はさみ
あめやまあきら
第1話 擦れの狭間
うるさいのは嫌いだ。人の喋り声に囲まれているのもわたし、本当は嫌いだ。だから、今みたいに、音が蠅の群れみたいにわんわんと道を埋め尽くしているのも、吐き気がしそうだった。校門の前から延びる一本道、スカートを短くした学生たちが楽しそうに歩いていく。重たい靄が体の中で渦を巻いているような気がして、指先一つ一つに意識を巡らせて動かそうとしなければならないほどに、身体が、心が、すべてが重かった。人混み、人の群れ、人の河。その中にいるのが、なんだか今日はどうしても嫌で、そこを通って帰りたくなかったのだと、そんなわがままを言いたかった。
駅へと続く大通りから一本内側に入った裏通り、なんとなくそこを歩いて帰っていた。コンクリート造りの建物が並んだ細い問屋街。もう五月だというのにアスファルトはつめたく冷えていて、ローファーの底が軋んだ。上を見ると空は青い。雲一つなく晴れているのに、ここには光が入ってこなくて、少し暗いのだ。灰色の影を重ねた自分の手をそっと見ていると、波打っていた霧がふっと平らかになって凪ぐようになんだか落ち着いた。ここは人通りが少ない。一人歩いていても、誰ともすれ違わない。だから、わたしのまなざしが少しくらい濁っていても、誰一人心配したりはしない。そのことが少し、うれしかった。お父さんが寄り道せずに早く帰ってきなさい、と言っていたのを思い起こして足を少し早める。
ふんふん、と人の少ない通りを鼻歌なんか歌いながら歩く。突き当り、角を曲がるとそこには一軒の金物屋があった。揃いのコンクリート造りの建物に、軽く錆びた看板がかかり、硝子張りの店の大窓には、少し曇ったショーケースが置かれていた。普段は何も気にせず通り過ぎてしまうところ、今日は何だかその金物屋から目が離せなかった。ショーケースの中に、一挺の裁ちばさみがあった。それは立派な裁ちばさみで、曇った硝子越しにも、存在感を誇るがごとく、ぎらぎらと目に痛いほどに輝き主張していた。鋼でできた、重そうなはさみだった。店には包丁とか、鉈とか、鎌とか、挙句の果てにはチェーンソーまであって、そのどれもこれもがびかびかと磨かれているのに、なぜだかこのはさみからは目が離せなかった。最初に目にした姿勢のまま固まって二、三分いると、ぎ、と硝子の戸が開いた。その音にびくり、としてそちらを見ると、六十から七十代らしい、おそらくは店主と思われる男の人だった。はしばみ色の目の、総白髪で、目に柔らかな光のある人だった。その老人は厚い眼鏡の真鍮の弦をつまみ、丸い鼻に軽く直すとわたしをすっと頭から足まで見て、一瞬何か考えるようなそぶりをしてやさしげににっこり笑うと
「どうかしましたか」と言った。
見つかってしまった。わたしは恥ずかしいのか何なのか、らしくもなくどもりながらあちらこちらをきょろきょろと見まわし、きっちりとひざ下にしてある紺色のスカートを用もなくほこりを払うようにぱんぱんと叩いた。
「な、なんでもありません」
言葉は尻すぼみに音量が下がりながら小さくなった。そうして少し下を向くと、数秒どうしたらいいかわからなくなって靴を見つめるように心がけながらそのまま止まり、そのあと少し乱暴に礼をして、小走りでその場を去った。髪が乱れて、目にかかっていたが、それを直そうとかそういうところにも気が回らなかった。
ふとした時、たとえば学校に向かうときとか、授業中にあくびをしてしまったとき、お風呂に浸かっている時に事あるごとにあの裁ちばさみが心のなかに浮かんだ。何か切りたいもの、裁ちたいものでもあるのか、それとも切らなければならないものがどこかにあるのかはわからなかったけれど、わたしの頭の中にぷかぷかと浮かぶこの灰色のごま豆腐みたいなものは、しきりにあのはさみのことを考えていた。ただ、その重みを知ってみたかった。わたしのこの掌にあの鉄の塊が沈み込む感触をただ、感じてみたかった。青い鋼の、研がれた温度が網膜に焼き付いていた。
家に帰って、陽が昇り、また沈み、ただ食事をして、その繰り返しが何回か過ぎた。わたしは弁当を周りの人と一緒にぽつり、ぽつりと喋りながら食べていた。三限が過ぎた後の昼休み。外は少し遅い春で、薄い窓硝子から桃色の光が射していた。木張りの少しぼこぼことした、ワックスで少しぬるついた教室の床を上靴で軽く擦りながら、何人かが集まっていた。合板の机をくっつけ、広げられた弁当たちを突っつきながら、おいしそう、とかそれ一個ちょうだい、とか言いながら食べていく。わたしはとりあえずつじつまの合うように話を合わせて、あはは、なんて言ってみたりして、やり過ごすように時計の針は進んでいた。
頭の中で流れる、少し昔の、わたしの好きな曲。それをぼおっと追ってそれとなく空間を頭の中で通り過ぎさせていると、何気なく、友人、と言っていいのだろうか。その一人がわたしに話しかけた。
