 あたしは浅貴のアドレスを知らない。さっさと交換しろよ、なんてものだと思うのだけれど、浅貴とのやり取りは、肉体がほしい、なんてわがままを言っていたから、毎日屋上で待ち合わせて、そこで二人音楽をやっていた。それに一週間くらい経ったあたりのことだったろうか。浅貴が、アドレス、いや電話でもいいけれど、交換しないの?と持ち掛けてきた。あたしはいやに照れてしまって、どもったり、汗をかいたり、手の指を引っ掛けるように絡ませたりなんかしてもじもじしていた。その様子を見て浅貴がこちらの顔をのぞき込んで少し心配そうにねえ、大丈夫なの、というと二人、目が合った。耳に掛けられた髪が重力に従ってさらり、と一本一本落ちるのが、いやにゆっくり見えた。それに従ってうん、とうなずいてしまって、浅貴が画面にQRコードを表示して、じゃあ、はい、これとあたしに突き出してきたのを、気づかれない程度に薄く震えた手に持ったスマートフォンのカメラで読み取った。いままでのあたしと浅貴のつながり、というのは意思のある偶然でしかなかった。けれども二人はつながってしまった。あたしにはこれは大きな意味がある。彼女がどう思っているかは知らないけれど、あたしは、浅貴に、賭けてみたかった。

 

 ぽかん、と口を開けたまま固まる顔。あたしは漏れ出してくる笑いを押さえられなかった。くるくると巻かれた明るいグレージュの髪ばかり、春の風にさらさらと揺れて、しばらくそのままでいた表情筋がようやっとほどけて、ぱくぱく、と口を酸欠の鯉みたいに動かした後、言葉が途切れ途切れに押し出すように出てきた。

「浅貴さん? まさか」

あたしはにやにやと底意地の悪そうな笑みを浮かべながらそのまさか、と返した。浅貴もお上品によろしくお願いします、なんてお辞儀をして、言い方は悪いがきれいに、猫を被っていた。この軽音楽部というところは服装の自由な校風の中でもとりわけ自由、言ってしまえば治安が悪そうな人間がたくさんいる部活だった。それでもこの学校は頭がいい、とされている高校だったから根は真面目な人間が基本なのだが、その中でも比較的、束縛を嫌うような、いわゆる個性派ぞろいと言われている人間の巣窟が、この軽音楽部だった。だから、こんなところに、真面目で清楚、学年でも有名な一切制服を着崩さないような浅貴がくる、なんてこと、部長の考えの中では、ありえないことだったのだろう。恐る恐る、いいの、本当に、と問いかける部長に対して、浅貴はやわらかく、にっこりと笑いかけた。

「いいんです。わたしがやりたいことですから」

その泥を割って開く蓮の香りのような笑みと、声にあたしは何回か受けて耐性ができていたからよかったものの部長は同じクラスになったこともないようだったから免疫がなくてぽっと、ファンデーションの上からでもわかるように顔を赤くして、げほんげほん、と咳払いをして息を落ち着け、あたしの顔を見てうれしそうに笑いかけ、よかったね、と言った。あたしもなんだかうれしいような気持になって、うん、と返した。そして部長は浅貴のほうへと向き直り、よろしく、と手を差し出した。二人が握手をする。浅貴の桜色の貝殻のような爪と、部長のポリッシュを塗られて飾られた爪が、両方とも光を反射して、きれいだった。

 

 ともかくあたしたちは、文化祭のライブに出ることになった。けれどそれまでには二か月もなかった。だというのにあたしも、それに浅貴も、オリジナル曲しかやる気はなかった。あたしが今まで作った曲は使えない。ダメな奴らだったとは思わないけれど、強度がどうしても足りない。浅貴が、そしてその声が持つ力に、競り負けてしまう。曲が声を支配するのでもなく、その逆であるわけでもなく、声と曲の均衡は拮抗していなければならない、と思った。だから、あたしは浅貴のためだけの曲を書くことにした。ステージの時間は三十分、必要な曲数は五曲。練習込みで仕上げるためには、一週間、限界まで延ばしても二週間で何とか書き上げなければならなかった。ひたすらに楽譜と歌詞が頭の中を駆け巡る一週間と数日だった。耳をふさいでもメロディが流れているような気がするし、目を閉じれば瞼の裏に銀色の六弦が絡み合って震えていた。譜面帳を三冊使って、書いては没、弾いては没を繰り返し、なんとか四曲が完成し、五曲目もコードとメロディが仕上がった。今までの曲は歌詞まであたしが付けていたけれど、思ってみれば今のあたしはたった一人で音楽をやっているわけではなかった。だから、一曲だけだけれど、浅貴に、詞をつけてもらうことにした。トークルームに、ハミングとギターの、とてもシンプルなデモを送信する。あたしが書いた、浅貴のためだけの曲だ。そしてそこに、これに歌詞つけてよ、と添えて。すぐ既読がついて、五分くらいした後、一言、オートクチュールだね、と返ってきた。一日待ってて、とも。それを見て、もう疲れてしまったのかとても眠くなって、瞼の裏のなんだかよくわからないぐにゃぐにゃした模様がみえると、そのまま、春の少し暖かい風の吹き込むベッドに倒れ込んで、寝てしまった。耳の奥に、浅貴の声の共鳴した倍音が浸みこんでいくように聞こえて、それが途切れるころ、意識も落ちた。

