第2話 摩かれた断絶

私の、私たちの娘、というのは少し変わった子でした。おなかにいるときから随分と腹がせり出していて、せり出した腹は男の子、なんていう話もあるくらいですから男の子かなあ、なんて思われていました。エコー検査の時も、この子は体をきゅっと背を向けて、こちらに性別がわからないようにしていましたから、本当に、こんな言い方は良くないですが、男か女か、いやどちらでも構わないけれど、とまるで五分五分のギャンブルのような状態で生まれてきたのでした。


私たちには、長らく子供ができませんでした。父や、母には子供はまだか、なんてせっつかれてもいましたが、私たちはこういうのは自然に任せるのが一番いいと前より夫婦の間で決めていましたので、特に何か専門の病院で治療をする、なんてことはありませんでした。そのようにして、いつか子供ができたらいいね、なんてすがるような、とは言いませんけれども、ゆったりとした願いを抱いて私たちは二人、暮らしてきたのでした。


結婚して五年、六年、七年がたち、時の流れは淡い色を帯びて流れてゆきました。ただまどろむような、清水をたたえた湖に時々花びらが落ちて、そのことに笑いあうような日々でした。今になっては、少し寂しくもある時です。


ある日から、私はよく体調を崩すようになりました。体が重かったり、少しふらついたり、時には吐いてしまったり、ソファに座っていても、世界が水の上にインクを落としたようにくるりと歪んでしまったかのような心地でした。これはおかしいと思ってはいたのです。けれども私たちは積極的にそのような行為に及んでいたわけでもありませんし、その可能性は見落とされていました。何せ、私たち夫婦はそのころには珍しいほどにある種プラトニックな夫婦関係にあったからです。ああでも、今みたいな時代においては、これも逆に、対して珍しいことでは、ないのかもしれませんね。


そうして、ついに観念して病院に行きました。私のぺったりとした、烏賊の胴のような腹に透明なもったりとしたジェルが塗りつけられ、医者が手に持った機械をそっと当てました。音のない振動がそっと私を探ってゆきます。そうすると、私の中にある、ちっぽけな内臓の中に、ひとつの、まだ私より別たれてさえいない体がありました。体の成りかけ、とでも言ったらよいのでしょうか。ぼんやりといまだ不定形な影を作るその肉の塊は、ただ、このありふれた女の、身体にありました。実感というものも、そこにはまだありはしなかったのです。


私のつわりは、きっとひどいものだったのでしょう。食べても食べても戻してしまって、それでも胎は出てくるものですから、私はどんどんとやせ細ってゆきました。はちきれるほどに腹が出ているのに、腕や足はぽっきりと折れてしまいそうなほど細く、私は見る人見る人に、それはそれは心配されたものです。うつぶせになることも、寝返りを打つこともできず、ベッドボードに背中を預けてただ乾ききった唇を湿らせていました。夫は私を心配して、しきりに大丈夫か、つらくないか、苦しくないか、無理はしないでくれ、と言いましたが、とうの本人と言えば、それは全く平気だったのです。分泌されるホルモンとは恐ろしいもので、私をこんな状況に追い込んでいる元凶のまだ生まれ出てさえない、名前もない子供が、無性に愛おしく感じられました。この期間は、かなり長く続きました。そしてそれが終わった後も、吐いて吐いて荒れ切ってしまった私の胃袋は、ろくに食べ物を受け入れてくれませんでした。ですのでやっとの思いで食べたもののエネルギーはすべて子供に行ってしまうのに、口に物を入れる事でさえもなかなかできない状態が続き、真っ青な顔にただぱつんぱつんの、臍の浮きあがった胎だけが、私の横たわるベッドルームで電気灯を消した暗い空間の中、月光を反射して、雪を薄く被った山々のように、夜に浮き上がっていました。それを血の気の引いた頬と、冬の椿の枝のような指で撫でさすり、見つめている私はさながら何かにとりつかれている様だったでしょう。