「ねえ、」
意識をさっと現実に戻して、何、どうしたの、と努めて明るく返すとわたしのほうを薄く化粧した顔できらきらと見ながら、少し上ずった声で頭を指さした。
「髪、すごくきれいだね」
うらやましいなあ、ケア何使ってるの、と続けると、その子は自分の髪をひと房指でつまみながら、あたしこんな癖っ毛なんだもの、と言った。それはまるでおしゃれなパーマでもあてたみたいにくるくるで、光が当たると薄く茶色に透けた。顎先できれいに切りそろえられた彼女の髪が少し開いた窓からやってくる風に揺れていた。わたしは素直に喜んで、「ありがとう」ということができなかった。
腰まである、真っ黒でまっすぐな髪。軽くかきあげればさらさらと落ちてくる。耳にかけても目の前に落ちてきて、うざったかった。つやつやと光る髪は、皆よく褒めた。親も、友人も、周りの人も、しきりにきれいね、羨ましい、ほれぼれする、なんて言っていた。その言葉が、この髪が、わたしの身体にまとわりついてくるような心地がしていた。まるで、逃れられない運命みたいに、縛られて、いるような。
そんなものは絶対的なものじゃない、と人はたぶん、言うだろう。けれども運命というものはただ一本線のようにつながっているものではなく、多くの要素が座標と方向性を得て、ただ焦点として表へとあらわれるもの、これを運命と呼ぶ。だからこそ、それからは、逃れることはできない。運命とは過程ではなくただ結果であるからだ。だからわたしがきっと、この髪に、縛られていることも、逃れられることじゃない。そんなことを考えていると、ずっしりとした流れに頭が引っ張られてしまったのか、くらくらとした。少し下を向いて、額を押さえると、また髪がさら、と落ちた。
「どうかした? 大丈夫?」
あの子がわたしに心配げに聞いた。いつもおしゃれでかわいいあの子。スカートは短くなんかして、髪はくるくるしてふわふわで、いつだって薄く化粧をしてるあの子。今だって唇には薄くオレンジのリップが引かれている。わたしは実のところ、羨ましかったのだ。あの子は自由の象徴みたいで、いつも輝いている。またうつむいて唇をかむと、重い、真っ黒なやたらと艶光りする髪が落ちてくる。これ以上変な動きをしたら様子がおかしいと思われるから、すっと前を向いて、努めてにっこり、と笑った。
「ううん、なんでもないよ」
そういってまた目の前の弁当を食べ始めた。こんなこと慣れている。いつものことだから今更何にも気にしなかったけれど、やはり心のどこかにずっしりとしたわだかまりがあって、それが胸元の、喉の奥に引っかかっていた。また音楽のことでも考えていれば気がまぎれるのかな、なんて思ったけれどなぜだか曲の一つも頭の中には流れてくれなかった。
そういえば。小さいころ、大体幼稚園児くらいの、五歳か四歳のころ、切り絵遊びをしていた。紙を切っている時に、垂れていた髪が、ばっつりと切れてしまったことがあった。わたし自身もびっくりしてしまって、思わず大きい声が出た。わあ、と叫ぶと、隣の部屋にいた母親がすっ飛んできて、右、左と部屋を見回すと、固まったわたしと、その手に握られた先の丸いはさみと、耳の横のひと房だけ短くなった髪の毛が目に留まったらしい。さっと顔が白くなって、赤くなったかと思うと、鼓膜が破れるかと思うような、耳をつんざく勢いのとんでもない剣幕で叱られた。頬を赤くなるまで張られて、ひとしきり、気が済むまで怒鳴られた後、床に散らばった髪の残骸を拾い集め、わなわなと見つめた後、手に握りしめて泣いていた。母にとってわたしの髪の何がそんなに重要だったのかわからないけれど、母にとってわたしの黒く長く美しい髪というものは何かとても重要な意味を持っていて、そしてそれをわたしに教えてくれることはなかった。
母はきっとわたしを愛してくれているから、刃物が顔の周りに触れたことや、それに伴うなんて危ないことをしたのか、という心配の気持ちも多分にあったのだと思うのだけれど、おかあさんはわたしよりわたしの、この髪の毛が大事なのかなあ、とぼんやりと、思ってしまって、その小さな裏切りのような気持が、今も頭の片隅から離れないでいる。父も、母も、髪を大事にしなさい、とわたしにしきりに言い聞かせる。それが愛なのか、独占欲なのか、思いやりなのか、わたしには今も分からないでいる。只言うとおり、髪を梳いていると、すこし、お父さんとお母さんが、何に対してかもわからないのに、許してくれる気がした。