 

 次の日、浅貴とあたしは、また屋上にいた。浅貴は緑色に塗られたおそらく花壇だった段差に腰かけるとバッグをごそごそと探って半透明のクリアファイルを取り出し、中身をのぞき込んで確認すると、あたしに手渡した。中には一枚のルーズリーフが挟まれていて、そこにはおそらく万年筆だろうか、少し滲んだ紫ががったブルーグレーの整った筆跡で、一番上に大きくタイトルとその下に歌詞が書かれていた。それを一通り、ゆっくり一文字一文字追うように読んで、そっと目を伏せ、そして浅貴の目を見た。彼女は何も言わず三、四回瞬きをするとおもむろに口を開いた。ああ、春の風を、わたるひとの、まなざしへと、灯る光……美しい歌詞だった。浅貴は成績がよくて、殊更国語全般は学年トップクラスだった。そのせいなのか、彼女には言葉、というものを扱う素養があった。こんなものを見せられたらこっちのほうもこんな歌詞で良いんだろうか、なんて少し不安になるものだけれど、浅貴は面白そうに小さく笑って、わたし、好きよ。あなたの言葉。と言った。あたしは何だか照れてしまって、頭を所在なさげにぽりぽりと掻いているのを、浅貴は面白そうに少し笑いながら見ていた。存外この子は、よく笑うのだな、と思った。


浅貴とあたしは、音楽をやるようになってからよく互いの家を行き来するようになった。あの子はあたしの部屋の大量のCDと、それにLP、それとプレイヤーとスピーカーに、目を輝かせていた。彼女は耳がとても鋭かった。歌を聴けばその声だけでどのように体を使っているのか、どのように技術を用いているかが手に取るように分かった。浅貴はあたしの部屋にある音楽を片っ端から聞いては、そのエッセンスを、身体に染み込ませていった。そして浅貴の部屋には、壁一面の本棚があった。そこには小説、エッセイ、詩集、歌集、はたまた図鑑から何からジャンルを選ばず縦横無尽に本がしまわれていた。初めて行ったとき、それに圧倒されてぽかんと見ていると浅貴が一冊の文庫本を取り出した。

「わたし、これ好きなの」

若山牧水の歌集。渡されて、ぱらぱらとめくると、五ページ目くらいによく開かれたのか、自然に折れるページがあった。白鳥は哀しからずや、海のあをにも……きっとこの子はこの歌を繰り返し、繰り返し読んで孤独の海に体を浸していたのだろう。孤独には慣れることがない。ただ真っ青でつめたい温度に、肌が冷えていくのを耐えて、いつしかそれを表に出すこともないうちに、浅貴の瞳には、あのひそやかなきらめきが宿るようになったのだろうか。かわいそうとは思わない。けれどもそこにあった隔絶の、その一かけらを知る人は、本当にいたのだろうか、と、浅貴の内にあるさみしさのほんの端っこを、知ることができたような気がした。あの子がこの歌集を手渡してきたことの意味は、今でも分からないけれどきっと、自分の内側に足を踏み込ませてくれたことの、徴だったのかもしれない。


それからあたしと浅貴の距離は、静かな温度を保ちながらも磁石の両極が引きあうように縮まっていった。二人がともにあるようになるたびにあたしのギターの運指は冴えて、木と木がより鋭く穿つように響くようになった。時に歌うように、時に喋るように、文学的ともいえる共鳴を含む音は、浅貴の声にはまだ届きはしなかった。なぜなら浅貴もまた、めざましい成長を遂げていたからだった。あたしの部屋に置かれた音楽を大量に聴いた浅貴は、その成分をひたすらに魅力として体現した。牡丹の蕾がぴしぴしと音を伴って咲くように匂いたつように、音が世界をめぐりながら支配した。美しいという当たり前の言葉で表すのもはばかられるような、春、夏、秋、冬、その季節のうつくしい結晶の一滴をちいさなグラスに入れて、カクテルにしたような大理石の模様を描く色の混じった歌声だった。