あの人、夫は、最初はなかなか実感のない様でした。当たり前のことです。生物学上の女、女性というのは、その肉体に子供を宿します。そしてそれを外界で生きてゆけるまでに育て上げるために、自らによって自らの肉体を思考ごと作り変えられたりもするのです。妊娠すれば、私が望むにせよ、望まないにせよ、身体は変化していきます。それはとある一つの方法を用いない限り、決して止められない肉体の変異です。そして私たちは、育ちかけた命を屠る、というその方法をとることは、ありませんでした。人というのは、自らの意思がそこにない変化、というものを恐れるものです。けれども、この変化、妊娠によって体が変わっていく、というのは不思議と、怖くはありませんでした。これが母になるということの、第一歩なのかもしれない、とエネルギーの足りない、わずかにすりガラスみたいにかすみがかった思考に、年月が経って消えかけた、羊皮紙に書かれた文字たちのようにノイズが混じりながら、思いました。


この子はよく腹を蹴る子でした。夫が私の腹に手を当てると、そこめがけて、ぽこぽこと蹴りました。時には私の内側を指でつねってみたりなんかして、そのたびに痛い痛いといったものでしたが、夫が腹をスイカのようにポン、と軽くたたくとそのいたずらはすぐに収まってしまって、この子はお父さんが好きなんだね、なんて二人で笑いあったりもしました。そのころからです。夫はまだ生まれてもいない娘なのか息子なのかを、精一杯育て、可愛がる覚悟ができたようでした。母になるのは、まだ体が変化したりですとか、そういう実感というものがありますから、まだ自然にできるものですが、父と子供というのは、極論他人であることもできるわけです。けれどもこの人は、私の夫は、きちんと、このまだ私から別たれてすらいない命の、父という存在になる決心がついたようでした。そういうところが、私がこの人を好きになったところなのかもしれません。


そうして十月十日と、それから数日が過ぎました。下着に血がついていたのを見つけて、そこからは長い、長い戦いが始まりました。一日経つか経たないか、そのころから陣痛が、ずずん、ずずんと重みをもった痛みとして、やってきました。それが一日ほどたったころ、体の中でぱしゃり、という音がしたように感じられました。そして体から、少しずつ何かが抜けだしていくような感覚がありました。破水、したのです。そこから腰の奥から体を突き刺すような痛みが走りました。それは少しずつ、階段を一歩一歩確実に上るようにエスカレートしてゆきました。顔をしかめる程度で済んでいたものが、次第に体をよじり、肺がつぶされた時のような、猫を思いきり抱き締めた時のような、細く、鋭く、本能を突き刺すような声が唸りを伴って喉から漏れました。その痛みが頂点に達し、内臓という内臓が石臼で轢きつぶされているような心地になったころ、子宮口が開きましたよ、という主治医の声が聞こえたような、気がしました。痛みのあまりに私の意識は薄い濡れたオブラートに包まれたように一層何かにへだてられた、どこか実感が失われたような心地でした。だから時間がどれほどに過ぎていたのか、よく覚えていません。そうして何時間か、それとも何日か過ぎて、ただ耳元で言われ続けるとおりに吸って、吸って、吐いてただそれを繰り返していると体のどこかがぱつん、と糸が切れたように裂けて、身体から時間をかけてゆっくりと、何かが抜けだしてゆきました。夫の、産まれた、産まれたよという声と、真っ黒にうっ血するほど握りしめた手と、そして血が引いて真っ白になった私の爪だけが、記憶に残っています。


かわいい女の子ですよ、と言われて、渡された私たちの娘は、泣きませんでした。死産と言う訳ではなく、真っ赤な薄い皮膚の中に埋もれた目を薄く開けて、一声、わたしは呼吸ができますよ、とばかりにはにゃ、と泣いてそれきり、すやすやと眠ってしまいました。大きな赤ん坊でした。痩せた私の腕にすべてを預けて、沈み込むように抱かれる娘の、目元は夫によく似ていました。私と、私の愛する人の交点が、この子なのだ、と思うと無性に、愛しく感じました。私は、母になりました。