ポケットからのど飴を取り出して、包装を剝く。茶色い、すこし日が経っていたからか表面が融けて。また固まって曇っていた。それを口に放り込むと、薄皮一枚くらいが歯が入る硬さになっていて、それを奥歯の角でかろかろ、とこそぎ取った。決しておいしいものじゃない。何ならハーブ、というよりは生薬の味がして、食べづらいようなものだったけれど、これを口に入れていると不思議と落ち着いた。とあるときインターネットを見ていて、そこで喉に、というより声に一番効くのど飴がこれ、と書いてあった。だからそこには確かな安心があるような気がしたし、不安をかき消してくれるような気もした。それにすがるように舌で飴の表面を擦っていると、わずかに含まれた気泡がざらざらとして、それでもかまわず舐めていたら平らな形に溶けた切っ先が、舌先を切った。口の中に鉄の匂いと、甘さの混じったわずかに塩のような苦いような味がして、唾液が口内にたまった。それを舌にくぼみを作ってその中に溜め、ごくり、と飲み下すと最後に残った小さな練られた糖の欠片を、前歯の先でぱしり、と噛み砕いた。歯の根がわずかに沈んで、きし、と鳴った。鼻の奥から薄荷のような薬じみた匂いが抜けて、一つ、瞬きをした。ときどき、すべて壊してしまいたくなる。本当にときどき。包装紙をポケットに突っ込む。そこには何もない。
かつかつと、靴音が響く。薄青いリノリウムの廊下を、歩く体がある。影が長く、斜めに伸びて、きいん、こおんと放課後を知らせるチャイムが鳴った。ただ足は前に進むことだけを目的として、つるつると滑る床を蹴り続けている。紺色のスカートのすそは、何一つ揺れない。ただ何かを急ぐ胸元はかすかにわかるほど上下し、けれど呼吸は乱れてすらいなかった。そこには何かに焦りさえ覚える目的だけがあり、体はただそれについていくだけだ。精神があって体があるのか、体があって精神があるのか、どちらを魂と呼ぶのか、に関しては、今言うべきことでも、考えるべきことでもないだろう。
わたしはただ、何も考えず、いや考えることを拒否して歩いていた。分けられた前髪の奥に、小さく細い鼻と少し厚めのくちびる、切れ長の髪と揃いの黒々とした目があった。白い肌に赤い唇がぽつん、と浮かび、それをきゅっと噛むように閉じていた。目はまっすぐ前を向いていたが、その焦点はどこにも合っていなかったし、合わせる気もなかった。見えることには、人間解剖学上は見えているのだけれども、何も意識上の視界の中には映っていなかった。そこに何も音という震えはなく、ただ頭の中には言葉にも、形象をも取っていない思考があった。雲のある日だった。灰色の、色の薄れた光が長く、ふさふさと目の淵を囲むまつ毛に乗っていた。その淡い反射は、意識して感情を表に出さず、薄い皮膚の中に閉じ込めたわたしの顔を、どこか悲しげに見せただろう。腰元で切りそろえられた重みのあるつややかな髪が、一歩、また一歩進むたびにさら、さらと揺れた。その日は風がなかった。だから世界はまるで止まっているようで、足を出す動きと髪の揺れ、そして時々上下してわずかに空気をつぶす瞼以外の、動くものは見えなかった。ただそこに、あきらめという言葉だけが、そっと佇んでいるようだった。そしてそれを読み取ることさえ、誰にも許したく、なかった。そこにはただ、硬質な断絶があった。
階段を、黒いタイツを履いた、ほっそりとした足が一段一段、登っていく。ぴん、と緩くS字を描く背がブレザーに隠れ、ワイヤーの入った硝子から落ちる日に照らされて、影を描いていた。一番上にたどり着くと、そこには金属製の、薄い扉がある。建付けの悪いそのドアノブを両手で浮かんで、ぎいと押し開けると、緑色の塗装がされた、所々ぼこぼこしたコンクリートの屋上があった。この学校は昨今の安全、とか非行防止に、とかよく叫ばれているのには珍しく、屋上への出入りができる。もちろん高いフェンスが周りを囲んではいるけれど、高い建物が少ないこの町で、ひときわまわりを見渡せるこの場所が、わたしは好きだった。そこの周りはヒマラヤスギの並木と、プレハブ造りの図書館だったから、放課後に人はほとんどいなかった。それに離れ校舎になんてこの時間に来るような奇特な人はほとんどこの学校にはいなかったから、いつも放っておいてほしい時、ひとりになりたいときはいつもここに来た。孤立して面倒な思いをするよりはほどほどに人付き合いするほうがいい、とはわたしも分かっていたからとりあえずは友達、みたいな人とつるんでいたけれど、もともと得意なタチでもないし、人混みの中にいるとそれだけでなんだか疲れてしまうから、ひとりここにいる時間がわたしは好きだった。
