どうしてマッチは消えたのか

mk*

どうしてマッチは消えたのか

「どうしてマッチは消えたんだろう」




 白い室内灯に照らされたリビングに、澄んだボーイソプラノがそっと響いた。それが独り言だったのか、問い掛けだったのか、判別に時間が掛かった。


 薄いテレビから、他人の声がBGMのように流れ出す。暖炉の薪が乾いた音を立てて爆ぜる。たすくは行儀悪くリビングチェアに片膝を立て、間抜けに復唱した。




「マッチ?」

「そう。アンデルセン童話の」

「ああ、マッチ売りの」




 侑が言うと、みなとが振り向いた。

 見た目だけは天使のように美しい青年だった。長い睫毛が頬に影を落とし、白磁のような頬はまだ何処か幼さが残っている。


 湊はテレビに背を向けて、侑を見て微笑んだ。

 室内灯を反射して、栗色の髪に天使の輪が浮かぶ。少し伸びた髪を耳に掛け、湊は滔々と言った。




「一人の少女が、食い扶持を稼ぐ為にマッチを売り歩く。雪の降り頻る大晦日の夜、父親から叱られない為にね。でも、少女からマッチを買う人はいなかった」

「……」

「夜も更け、少女は寒さを凌ぐ為に売り物のマッチに火を点ける。すると、その光の中に暖かいストーブやご馳走、飾られたクリスマスツリーの幻想が見えるんだ」

「だが、火が消えると、幻想も消えた」




 湊が頷いた。

 俺達の会話は大抵の場合、脈絡も無ければ落ちも無い。唐突に投げられる言葉のボールを拾ったり、打ち返したり、見送ったりする。其処には善悪や正誤、勝敗も無い。


 侑は、リビングテーブルの上に置いていたマグカップを手に取った。白い陶器の中はコーヒーで満たされている。豆から挽いたキリマンジャロに、たっぷりのミルクを足したマグカップの中のエントロピー。


 マグカップを傾けて飲み下せば、ミルクに殺された酸味が喉の奥に落ちて行った。

 湊は暖炉の前に胡座を掻いて、微睡むようにゆっくりと瞬きをする。




「少女は、次々にマッチへ火を点ける。最後に優しかった祖母が現れて、繋ぎ止めるように全てのマッチを燃やしてしまう。光の中、少女は祖母に抱き締められながら天国に昇るんだ」




 感想に困る話だな、と正直に思った。

 虚しいし、遣る瀬無い。誰か一人でも少女を助けてやってくれよ、と願ってしまう。侑はコーヒーを啜りつつ、話の先を促した。


 湊は相変わらず、神様の依怙贔屓みたいに綺麗な顔をして微笑んでいる。こいつに降り注いだ凡ゆる悲劇と不条理がその容貌と引き換えだというのならば、神様とやらは酷い悪徳商人だ。いつか会う日があったら、胸倉を掴んで殴ってやる。


 湊は両手を組み合わせ、何かに祈るかのように目を伏せた。




「新しい年の朝、少女はマッチの燃え滓を抱えて死んでいた。幸せそうに微笑みながらね。少女が幻想と一緒に天国へ昇ったことなんて、誰も知らないんだ」




 俯いた湊の後ろで、テレビばかりが騒がしい。

 海の向こうの紛争や飢餓、芸能界の煌びやかなスキャンダル。平和の影で、飽食の狭間で、静かに軋み歪んでゆく社会。俺達がマッチに火を点けたら、其処には一体、何が映るだろうか。


 侑はマグカップをリビングテーブルに置き、立ち上がった。顔を上げた湊の頭を撫でると、濃褐色の瞳が深淵のように覗き込んで来る。侑は目の前に座った。




「マッチがどうして消えたのか、だったな」




 念押しするように問い掛けると、湊が肯定した。

 可哀想な少女だ。残酷な世界だ。フィクションだなんてことは分かっているし、それが何かを暗示していることも知っている。


 マッチ売りの少女は、暗闇に何を見ただろう。

 マッチは何故、消えたのか。


 侑には時々、この世界がくだらなくて、影絵のように薄っぺらく感じられる。それでも、俺達は飽和する情報の中で、古い童話について考えたり、夢想したりする。きっと其処に人間としての価値が、意味があるんじゃないかと、漠然と思う。


 だから、侑は笑ってやった。

 少女を助けなかった世界に中指を立てるつもりで、朗らかに答えた。




「思い出す為だよ」




 侑が言うと、湊は目を真丸にした。

 謎謎の答え合わせを待つ子供のように、湊が見詰め返す。不思議と気分は良かった。快晴の大海原に帆を張った船のように、侑は堂々と言った。




「マッチの幻想なんかに縋っていたら、現実が見えなくなっちまう。だから、消えたのさ」

「侑って、結構スパルタだねぇ」

「そうか?」




 湊が可笑しそうに両手で口を押さえて笑った。

 侑も釣られて笑った。リビングテーブルからテレビのリモコンを引っ掴み、電源を落とす。暗いディスプレイは、夜の磨り硝子みたいだった。


 侑はソファにリモコンを放り投げ、大きく背伸びをした。

 窓の向こうは暗く、鱗粉のように雪が降っている。そろそろ夕食の支度をするかとキッチンを見遣った時、湊がぽつりと零した。




「思い出の眩しさに負けないように、火は消えたんだね」




 湊の瞳に、暖炉の炎が映る。

 侑は力強く肯定した。




「ああ、そうさ」




 湊が、陽溜まりのように笑った。温もりが空気を伝播するようだった。湊は立ち上がると、微風みたいに脇を抜けてキッチンに立った。

 飴色のキッチンカウンターから、湊が悪戯っ子みたいに笑う。




「今日の夕飯は、俺が作る」

「へぇ。メニューは?」

「お好み焼き」




 湊が得意げに言ったので、侑は腹を抱えて笑った。

 料理となると、何故なのかお好み焼きばかり作るのである。湊は兎に角、変な奴だった。


 キッチンから水音と、調子外れの鼻歌が聞こえ出す。侑はポケットに手を入れ、鏡のような窓を見遣った。金色の髪とエメラルドの瞳が曖昧にぼやけ、世界の輪郭が霞んでいく。




「心配しなくていい」




 機嫌良さそうに、湊が言った。




「もうすぐ、春だよ」




 冬来りなば春遠からじ。

 千里の道も一歩から。


 長い冬を堪え凌げば、やがて草木の芽吹く春がやって来る。侑はキッチンに立つ湊を見詰めて、笑った。




「お前、春みたいだな」

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