娘にとって、ずいぶんと世界というものは良くも悪くも、初めての炭酸飲料のように刺激的なもののようでした。まぶしい光に泣き、ちょっとした物音に泣き、気に入らない感触の服に泣きました。特に娘にはほかの人には、それに大人には全く気にならない音に随分と敏感なようで、時々思いもよらないことが苦痛にもなりえる用でした。ぎゃあぎゃあと泣く自分の声は平気なのか、と思いつつももしかしたら、それで嫌な音も打ち消していたのかもしれません。ときどき、娘は耳に自分の手を当てては、その血流を聞くようにして泣き疲れて眠っていました。私たちには、そうして眠る娘の顔が赤子に似合わず疲れて見えて、それを思いやることが精一杯でした。


暗くて静かなところでないと娘は眠ることができませんでした。私たち両親の寝息や身じろぎもこの子にとっては安らかな眠りの妨げにしかならず、娘はつきっきりでいなければならない最初の数か月を過ぎると、もう子供部屋のベッドで一人、眠るようになりました。子供というものは寂しがるものではないか、などと思うものですが、私たちの娘は、風に揺れるカーテンや、天井からつるされたおもちゃなんかがくるくると回るのを見ていれば、誰かがあやすことなんてなくても、随分と上機嫌でいました。手がかからないのは産後に疲弊した私には助かりましたが、本当にこれでいいのだろうか、という漠然とした不安感が私にはこれからずっと、現在に至るまで付きまとっていました。


一歳になり、二歳になり、自我が芽生えるとともに、ただでさえ極彩色に映っていた世界はよりコントラストを増して、娘は成長していったのでしょう。娘は私たちにわがままを言うとかそういう以前に、自分自身の感覚に、大いに苦しめられていました。まぶしくて外に出られないからサングラスをかけ、意識を少しでもそらすために幼児用のイヤホンをつけて、いつでも音楽を聴いていました。その当時はまだ幼い子供のためのイヤホン、ヘッドホンというものはなかなかなく、耳の型を取って特注でイヤホンをしつらえました。そうするととても楽になったようで、いつでもどこでも音楽プレイヤーとイヤホンをもって外出するようになりました。耳の発達にいいことではありませんから、一日三時間、つらいところでだけつけなさい、と言い聞かせ娘に与えました。最初は戸惑いがあったようでしたが、きっとそれは、娘にとっての救いにもなりえたのだと思います。


そのころから、私たちは娘を保育園に通わせるようになりました。前からこの子はお友達と、と言って公園に連れて行っても誰とも遊ばずに、ただ一人で砂をいじってばかりいるようなことをしていました。これは良くない、と思いました。そもそもが私も人間関係、というものが得意なわけではありませんが、それでも社会、という群体の中で生きていくには最低限のコミュニケーションというものは取れなければなりません。そうしなければ、娘が苦闘するのだ、と思いました。そのころ娘は何とかサングラスとイヤホンがなくても、生活というものができるようになっていました。その分保育園から家へと帰ってくると、随分と疲れた顔つきをしていましたが、そうでもしなければこの子は生きてゆけないのだから、と唇をかみしめるような気持で、娘を見守っていました。ただ、疲れるもののいざ通わせてみると保育園というものはこの子の気に入ったようでした。祖母の部屋によく駆け込んでは、楽しげに、語りかけていました。


私の家には年老いた祖母が共に暮らしていました。腰を悪くして、一時は寝たきり寸前まで行きましたが、ひ孫の顔を見てそれはそれは喜びました。体のよくない私に代わり、大分活動的になった娘の子守を、祖母は一手に買ってくれました。今思えば、娘と共にいた、ということが、祖母への何よりの孝行になったのかもしれません。そうして、娘が保育園を卒業して、小学校に上がるころ、祖母は亡くなりました。祖母はいつも私に、娘が幸せになるようにしてやってくれ、と言いました。