だれもいない屋上の、本来は花壇なんかに使うだろうでっぱりに腰かけ、周りを軽く見まわすと、顔の見えるところに人がいないことを確認する。そうして頭を軽く振って、肩を回し、準備運動を軽くすると、すうっと思い切り息を吸った。音が出る。前歯のふちが震え、喉がたわむように波打ち、骨が、胴体が、身体がまるでお寺の鐘をついた時のようにくわんくわんと共鳴する。そうだ、わたしは歌っているのだ。わたしはこれが好きだった。思い切り歌うと、一瞬の間、世界が支配できるような、自分のものになるような気がした。本当は何一つ、真の理由でわたしだけのものになんか世界はならないし、わたしのためだけのものもない。けれど今だけは、それを忘れられるような気がした。どうせここなら下の人にはろくに聞こえないだろうし、よしんば聞こえたとして顔は誰も分からない。だから、気の赴くまま、全力で、歌った。ああ、好きだ。わたし、歌が好きだ。
わたしがこんなにも歌が好きなのは、明確なきっかけがあった。確かに歌ったらすっきりするし、気持ちがいい。けれどそれだけじゃないものがある。そしてその理由こそが、ひいおばあちゃんだった。今はもう亡い。わたしが五歳のころに、この世を去ってしまったから。ひいおばあちゃんは、わたしが保育園から帰ってくると、おお、おかえり、といつも腕を広げて出迎えてくれた。その後、本を読んでくれたり、おもちゃをどこからか取り出しては遊んでくれたり、これ秘密だよ、とお菓子をこっそりくれたり、いつもわたしを甘やかすのが好きな、やさしい人だった。わたしはあの人の膝に乗るのが好きだった。いつもしわだらけの年を重ねた確実で細い掌でわたしの頭を撫でては、べっぴんさんだねえ、とかおりこうさんだねえ、とかわたしを溺れるほどに、くしゃくしゃの笑顔でほめてくれた。目じりのしわのひときわ濃い人だった。幼いわたしにとって決して広くはない世界の、絶対的肯定者がひいおばあちゃんだったんだと、思う。
とある日、三歳あたりの保育園の入りたてのころ、わたしは帰ってきて、保育園の支度も取らずにひいおばあちゃんのベッドに駆け寄っていった。そのころもう九十は越していて、足と腰の悪いひいおばあちゃんはいつもベッドに寝ていた。幼い子供にとって、お父さんはお父さん、お母さんはお母さん、とそういう自分と関係性を持った存在の名前は実はあるのかないのかわかっていないことも多い。だからわたしはひいおばあちゃんのことを「ねんねばあちゃん」と呼んでいた。いつもベッドにいるからだ。子供の名づけなんてそんなものだ。けれども子供の言葉というものは得てして純度が高い。あの頃みたいに、ただころころと言葉を吐けていれば、もっと幸せに、生きられたのだろうか。ああでも、こんなことを考えても、何にもなりはしないか。いや、こんなことはいい。話を戻して、わたしは保育園から帰ってきた。そうしておばあちゃん!とベッドに飛び乗った後、座っていたひいおばあちゃんの膝に乗り、頭の後ろにあるひいおばあちゃんの顔の方を首をぐい、とひねって向き、その灰色の目をきらきらした、一層真っ黒な瞳で辞意、と見つめると、座ったままふんふんと体を揺らし、弾んだ声でこう話しかけた。
「ねんねばあちゃん! きょうおうたならったの。きかせてあげるね」
それは何の歌だったか、たぶん何かの童謡か、それか唱歌だったと思うのだけど、それをひいおばあちゃん相手に、歌ったのだった。わたしの最初の、たった一人のためだけのコンサートだった。覚えたばかりの歌詞とメロディを追うのに夢中でひいおばちゃんがどういう顔をしているのか、歌っている時はわからなかった。一生懸命に声を出したからちいさな幼子のわたしの身体では息が切れて、歌い終わった後息をふうふう、と整えて、ねんねばあちゃん喜んでくれたかな、とひいおばあちゃんのほうを向くと、ぼろぼろと涙をこぼして泣いていた。わたしは驚いてしまって、ばあちゃん、ねえどうしたの、と薄い骨ばった胴体をぽこぽこ、と叩いた。ひいおばあちゃんはぼろぼろといまだに涙をこぼしながら、わたしを思い切り、ぎゅうと抱きしめた。そうして、ただすごいねえ、すごいねえ、将来は歌手になれちゃうよ、と繰り返し、繰り返しわたしに言い聞かせるように言った。そのころには、ねんねばあちゃんには、自分はこの子の大きくなった顔を見ることはかなわないだろう、と分かっていたのかもしれない。その二年後、ねんねばあちゃんは死んだ。その歌はわたしが初めて人の前で歌ったもので、もとから声を出すのが好きな子供だったけれど、自分の歌でこんなにも喜んでくれる人がいる、ということは、物心付きたての頃のことだったのに、わたしの心の深いところに、刻まれている。きっとつたない歌だっただろう。三歳の只の子供だ、調子っぱずれの音も取れていないようなものだったろうに、それでもねんねばあちゃんは全力で、心の限りに褒めてくれた。これはわたしの原体験。わたしの核になる出来事なのだ。
だからわたしは、本当は歌いたい。大勢じゃなくていい。たった一人いればいいから、わたしの歌を求めてくれる人の前で、思うままに。
けれど、わたしは人前で、歌を歌ったことがない。
