第2話 菜穂の失恋

菜穂は泣いていた。

普段は泣いている姿を見られたくないから、全くその素振りをみせない。自分の部屋で天井を見ていた。声を出さずに泣けることは数年前に気付いた。そして、今日もできている。夜、布団に入って仰向けで天井と対峙している。まるでこの世の中の悲しいことは全部この天井に集約されているかのようだ。でも、それも違うことは知っている。目の端に涙が溜まり両耳まで流れてきた。両手の人差し指と中指の腹で頬の涙の軌道をなぞる。拭っても拭っても涙は溢れてくる。


つい五時間前にフラれた。いや、別れを切り出したのは菜穂の方からだから形式的にはフッたのだ。

今回は本物だと思っていた。今回の恋を経験したら他のは全部勘違いだったのかもしれない。そういった意味ではこれが初恋だと思った。むしろ最近は恋から愛に変わり始めていた。本気でそう思っていた。でも、その恋も虹のように消えていった。ずっと眺めていればいいのに、つい嬉しくなってカメラに収めようと目を離した瞬間に消えてしまった。そんな様な感覚だ。

どうして毎回こうも傷つくのだろうとため息が出た。


菜穂は現在東京で働いている。大学進学を機に北海道から上京してきた。今の生活に全くの不満はないことはないがそれなりの充実した生活を送っている。こんなもんだろうと納得して毎日過ごしている。嫌なことがあっても、例えばあの角のパン屋にはお気に入りのパンがあるからそれを食べれば大丈夫とかワニがモチーフになっているブランドの洋服を身に纏えば一日中幸せでいられるとか、そうやって自分自身を上手くコントロールしていた。二十三年を経過した菜穂歴をもつ処世術だ。

とはいえ恋愛に関しては全くどう対処していいのかわからない。そもそもそんなに好きな人には恵まれず、周りが恋人を作ったりする中でも、片想いだけしてればそれで充分だった。付き合おうとかそこまで考えることなく、とにかくあなたが好きと心の中で想っているだけで幸せになれるのだ。しかし、たまたま片想いが両想いになりお付き合いになった事もあった。それは今まで隠さなければいけない感情を伝えられる喜びを知りより幸せな気分になった。

それでもいつも終わりは菜穂が泣いてしまう。理由は原因はいくらでもあるようで全くわからないような気もした。


「上手くいかないなぁ。」


いつしかぼんやり呟いて、時計を見るとまだ午前四時だった。今日が休みでよかったと安心した。そして、家でゆっくりのんびりして、長めに湯船に浸かって飲めないけどレモンサワーでも飲んで寝ようと頭の中で一日のスケジュールを組みたてていた。



数日が過ぎ仕事中に街を歩いていると朧気に地元の風景が頭に浮かんだ。そして実家のおじいちゃんとおばあちゃんの顔が浮かんだ。最近会うこともなくしばらく地元には帰っていなかった。たまには田舎の空気でも吸うかというような軽いノリで航空券を調べた。


突然の帰省に家族は歓迎半分と心配半分で迎えてくれた。久しぶりに会う母親は前回会った時よりも少し年老いた気がした。感覚的に私はあと何回両親と会えるのだろうかと考えてしまった。母親は明朗快活な人で、「いいかい、菜穂!」といろいろ教えてくれた。すごく感心する教訓じみた内容の事もあればてんで的外れな事もあり母親の生き様がそのまま感じられる人だった。そんな母親が菜穂は大好きだった。反対に父親は特に菜穂に何か言うわけでもなく、そんなに見守っているような様子もなかった。時々近付いては自分の好きな事を菜穂に自慢しては帰っていくという距離感であった。あまり主張らしい主張は聞いたことなく母親が言ったことに対しても「あー、そっちの手もあったか!」と言い、ほとんど母親の言った通りに行動していた。高校生まではそんな姿が自立心のないように思えて嫌っていたが、最近はそれが自立心のなさというよりかは父親の心の広さにも感じるようになり、一旦そう考えると全ての行動に奥深さが出てきて不思議と父親が好きになっていた。両親は娘の帰省に嬉しさを感じつつ急に帰ってきたことに心配になりながらも様子を見て特に今回の帰省の目的を尋ねてこなかった。