祖母の葬式が終わってから数か月した後、娘は寂しそうにしていましたが、元来ひとり遊びが得意な子でしたから、家に帰ってきてからは、よく一人で絵を描いたり、本を読んだり、音楽を聴いたり、それに切り絵なんかをして遊んでいました。そうして、目を離していた私が、いけなかったのです。子供部屋から、娘はあまり騒がない子でしたから随分とめずらしく、ああっ、と何か焦ったような声がしました。何かあったのか、と急いで向かうと、娘がぽかん、と口を開けて鋏を持ったまま膝を内側に曲げて開くようにして座っていました。手には切りかけの紙が握られて、それには血が滲み、足元にはまだ閉じられていない、鋭い刃先のある鋏と、娘の細く、光に当てるとほんの少し、赤く光るような髪の束が、落ちていました。ふっと娘の頭を見ると、顎先の少し下、首筋をかすめるように顔の横の毛がばっさり、と裁ちきられていて、さあっ、と私の顔の血の気が引く音がした、ような気がしました。そこからの記憶は、おぼろげです。気づくと娘の顔には赤い跡があり、少し、怯えたような、何が起きているのかわかっていないような目つきで私のことを、下から掬い上げるように、見ていました。ふっと手を見れば、そこには娘の髪が握られていて、私の頬は幾筋か濡れていました。私は、何か娘に深い傷をつけてしまったような、そんな気配がして、そのことを忘れられずにいます。


娘は小学校に上がりました。先生が言うことには、娘は学校では物静か、な子なのだそうです。積極的にコミュニケーションをとろうとはせず、ただひたすらに受け身で、言われたことにただイエスとノーばかりを返す。そんな感じでいたのだそうです。連絡帳にはそういう子もいますから、とはありましたが、私には娘が、何かを閉じてしまったような、あまりよくない気配を感じていました。そのころから、娘が何か不思議な、ただそこにいるだけで空間が歪むような、万華鏡のような眼力を持つようになりました。それに比例して娘の髪は緑を覚えて、夏の日差しのなお暗い影のように色味を深めていきました。それが、少し、怖くもあったのです。あの子は、ことあるごとに髪を触る癖がありました。枝毛をさがしてはぷつぷつとちぎったり、手櫛で髪をすいたりなんかして、毛が抜けては床に落ちていました。私たちは無理にこの子の髪を触る癖を直そうとは思いませんでしたが、せめてきれいに保てるように、と一枚の木の櫛を、娘に渡しました。髪を大切になさいね、と。それも、きっと娘にとっていいことだと信じていましたが、もしかしたらそうではなかったのかもしれません。


娘はいつも一人でいました。きっとそれが本人の性に合っていたのでしょう。けれども生きていくには人間という存在と関係を築くことは避けられないことです。だから私たちは無理を承知で、娘にお友達を作りなさい、と言いました。そうすると、娘は数日していつも一人で帰っているところ、別の子と一緒に帰ってくるようになりました。小さく笑ってまたね、とその子に返して、家に帰ってくると、いつも黙って部屋に帰っていました。それから一か月ほど経ってまた別の子と、そしてまた別の子と、と次々に一緒に帰ってくる子は変わりました。あの子はどうしたの、と聞くと、何でもないよ、とだけ娘は返しました。あの頃の娘に、果たして友達と呼べる存在が本当にいたのだろうか、と考えると今もよくわからなくなります。ただ私たちに言われることを、怒られないようにこなしていく、そのことに目が曇ってしまっているような、そういうふうにも見えたのです。けれども私たちが何か言ったところでそれを守って生きていこうとする、解放されようと躍起になるだけの生き方をするだけになってしまうことを、私は、恐れてしまいました。それはいわば逃げであったでしょう。