わたしはきっと、縛られているから。
白い壁紙に、シーリングライトが当たる。照り返しが影を作って、木のフローリングの床に、影を落とす。やけにコントラストの強い空間に、四人掛けのダイニングテーブルがある。そこの前に、わたしはただ、うつむいて立っている。もっと正確な表現をすれば、立ち尽くしていた。その空間は、ひとりではなかったのに。男と女が立っている。わたしとテーブルをはさんで、目の前に。そこにはただ、無言という行為だけがあった。わたしとしてはただ何と言っていいかわからなかっただけだった。ただ目と鼻の間、その奥の脳の裏側あたりがつんと痛んで、沈黙に耐えられなくなった。唇に歯が食い込んで跡を残す。そっと息を吐いて、吸ってふちを開いた。声帯まで固まってしまったかのようで、声が少し泡立っていた。
「おとうさん、おかあさん、」
とだけ。それだけが声に出た。父のわたしによく似た切れ長の目元が歪み、眉がすっと寄せられた。ため息を深く、一つつく。わたしの身体は何もしようとは思っていないのに、背筋がひきつるようにぎくん、とひきつった。空気が震えていて、口が動いていたから、父が何がしかを喋っていることはわかったが、それが何だったのか、理解していないし覚えてもいない。ただ視線をどこかに置く気すら配れないまま、意識のはく離した肉体だけが二、三言父と言葉を交わし、母はそれに何も口を出さなかった。そのあとただじっと立って黙っていると、また父が声を掛けようとしたのが見えて、ふっと実感性が戻った。そして逃げるように階段をのぼり、自分の部屋に行った。最後に見えた父の瞳に、どこか寒色系の色が見えた。横に立っていた、母の瞳にも。知らずの内に握りしめていた爪が真っ白になって、なかなか色が戻らなかった。
わたしの両親は、厳しい人達だった。わたしをどこのどんな場所に出しても恥ずかしくないように、父の言い方をすればわたしが恥ずかしい思いをしないように育てた。それもこれも将来のわたしが生きていきやすいように、つらい苦労をできるだけしないように、という親心あってのことだろうし、わたしだって両親の愛を信じていないわけでは決してなかった。それでも、わたしは彼らに対して重く、澱んだ気持ちがあった。だってお父さんと、お母さんはわたしの歌を一回だって聞いてはくれなかったからだ。どんなに聞いて、とせがんでも興味の一つもなさげだったし、そんなことよりあれやりなさい、これはやったの、とまるで取り合ってくれなかった。だからきっと、あの人たちはとても、とても驚いたことだろう。大事に大事に育ててきた、理想の娘が大学にはいかない、と言い出し、あまつさえ音楽の専門学校を目指す、なんて言いだすなんて。わたしも卒業が見える学年になった。そろそろ進路を決めたり、考えたり。将来何がしたいのか、何を身につけて生きていくのか、何を何のために学ぶのか、そんなことを決めなければならない時期が来ていた。両親にとっては幸いにも、わたしは決して勉強ができないわけじゃなかったし、行こうと思えばそこそこいい大学にも行けた。父と母の望むように。彼らはきっと、わたしは自分たちの望む、いわゆるかっちりした進路に進むだろう、なんて思っていたと思うから。けれど、わたしは賭けてみたかった。ただこの人の言うとおりにしていいのか?わたしはわたしの若さという一瞬の光を無駄にはしていないだろうか。そんなことが頭をぐるぐるとこね回しながら、しばらく悩んだ。けれど、嘘をつきたくなかったのだ。ねんねばあちゃんのあの涙に、何かを報いたかった。だから、決めた。今しかできないことを、するということを。
きっと、応援はしてくれないだろう、そんなことはあまりにもわかっていた。さっきだって悪いことは言わないからやめておけとか、無理なことを目指すようなものじゃないとか、そういうことを言っていたんだろう。そこに決して優しさがないわけじゃないからくりしい。父はいつだってお前のことを思って、と説き伏せるようにわたしに話をした。だからそういう感じの話だったんだ、と思う。それはその通りではあるのだから。まったくの正論である。当たり前の話だ。それこそ成功する根拠なんてどこにもありはしないのだ。それにわたしを、わたしの目を見つめる父と、母の目に確かに心配が、わたしのことを思いやる気持ちが、わかりやすいほどに読み取れてしまったから、どうしようもなかった。わたしだって親が嫌いなわけじゃない、嫌いになんかなれるはずない。たしかにわたしには慈しまれた記憶があって、それは真実だからだ。けれどもそれを超えてしまうほどに、わたしは夢へと進みたかった。そのことが、少し、痛い。親を思う気持ち、喜んでほしい、笑顔が見たい気持ちと夢をそれでも目指さずにはいられない衝動、渇望がわたしの身体の中でぶつかり合って、訳の分からない感情で心がぐちゃぐちゃになった。