菜穂の会いたかったおじいちゃんとおばあちゃんは町内会の宿泊で今日はいなかった。少し残念だが、菜穂の方が勝手に来ただけであるので責められない。今日は娘にお酒を注がれて上機嫌な父親の相手をし寝床に入った。


次の日、寝坊をして昼ぐらいにゴソゴソと菜穂は起きてきた。久しぶりに起きる時間を意識せずに寝た。お腹がすいたのでなんとなくリビングに向かうとおばあちゃんがそこにはいた。

「ずいぶん、のんびり起きてきたのねぇ。」


二年ぶりにあった祖母は菜穂のイメージと全く変わらないまま目の前で笑っていた。祖母の顔を見るだけでジーンと鼻の奥が懐かしさで詰まるような温かい気持ちになる。


「おばあちゃん久しぶり。元気そうでよかった。」

考えるよりも先にいろいろと言葉が出てくる。最近まで失恋を引き摺っていたが、おばあちゃんの顔を見たらすごく安心した。

「お昼、菜穂にとっては朝ごはんか。それ食べたら出掛けない?」

おばあちゃんはそう言うと準備をしてくるからと自分の部屋へ戻ってしまった。どこへ行くかは聞きそびれたが、おばあちゃんが支度に入った以上仕方ない。菜穂も急いで朝食を口に入れ自分の部屋に戻った。


おばあちゃんと一緒に行ったのは湖だった。おばあちゃんは自転車を借りようと言うとレンタサイクルショップへ向かった。菜穂がおばあちゃんの年齢的に心配したのも杞憂だった。私より早く、そして安定的に漕ぐのであった。

おばあちゃんに遅れまいと必死に着いて行った。久しぶりにがむしゃらに自転車を漕ぎ、おばあちゃんが止まった場所へ何とかたどり着いた。そして、そこから見た景色に息を飲んだ。視界には何も遮るものがなく、そこには色んな種類の緑色した森が見下ろせて中央に湖が見える。絵でもこんなに綺麗に描けないであろうエメラルドグリーンの湖は菜穂自身の存在を置き去りにするような圧倒的な存在であった。そして、その大自然の美しさに呼応するかのように菜穂の奥底から涙が溢れてきた。


「菜穂にみせたかったんだ。私はお母さんとここに来たのだけど、その時からここは変わらずに綺麗なまま。」

そういうと菜穂にニッコリ笑いかけた。思う存分見たら帰ろうとおばあちゃんが勇ましくいうので菜穂は小さく頷き、しばらくその絶景を眺めていた。


家に帰るとおじいちゃんがリビングで新聞を読んでいた。

「おー、菜穂おかえり。会いたかったよ。」

おじいちゃんの、その優しい声でまた菜穂は泣きそうになった。それでも、おじいちゃんを心配させたくない想いでなんとか堪えて楽しい時間を過ごした。


夜、自分の部屋で寝支度をしているとおばあちゃんが訪ねてきた。

「今日は良かったら隣に布団でも敷いて一緒に寝ないかい?」

菜穂は珍しいなと思いながら嬉しい思いが勝ったため快諾した。


「菜穂になにがあったか知らないけど、聞かないよ。その代わり私の話を聞いてくれる?」

布団を横に並べてお互いが寝ようとしたタイミングで菜穂は話しかけられた。

「え、いいよ。なんだろう。」

菜穂が戸惑いながら応えた。

「やった、じゃあ私が何で今日行った湖に母親に連れられて行ったかという話ね。」

まるで修学旅行の夜みたいなそんなワクワクを必死に抑えながらおばあちゃんの話を聞いた。

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