そうして娘は四年生、言わば高学年になりました。私も体験したことではありますが、第二次性徴を経ると人間、というものは自分の意思に関係なく、否応もなく変化していく、させられていくものです。娘の放つどこか他人と隔絶した冷たさまではらんだような雰囲気は、魅力としての面を開花させたようでした。言い方は良くないですが、娘はまさに石中の玉、ひときわきらめき、それに自らの目も焼かれているような状態でさえありました。そうしていると、娘の周りには花に蝶が引き寄せられていくように、自然に人が集まってくるようになりました。それが娘にとって幸せなのかそうでないのかは私に判断できることではありませんが、確かに私は安心、してしまったのでした。ただ、娘が周りの人間に、笑いかける顔が、あまりにも透明に見えて、本当に笑顔というものを作っているのか、泣いているのか、それとも苦しんでいるのか、それは親である私にでさえも、そして誰にもわかりはしませんでした。きっとそれを隠し通すことばかり、娘はうまくなっていったのでしょう。そしてその責任は、私にこそあります。


娘はまさにアイドル、でした。それは偶像という意味としてのです。私たちは娘に多くの期待をしすぎてはいけない、それは娘を苦しめることだから、と思うようにはしていましたが、きっとそれではいけなかったのです。娘はきっと聡い子でしたから、他人が望む自分の姿、というものをわかっていたのでしょう。だからいつでもやさしく、美しく、しとやかに振舞いました。そのような金型に、まだ若く、塑性のある粘土のような自己を填め込むことを、自らに良しとしたのです。けれどもその中身、というものをだれにも開示することはありませんでした。私たち親に対してもです。娘は知っていました。親というものは極論血がつながっているだけの他人です。だからこそ何にも包まれていない自我というものの、その片鱗さえも誰にも手渡したりはしませんでした。


中学に入ると、娘はますます孤立していきました。あこがれというのは理解より最も遠い感情だと言います。それはまさにその通りでした。それが正の感情であれ、負の感情であれ娘に対して正常な共感という感情は向けられることはありませんでした。というよりは娘自身が、拒否していたのではないか、と思います。娘は人に囲まれてはいましたが、ひとりであること、孤独であることが苦になることはないようでしたから。


家に帰っても、娘は学校でのことをあまり話そうとはしませんでした。もともと口数の多い子ではないとはいえ、どうだったの、と聞いても別に、いつも通りだよ、と返すだけでその内訳を話すことはありませんでした。実のところを言えば、私たち家族は決して仲が悪いわけではなかったのです。家族そろって本は好きでしたし、娘はよく今日読んだ本の感想を聞かせてくれました。家族の共通言語、というものが本だったのかもしれません。この子は何処か静謐な雰囲気のする見た目に合っているのか合っていないのか、本当に何でも本を読みました。児童文学、ファンタジー、詩、それからコメディやハードボイルドまで。ここが面白くて、ここの書き方がすごくて、とそれを私たちに話すときの娘は、どこか年相応な雰囲気がありました。そうして家族の数少ない交流の場の夕ご飯を食べて本を抱え、部屋のドアが閉められると、そこからはいつも音楽が漏れ聞こえていました。今思えば、娘の安らぎには、いつでも音楽が、寄り添っていたのでしょう。


娘は高校に上がりました。幸いと言うべきか、勉強で困ったことは一度もなく、すんなりと坂の上にある地元で一番頭のいいところに行くことができたのでした。そうしているとどこか娘の顔色がよくなり、随分と楽しげな様子でした。ある時、この子のポケットから何かが落ちて、落ちたよ、と拾ったことがありました。それは青い、変わった包み紙の、飴のようでした。見たことのない飴だったのでこれどうしたの、と聞くと、娘はやわらかく、少しうれしそうに笑って、友達にもらったの、と言いました。私はそれに少し安心しました。あとで調べてみると、それはとても声に効く、というのど飴でした。私たちは、娘の意思を見逃していたのです。