薄青い部屋に、ひとり。涙腺の奥から焦げそうなほど熱い涙がぼろ、ぼろ、と大粒にあふれ出てくる。泣いても、泣いても、タオルを貫通して手が濡れるまで泣いても止まらない。けれど、そこには不思議と悲しみ、はなかった。嗚咽もなく、声もなくただひたすらに涙だけがこぼれ続け、目の奥がからからに張り付いてしまった頃、ふ、と部屋の鏡を見た。濡れた顔と、真っ赤な目。けれどもそこに、表情の色らしきものは、何一つ読み取れなかった。
ポケットを探る。何もない。わたしを救ってくれる人は、本当にいないのだろうか。あののど飴が恋しい。苦くて、薬臭くて、なんだか喉の奥にいつまでも味が残るあれがほしい、と思った。今のわたしには、すがるものもないのか、と考えると心、というよりかは涙に乗って体の中身が逆さまにしたメープルシロップのように、粘度をもってすべてとろけて流れ出してしまったような心地だった。そこにはただ実感がない。
そのまま、ベッドに腰かけてぼおっとしていた、何分過ぎたかはわからないが、濡れた顔が体温に焙られて渇いた。時計を見るといつも夕食を食べる時間で、下から夕ご飯に呼ばれた。その声もいつもと比べると幾分かこわばっていた。わたしとしては別におなかはすいていなかったし、食べなくても別に良かった。口から出そうなほど質量をもった感情で内臓が圧迫されていると、体は確かに栄養を求めているはずであるのに、不思議とおなかはすかなかった。それでもいくら気まずいと言っても食べ物を無駄にするのは嫌だった。こういうところ、親のしつけがしっかりしているな、と思う。それを喜んでいいのか面倒くさいなと思えばいいのかわからないが、一般的には通りがいい考え方だし、まあいいかな、なんて関係なことをつらつら考えて気を紛らわせようとしながら、場に漂うずっしりとした息のしにくい空気を、無視しようとしていた。座面に革の張られた木の椅子を引き、食卓の席についた。
雰囲気に色を付けるなら、まさにどどめ色だった。それに染められてなのか、口に食べ物を運んでも味が全然感じられなかった。確かに味はある。それはわかるのだがそれに対しておいしいな、とかそういう言葉のついた感情が、何一つ浮かばないのだ。まるでぬるい水でふやかした段ボールを食べているみたいだった。くちゃくちゃと自分の歯が食物をすりつぶし、唾液と交じり合う音ばかりが頭蓋の中をパチンコ台みたいに反響していた。
味気ない食事を口に入れ、咀嚼し、ただ飲み下す。それだけの食事とも呼べない作業をただ続ける。ただ下を向いて食器と箸のあたる音だけが響く。そうしているとはす向かいに座っていた父が食事の手を止め、箸をおき、一秒、二秒、自分の手とわたしのほうを見て少しためらった素振りを見せると口に含んでいたものを飲み込んで、口を開いた。
「悪いことは言わない。やめておいたほうがいい」
あえて反応を返さなかった。何か言っていた気がしたが、意識して聞こえないようにしていたし、ひたすら黙って夕食を食べた。父の言うことに何の間違いもない。そのことは忌々しいくらいわかっていた。そしてそれを受け取ってきちんと飲み下す余裕も、スペースもわたしにはなかった。決して焦らず、確実に、けれども速やかに食事を終え、お皿と箸を重ねてシンクの水に浸けるとまた、自分の部屋に逃げるように戻った。
部屋に戻ると本を手に取り、開いた。啄木の歌集。こういう時は短歌だったりとか詩を読むのが性に合っている。読もう、と思ったのだけれど目が滑る。氷の上で転ばないように、ともがいているがごとく目線をきちんと文字に合わせようとしても、つるつると逸れてしまうのだ。全然頭に入ってこないし、次第に文字が訳の分からない図形に見えてきて、ああ、と一つ息を吐いてからぱたん、と閉じてその辺に放った。いつもはきちんと本棚に戻すけれど、もう何をするにも面倒だった。伸びをして、ベッドに倒れ込むと、スマートフォンを手に取る。音楽でも聴こう。再生ボタンを押す。イヤホンから音が流れ始める。こういう時は洋楽がいい。クイーンを聞く。いつも彼らはどこか、孤独というものに寄り添ってくれるような気がした。愛に、愛にすべてを。そう祈るように、目を閉じたままただ身をゆだねた。
一曲聞き終わって、ぽつん、と音が途切れた。静かな部屋で、ぼんやりと天井を見つめていた。網膜に移った影がうにゃうにゃと影を描き、それがアニメ映画か何かで昔見た何かのように、蠢いていた。そんなことを考えて、無視しようと、していた。喉に何かが詰まったような、そう、パンを乾いたまま、ぐわ、と飲み込んで詰まらせてしまったかのような感触が、ずっとあった。水を飲んでも、せき込んでも全く解消されずそこから次第に鎖骨の付け根、胸に痛みが降りてきて、つきん、つきんと疼いた。
