第5話 慶彦の恋の成就

慶彦の家に急遽手紙が届いた。本来入学するべき生徒が辞退したため、急遽枠が空いたとのことだった。


子どもの頃から勉強が好きで成績は優秀で学年で常に上位であった。中学高校と進学して、皆が就職していくなか慶彦は本当は進学がしたかった。しかし、慶彦の家庭は終戦以降厳しい経済状況に陥ってしまいなかなか進学したいことを伝えられずにいた。

兄弟は歳が離れていてみんな働いていた。中には家計を助ける為に中学を出て働きにいく兄もいた。そういうのを知ってか慶彦はなかなか言い出せなかった。しかし、勉強はやめるわけにもいかず未来の不安を消し去るように一心不乱に勉強に励んでいた。


ある日父親に聞かれた。今後の進路の事である。慶彦は医学について学びたかった。特に薬学。しかし、家庭の経済状況を考えるとこれ以上自分にお金を使って貰うことが申し訳なく、言い出せない。ましてや、自分自身にそんな価値があるかも分からなかった。

「慶彦の事だから、勉強したいんだろう。」

父親がそう言い出して慶彦はとても驚いた。そして、思わず否定してしまった。

「いや、わかるんだ。慶彦が悩んでいること。葛藤していること。でもね、お前は勉強するべきだよ。それはお兄ちゃんたちもそう言っている。」

この言葉にさらに驚いた。兄たちが慶彦の事をそう思っていることなんて知らなかった。

「お兄ちゃんたちは全然問題ない。むしろ支援してくれるそうだ。やはり、可愛い弟なんだろう。」

父親はそういうと笑った。慶彦はなんとも言えない温かい気持ちになり、この言葉をありがとうでしか表せない自分に腹が立った。でも、ありがとうと言うしかなかった。何度も何度も、涙で声が出なくなってもありがとうと言い続けた。


受験は蓋を開けるとギリギリだった。ギリギリアウトの方である。慶彦の受けた学校は道内でも有数の学校でありその分レベルも高かった。届いた通知書には落選の文字が書いてあったが、予備枠という物に入れられている事が明記されていた。どうやら、補欠みたいなもので辞退やキャンセルがあれば繰り上げ当選する仕組みである。この道内有数の学校は滑り止めとかではなく第一志望で受けるのが殆どであり、辞退は期待出来ない。よほど、何かの事情が無い限り有り得ない話である。そんなラッキーは起こらないものであった。

慶彦は浪人には眼中になく、潔く就職しようと思っていた。その前にせめて、学校のあった旭川に観光でも行こうと思った。そして、この十年間一生懸命努力して、ついにキコちゃんに会いに行こうと決心したのである。一人で行くのも寂しいので近所の幼馴染を誘ってみた。顔はハンサムで良い所の出身であったため、モテていた。既に婚約者がいたが、まだ独身の身だし誘ってみたらふたつ返事で快諾された。

そして、冒頭の事態である。急遽空きができた為、学校に直接志望届を出しに行かなければ行けなかった。慶彦は少し複雑な気持ちになった。恐らく辞退したのは他ならぬ大きな事情があったからだろう。それは大抵があまり嬉しくない理由だ。そんな誰かの不幸の上で自分の今の状況が成り立っている気がして喜んで良いのか分からない。人生は思い通りに行かないのが常ではあるが、それでも申し訳ない気持ちになってしまった。

友人には先に泊まってもらうことにした。入学志望届と言っても、なにやら試験があるらしい。だけど形だけだと先方からは言われた。形だけならやらなくてもいいんじゃないかと思ったが、言わない方がいい事は大人になった慶彦は知っていた。みんながみんな、思った事を口にしなければ世の中の争い事は全てなくなる。友人の義雄には数日遅れることを伝えて一人で楽しんでくれと連絡しておいた。二日目には合流出来ると伝えて慶彦は志望する学校へ向かった。


試験も無事に終わり本格的に自由の身になった。宿に連絡し義雄と合理した。宿に着くと若い女性が対応してくれた。一目でそれがキコちゃんだとわかった。

「あ、あの…。」

と慶彦は狼狽えながら話しかけた。

「あ、はい。義雄さんの友人ですね。お待ちしておりました。ご案内いたします。」

おや?と慶彦は思った。もしかして彼女は僕に気付いていないのかなと感じた。

次の日も話しかけてみても、丁寧に対応されるだけで、殆ど確信に近かった。そして、義雄と一緒にいると彼女がすごく義雄のことを気にしていたのでいよいよ声がかけずらくなってきた。義雄はハンサムで勉強も出来る。女性の扱いにもなれていてモテないはずがない。きっと何年も前の約束を信じてるのは自分ぐらいで、普通はそんなこと覚えてないよなと自虐とも諦めとも取れる気持ちになり悲しくなった。ともあれ、好きな人がこうやって元気に過ごしているだけでもいいかと無理やり自分に言い聞かせた。


旅も最終日にさしかかり、部屋でのんびりお酒を飲んでいた。義雄もお酒が入り昔話や未来話を肴にお酒が進んだ。

慶彦がトイレと席を立ち部屋を出ると、キコちゃんが涙目で外に飛び出すのが見えた。こんな時間にどうしたんだろうと気になり行方を気にした。どうやら、公園のベンチで座っているようだ。肩が揺れていてもしかしたら泣いているのかもしれない。大変だと思うのと同時に慶彦の足は公園の中に踏み出していた。


約十年ぶりの会話だった。しかも、それがキコちゃんの失恋の話だったので不思議な気持ちだった。キコちゃんはなんと僕と義雄を勘違いしていた。話を一通り聞くと、自分がよっちゃんだと打ち明けようかと思った。

でも、なんとなくそれはやめた。今となってキコちゃんのよっちゃんへの気持ちが分かってしまったからだ。そんな状態で打ち明けるのは何か誠実さに欠ける気がした。もし、もう一度チャンスがあるのなら。縁というものがあるというなら。今の僕でキコちゃんと向き合いたい。触れ合いたい。そう思ってしまった。だから、終始話を聞き打ち明けなかった。昔の恋は心に閉まっておいて今の慶彦を見て欲しい。ウソをついているような気もするが、それはちょっと違う。ウソというよりか誤差みたいなものだ。これから二人で過ごす時間を考えれば大差ない。出来るだけキコちゃんに誠実にいよう。そう心に決めて今、彼女の話を聞いている。

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