三年になったころでした。娘はいやに静かにしていました。そうしてダイニングテーブルの上に載せられたおかずが半分くらいになったころ、この子は口に含んでいたものをゆっくりと飲み込み、少しうつむいて数秒黙った後、何かを決意していたようにゆっくりと口を開きました。娘には娘の、何か私たちにはあずかり知らない心の機微や、思考の変化があったはずで、ただそれを私たちに見せていなかっただけなのだ、と思いました。娘は、歌手になりたい、と言いました。私たちにとってはそれはとても驚くべきことで、その場では私も、夫も何も言葉を返すことができませんでした。この子はそれを否定と受け取ったようで、ただそれの決意は揺るがないということだけを私たちに告げて、また部屋へと戻っていきました。娘の部屋には鍵がありません。だから娘を追いかけて話を聞くということもできたのです。けれどそれはしませんでした。できなかったのだと思います。それを娘は、拒絶だととったようでした。娘は私たちの前でほとんど喋らなくなりました。けれど、私たち夫婦、親にとって、それは好都合ともいえたのです。


娘は今の今までほとんど、反抗というものをしませんでした。こうしたほうがいい、と言えばはいと言い、ただ黙ってこなしました。本人にとってこの世界というものが随分と攻撃的に映っているのは薄々察してはいましたから、それを何とか飲み込んで、生きていくために反抗なんてしている余裕はなかったのだと思います。そんな娘が、初めてわたしはこうしたい、と言いました。それは正直なことを言えば、とてもうれしいことだったのです。随分と遅い反抗期ではありましたが、娘がいつか自分の力だけで歩いていくための重要な、第一歩となる予感がしていました。


だから、私たちは娘と、喧嘩をすることにしたのです。娘が部屋に閉じこもった後、夫と二人で話をしました。私はあまり取り繕って話をするのが得意なタチではありませんし、矢面に立つのは、夫がやってくれることになりました。何か娘と話をするときには、いつも夫が前にいてくれます。理論立ててわかりやすい話をする人ですし、なにより、私は厳しいことをたとえふりとしても言うのがあまり得意ではありませんでした。それは私の欠点だと思います。ごめんなさい、と夫に言うと、そういうやさしいところが君のいいところさ、気に病むことはない、と言いました。私たちは今から娘を、もしかしたら深く傷つけます。けれども後悔はしません。してはいけないのです。私の血と肉を分けて生まれてきた娘と、他者となる痛みを味わうのは、親として必ずしなければならないことだと、よく私たちはわかっていました。


けれども、娘からあからさまに敵対された態度をとるのは正直なところ、つらいものでした。ご飯はしっかりと食べてはくれますが、それ以外の、家族団欒の場、と言うべき時間は絶対に部屋から出てきませんでした。夕食の終わりに夫に呼び止められて二、三言、ただ確定された水晶の混じりっ気のない結晶のような、静かで、冷たく、ただそこにある純粋な敵意の表出だけが、交わされていました。娘は夫と表面上は荒立てられていない言い争いをした後、意識的か無意識的にかはわかりませんが、髪をそっと触りました。そのころには、娘の髪は、腰のところまで、長く、美しく、夜空と月の狭間を切り取りでもしたかのように輝いていました。それがとても、重そうに見えたのです。娘には見せませんでしたが、夫は確実に疲弊していましたし、元来体の強くない私の体調も、よくはありませんでした。その生活を一か月ほど、続けたでしょうか。娘がどこか、もう戻れないことを知ってしまったような色を瞳に抱えて、帰ってきました。私は、この仕掛けられた戦いの終わりは、もう近いのだと悟りました。


その日は突然来ました。夫と話をして、攻勢をかけてみよう、という話になったのです。ただの、普通の日でした。外はしとしとと雨が降っていて、帰ってきた娘のタイツには跳ね返った水滴の跡があり、ローファーの下のほうはアスファルトの上を覆う薄い泥がついていました。その日の夕食はまさにどぶのような色をした空気の中にありました。もはや娘は夫の言葉に耳を貸す気もなく、さっさとご飯を食べたあとそそくさと階段を上がって自分の部屋にこもりました。そこからは何か、弦楽器の弦を乱暴に引いた音のような、声のようなものが響いて、それがきっとこの子のためになる、と信じるほかありませんでした。