それをかき消したかった。胸をこぶしでぼんぼん、と叩いて息を二、三度、吸えなくなるまで吸って声を、出そうとした。いや、厳密に言えば出る事には出る。けれどもかすれて、泡立って、ひっくり返って、まるで切れかけのヴァイオリンの弦のような音しか、わたしの喉からは出なかった。焦って無理やりに声を出そうとして、思い切り力んでしまって、何かたんでもあったのか、げほん、と金属質の咳が出た。それが止まらなくなって、背を折り曲げで何回も何回も、粘膜が裂けて血が出るような咳をした。ひとしきり肺の中の息を出し切るとふ、と止まり、ごろんとベッドに寝転がった。一枚の二重硝子を隔てた窓の向こうでは、雨が静かでもなく、激しくもなく、さあさあと降っていた。
何もかもなんだかどうでもよかった。自分の肉体と精神が、硝子瓶に二つ入れられたビー玉のように傾けると離れて、またぶつかってかつんかつんと音を立てていた。自分と自分が解体された陶器の人形みたいにばらばらになって、すべてを、わたし自身を、周りの者もそうではなくてもすべてをずたずたに傷つけてしまいたい衝動に、車に轢かれたようにかられたけれどそれが急激に体の中で沸騰したかと思うとふう、と冷めてしまって、掌を開いて、閉じてその様子をグー、パーと眺めているとあの裁ちばさみを思い出した。
空間をふわふわと漂っていた意識、というよりは実感が、体に戻ってきたような気がした。背筋の奥で何かがざわざわと叫んでいるような気がした。わたしは、あのはさみを手に入れなければならない、と思った。
乱暴に部屋のドアを開け、勢いよく会談を駆け降りると部屋着のまま、靴下もはかず裸足に外履きで家を飛び出した。まだ雨は止むことなく降り続いていて、傘をさすことも合羽を着ることも、忘れていた。母のなにか言う声が聞こえたような気がしたが、それに構うこともなく背にして走り出した。もともとわたしは呼吸機能があまり強くなくて、走ることなんてあまりできなくていつも百メートルも走れば呼吸音に喘鳴が混じった。けれどもこの時はなぜだかどこまでも走ってゆけるような気さえしていて、足も体もいつになく軽く、わたしを目的の場所へと届けた。坂を一心に下って、シャッターの降りかけた問屋街、裏通りを走り抜けると、突き当りを曲がった。そこに、あの金物屋がある。
もうシャッターは三分の一ほど降りかけていた。その硝子戸の奥に、あのおじいさんの姿が見えて、降りてくるシャッターの下に滑り込み、急いで、必死でどんどん、とドアを叩いた。叫ぶ。
「すいません! すいません!」
もう店じまいの支度をしていたおじいさんは驚いていた。こちらのほうをきゅっと見て、眼鏡の弦をつまんで軽く上下させると、は、と何かに気付いたようにバタバタ、と店の奥に消えていった。モーターの音が止まる。シャッターはかがんだわたしの頭の、もうすぐ上まで下りてきていた。
鍵をガチャガチャと開け、おじいさんはわたしを店の中に入れてくれた。油の匂いが鼻を軽くついた。床が軽くぬるついていた。おじいさんはびしょ濡れなわたしに対して何一つ、訊きはしなかった。ただ、やさしげなはしばみ色の瞳を細めて、「どうかしましたか」とだけ、言った。ぜえはあと荒い息を何とか収めて、もしかして売れてしまってはいないか、と急いでショーケースに駆け寄ると、はさみはまだそこにあって、鈍く輝いていた、ほう、と安心してため息をつくと、それを指さして、一音一音、確かに発音した。
「すいません、これ、これください」
おじいさんはまあ座って、とわたしを店の中の椅子に掛けさせると、ショーケースの中のはさみを取り出した。そしてわたしに手渡す。これが、あの、いやこのはさみの、重みなのか。つるりとした持ち手と、青黒く鋭い鋼の刃。きっとこれが、わたしのなにかを、救ってくれる、こう思った。二分ほど手に載せてまじまじと見つめて、またおじいさんに手渡した。箱にはさみを詰めて、きれいに整えると、それはまたわたしの手にあった。それを少し慎重に、抱えるように持つと、これいくらですか、と言った。手に入れるのに必死で値段を見ていなかった。おじいさんは電卓をポチポチと叩いて、わたしに見せた。高校生にはいささか高い買い物だったけれども、普段わたしはほとんど遊びもしなかったから、払うことは難しくはなかった。おそらくはわたしが高校生、ということでいくらか安くしてくれたのだと思う。そんなやさしさが、なんだか世界は悪いものではないのだと教えてくれているようで、あたたかかった。
おじいさんはわたしに何も訊きはしなかった。寝巻のままびしょ濡れで閉じかけの店のドアを息せき切らしながらどんどんと叩いた高校生なんて、何かあったものだと思うのが自然だが、それでもこのおじいさんは、顔に柔らかな笑みを浮かべて、わたしに何か言うことはなかった。それがなんとなく、けれどとてもうれしかった。