ついに五曲が完成した。二人で練習を重ねてゆく。そこにはただ二人だけの世界がある。弾いて、歌って、そして録音して、また演って、録音して。ひたすらに、白木から仏を削りだすように、それが白眉に至るまでひたむきに磨いてゆく。そして文化祭前夜祭。リハーサルの時が来た。


ステージを見る、PA、照明、部員たち。皆浅貴のほうを見て不思議そうな、そして怪訝な顔をしている。それはそうだ。だっていうなれば初めて見た上級生がいきなり文化祭に現れて今ここで、歌おうとしているのだから。ひとつ、ギターをかき鳴らして、あいさつをする。

「green plumです。どうぞよろしく」

浅貴は上から降り注ぐ光に、そっと目を閉じていた。あたしが前奏を弾き始めると、影の落ちた横顔を浅貴が一瞬じっと見つめたのを感じて、スタンドに据えられたマイクを左手できゅっと握り、顔に落ちた髪を乱すようにかき上げて歌いだした。一声。その瞬間に、息をのむ音がした。それは誰の音かはわからない。だけれども確実に空気は変わっていった。目に痛いほどにびかびかと光る黒髪が否応もなく目を引いて、あたしの腕を振るストロークにあわせてきらめく弦が、空間を飾った。ふつうライブというのがだれかが盛り上げる一環として声を上げる人がいるものだが、あたしたちの演奏に、途中声を上げるひとは、ひとりもいなかった。すべて弾き終わって、どうも、といって音が去ると、まだみんな呆然としていた。その人と人の間を縫って部長がこちらに小走りでやってくると、目に薄く涙をためてあたしと、浅貴の手を取った。

「最高だ、最高だよ。ねえ、浅貴さん、こういうことだったんだね」

何かにとても感動しているようにあたしたちの手を握りしめてよかった、よかった、と繰り返した。二人は何でそんなリアクションを取られたかよくわからなかったからうろたえてしまって、そうして部長を宥めて、背を手でこすったりしているうちに誰か一人が拍手をし始めた。それはさざ波が丸く広がるように伝播して、やがて大きな拍手の群れになった。合板の机を組んで作った急ごしらえのステージと、窓を覆う分厚い遮光カーテン。締め切った特別教室は、あたしたちの小さな戸惑いと、それを押し流す感動という情動の群れで埋め尽くされていた。


 本番は大成功だった。あたしたちはお客さんに大層受けて、リハーサルの時を大いに超える歓声が上がった。アンコール、なんて言われてもこれ以上用意する局なんてない。PA席を見ると部長がやれ! というジェスチャーをしていて、どうしようかな、なんて頭をひねっているところに、浅貴がこう、耳打ちした。

「ねえ、あれ、やらない?」

あれ。何だろう、と思ったが、すぐに思い至った。あたしと、浅貴の、出会いの曲。二人を繋いだ、思い出の。知らない人が大半だろうな、と思ったが、そんなこと気にすることもないな、と感じたから、構わず、弾き始めた。FLYING KIDSの、幸せであるように。最初観客たちも、いきなり曲調が変わったし、誰かの曲であるだろうけれども、なんだかわからないからどうしたらいいかわからなかったような表情をしている人もいたが、それをねじ伏せるのが、こちらの腕、というものだから、強引に演っているうちに、皆のってきて、最終的には、こぶしを突き上げたり、身体をゆらしたり、思い思いのノリ方をして、楽しそうにしていた。それも終わり、今度こそこのステージの最後を迎えると、あたしと浅貴はお互いの顔を見た。浅貴の切れ長で少し黒目がちの瞳に、小さな光が入って、きらきらと瞬いた。それに目を奪われそうになったけれど、ふっと前のお客さんたちに意識が戻って、二人でうなずくと、深々と、腰を曲げて礼をした。


 ステージを降り、舞台裏に引っ込む。浅貴はじっと黙っていた。パネルの張りあわされた穴の開いた天井をじいっと見つめて、また自分の靴先を見つめて。あたしがケースにギターをしまって、またジッパーを引っ張ろうとしたころ、ねえ、と声がかかった。

「わたし、音楽の専門学校、行こうと思っているの」

それは実質的な、誘いだった。浅貴はこの学校を卒業しても、音楽をやる決意を、すでにしている。そしてあたしに、その覚悟を試していた。あたしは少し、考えるふりをすることにした。ひとまずジッパーを閉じ、ギターケースを黙って背負って、そして目をそっと伏せた。下に向けられた視線がとらえた浅貴の手は小さく震えていて、この子にも覚悟があるのだ、と思った。だからあたしも返さなければいけない。

「いいよ」

今度はあたしが、そう返す番だった。浅貴はそれを聞いて、深く息を吐いて、よかった、と言った。その声が小さく震えているのを、あたしは見逃すことにしてあげた。


 

 

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はさみ あめやまあきら @akira-hibiki

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