いきなり音を立てて乱暴に、娘の部屋のドアが開かれました。今までにないような勢いで階段を駆け下りると、そのまま一直線に玄関を開け、外は雨だというのに駆け出すように外へと出ていきました。普段はこのようなふるまいをする子ではありませんから、娘の中で、何か海月のようにふよふよと漂っていた種、要素たちが、化学反応のようなものを、きっと起こしたのだろう、と思いました。あの子は引っ込み思案、とは言いませんがどこか自分のことを信じられていないような雰囲気がありました。何をするにも試し試しで、そこには他人の意思がなければ動くことはありませんでした。そんな娘が、私たちに何も言わずに走ってさえ、何かを求めるように出ていった、ということ。私たちにはこの苦しい戦いが、きっと成功に終わる、ということが、うっすらと見えました。


娘は二時間ほど帰ってきませんでした。その間、私たちはちいさな、祝杯を挙げました。なんてことはない、ワイン一杯をゆっくりと、なめるように飲むだけですが、もともとお酒に強くない私の意識が、ゆっくりとほどけていって、涙が一粒、こぼれました。ふと夫の顔を見ると、切れ長の目の下にうっすらとした隈ができていて、随分と無理をさせてしまったな、と思いました。けれどもそれももう終わりです。私たちは、久しぶりの、抱擁を交わしました。私の背を抱く夫の掌が、ひんやりとしていて、外の雨が窓に当たっていました。それを見ているのが、少し寂しくもあり、不定形のなにか形の定まらない感情が、体の中を駆け巡っていました。喪失感、がいずれやってくるのをただ見守っていることしか、もはや私たちに許されることは、ないのかもしれません。


外から野良猫の鳴き声がにゃあ、としました。ただ生きているだけで時は進んでいきます。それを残酷と取るか、救いと取るかはただ個人の偏って歪んだ視点でしかありません。私たちが娘に与えた苦しみもただの自己満足にしかならない、ということも当たり前のように存在しています。けれどもここにある限り何かしらの選択肢はつかみ取らなければ、なりません。そして選ばれなかった選択肢はただ省みることさえ許されないのです。私たちは、娘に残酷さを見せなければ、いけませんでした。


娘が帰ってきました。びしょびしょに濡れたまま、何かを抱えていたようでしたが、それの正体は、わかりませんでした。ただ私に言えることは、聞こえなくても聞こえてもいいからおかえりなさい、と娘に言ってあげることと、明日の朝ごはんの支度をすることだけでした。


朝になりました。私は朝ごはんをテーブルの上に並べて、ご飯よ、と努めて明るく言いました。まず夫がのそのそと置きだしてきて、眠そうに眼をこすりながら、おはよう、といました。いつもなら娘が先に置きだしてくるのですが、今日くらいはいいかな、と思ってあえてそのことをどうこう言うのはなしにしよう、と思いました。いつも娘に厳しく当たっているつもりはありませんが、この変わったところのある娘を、何とかして一般社会、というところで暮らしていけるようにするには、恥をかかせないようにするには、マナーやモラル観というものはいわゆる普通の子よりも厳しくしなければなりませんでした。幸いか多少理屈っぽいところのある子でしたから、淡々と機械を一から組み上げるように話をしてやるときちんと理解してくれました。それが正解かは私が判断出来ることではありませんが、その時に私たちが取れた手段というものは、それしかなかったのです。それはほとんど任せてしまっていたので、夫には申し訳のないことをしたと、思います。