はさみを見つめていると、そしてその重みを手に感じていると、ぽつり、と涙がこぼれた。それはさっきの感情のない涙ではなかった、そこには確かに感情があった。それが何かはわからなかったけれど、なぜか、温かかった。わたしは何かをこのはさみに求めている。それはきっと救いになることで、ただそれだけが本当だった。
ぽつぽつ、と泣いて、涙をぬぐっておじいさんのほうに向きなおる。いつもつめたいとか不愛想とか言われがちなわたしらしくもなく、背をまっすぐと伸ばして、九十度に腰を曲げ、深々と頭を下げた。そしてはっきりとした声で言う。
「どうもありがとうございました」
何回も頭を下げながら内開きのドアを開け、降りかけたシャッターを潜って店を出た。おじいさんは、「また来てね」とは言わなかった。
少し南に歩くと、神社がある。昼間なんかは結構人が来て、にぎわってなんかいたりするのだが、夜と夜中の狭間のこんな時間には、丁度ほとんど誰もいなかった。境内にある少しささくれたベンチに腰掛け、小脇に抱えた箱をぱかり、と開けた。青く鈍色にひかる裁ちばさみ。それが音もなく、すっと箱の中に佇んでいた。それをくぼみから引っ張り出し、じいと見つめて、言葉もなく胸に抱きしめた。つめたい鋼の感触が、寝間着と布だけの胸元にそっと沈んだ。二つの輪に指を通し、手にもってしゃき、しゃきと音を立てて動かすと刃の擦れる音が鳴る。なんだか楽しくなって、思わずふふ、と声がこぼれた。またしばらく上から下から横から眺めすがめつ見つめて、また箱に戻して、どこか楽しげに、スキップでもするように歩き出した。
雨だというのにどこか月の光が明るい散歩道を、今度は歩いて帰る。ただいまともいわずにドアを開け、駆け上がるように部屋に戻った。母の、追って父の声がした、ような気がしたが、何の気にもならなかった。びしょ濡れの服を着替えて、髪の水分をタオルでぽんぽん、と取りながらまたはさみを取り出す。紙の箱は雨でへにょへにょになっていたが、どうでもよかった。蛍光灯に鋼を透かすと、そのよく研がれた刃先が、ちかちかと光ってきれいだ。
ドラえもんの、それも結構マイナーな道具に、「思い切りハサミ」なんてものがあったか。しゃきん、と刃を鳴らすと迷いが晴れて、思い切りがつけるようになる。そういう道具だった。このはさみは、わたしにとっての思い切りハサミなのだ、と思った。ひいおばあちゃんが亡くなって、わたしは鍵っ子になった。一人、母と父が帰ってくるのを待つ生活。それをかわいそうに、と祖父と祖母がドラえもんの大きなDVDボックスをくれたのだった。わたしはドラえもんと共に育った。そして、わたしはただ一人で寂しがっていた子供から、卒業しなければ、ならない。
姿見の前に立ち、じっと髪を見つめる。まだ水を含んだ重たく黒い流れが、腰のあたりまで落ちている。はさみを持った手をそっと肩のあたりまでもっていくと、刃を入れた。つややかな過去。髪一本一本を、確かめるように裁ち切っていく。その振動と感触が、頭皮にまで伝わった。しゃきん、しゃきん。床につやつやと、細胞の残骸が落ちていき、その量が増えるごとに、物理的にも、そして精神的にも、わたしの身体は軽くなっていった。
髪が肩口辺りで切り揃った頃、わたしはすっと前を向いた。
もうわたしは迷わない。それがうまくいくにせよ、果てしなく失敗するにせよ、やりたいことに、すべてをかける。歌を歌うのだ。すべてを使い果たして、死にたいから。そこに何の邪魔が入ろうと、何一つ関係ない。ここにあるのは、ただの祈りだけだから。
鏡を見る。短くなった髪、凝り固まっていた表情筋がほぐれたかのような顔つき、少し紅潮したほほ。きっと二人とも、飛び上がるほど驚くだろうし、いやあの人たちには、そんなの似合わないけれど、部屋がびりびり震えるくらい、怒るだろう。でもわたしには、後悔はない。だからいい、もう自由だから。自分で自分を縛ることは、もうやめたのだ。朝、まるでいつものように「おはよう」とあいさつするのが、なんだか今から楽しみだ。父も、母も、どんな顔をするだろう。
ふんふん、と鼻歌があふれてくる。それはラララ、とハミングになって、そして次第に歌になった。のびやかに、透き通って声が広がってゆく。ただ、歌うことが楽しくて、うれしくて、それだけだった。もう、あんなことには、声がまるで出ないなんてことはない。
いつの間にか眠ってしまって、窓の外から入ってくる光で目が覚めた。朝日だ。晴れた光が、床に散らばった過去と、呪縛の残り香を、照らしていた。
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