娘の起きだしてくる音がしました。おはよう、と声をかけてそちらのほうを向くと、娘の髪が、短くなっていました。腰ほどまであった髪はばっさりと肩口ほどの長さで切られていました。自分で切ったのか、その切り口は決してきれいなものではありませんでしたが、私が本当に驚いたのはそんなところではありませんでした。娘の表情です。長い髪の陰に隠れていたからなのかいつも藍色の光を宿していた瞳には、確かに新緑の季節にふさわしい明るく、彩度の高い色がありました。ひんやりと冷えて、温度もないように見えた頬は桜色に染まり、赤い唇はより赤く、つややかに見えました。娘は何かから、確かに解放されたのだと思いました。それは自分自身であり、そして私たちを含む周りのなにかからの、呪縛なのだと思います。娘は何処かやってやったぞ、と誇らしげに、おはよう、と言いました。私はしばらく驚いてしまって何も言うことができませんでしたが、それに返すように、おはよう、と言いました。思わず笑みがこぼれて、可愛いじゃない、というと娘はその反応がとても意外だったようで、まるで鳩が豆鉄砲食ったような、ぽかんとした、どこか今までの娘らしくない、純粋な子供じみた表情をしていました。それを見て、さらに笑いがあふれてしまって、それが場に響きました。まだ状況のうまく理解できない様子の娘の頭を、立ち上がっていた夫がそっと撫でて、よく似合うよ、と言いました。その眼には薄い涙がにじんでいて、喜びが隠せていない様子でした。でも、その髪じゃ学校にはいけないわ、美容室で整えてもらわなきゃ、と言って夫に目配せをすると、夫はうんとうなずいて今日は休みなさい、と言いました。それをひたすら聞いていた娘はひそかな、細い声で怒らないの?と恐る恐る聞きました。私たちのことをなんだと思っていたのだろう、この子、と思いつつも怒らないよ、びっくりはしたけれどね、と言いました。娘はそれでなんだか気が抜けてしまったようで、すこしよろめきながら自分の席に座ると朝ご飯を食べ始めました。


その日は娘も、夫も休んで、まず美容院に行った後、家族そろって買い物をしたり、ご飯を食べたりしました。夫は随分と仕事ができましたから、あまり休むということもなく、これが随分と久しぶりの家族で遊ぶ、ということでした。娘は随分とおしゃれに整えられた髪のその切り口を落ち着かないように指でときどきいじりながら、なんだか恥ずかしそうに家族水いらずの時を過ごしていました。考えてしまえば、私たちも、娘も肩肘張りすぎていたのかもしれません。久しぶりに、十七歳の女の子らしくはしゃいでいる娘を、見たような気がします。いや、本当は娘もただの年相応の、女の子だったのかもしれません。それを私たち含めて周りの人間が、何か理想に当てはめようとしていて、娘もそれに対して、もしかしたらつらかったのかもしれないと思いました。そう考えると、実は娘は随分と苦しい思いをしていたし、またさせていたのだと思いました。


家に帰った後、私は娘に歌、聴かせてよ、と言いました。私も夫もただ娘が苦労しないように、祖母の遺言を守るためにただ必死でしたから、娘が何か歌聴いてよ、とか言ってもそれをきちんと、心を込めて聞いてあげたことが、本当はないのではないか、と思いました。私たちは本当に必死でした。だからこそ、至らないことが、本当に多かったのだと感じました。


娘は少し黙って、恥ずかしそうにうん、というと口を開きました。音が空間に染み渡っていきます。親ですから、どうしても贔屓目に見てしまいますが、この子の歌には確かに力がある、と思いました。最初は音が苦しくて聞き始めた音楽が、こんなふうに開花するなんて思いませんでした。救いはあるのだと、どこかこの子を育てることに不安が付きまとっていた私たちに対して、娘の歌という存在が報いを返してくれているような気がしました。そうすると音がやみました。歌い終わった娘が不安そうにこちらを見ています。私たちがそっと近づいて、私が娘を抱きしめ、それを夫が抱きしめると娘は一言だけ、よかった、といって静かに泣きました。私の白いブラウスが娘の涙で、濡れていました。


確かな言葉をそこから交わすことはありませんでした。ただどこか不健全な形が何とかバランスを保っていた私たち家族が、これでやっと正常な形になったのだ、と思いました。


リビングのドアが開きます。娘がおはよう、というと、私と夫もおはよう、と返します。少し恥ずかしげにスカートを握ったりなんかして、早足で席に着くと朝ご飯を食べて、バッグをもって、やわらかくはにかんで、言ってきます、と言います。重い玄関のドアが閉じられる音を、ずっと、かみしめるように、聞いていました。

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