第3話 貴子の初恋の片付け

貴子は今年で十八歳になった。実家の旅館を手伝い始めて十年以上となりしっかりとこの旅館の戦力として働いていた。母親からはよく「タカコ!」と叱られることがあるのだが、それも徐々に減ってきており旅館で働くということが貴子にとってはすごく楽しい時間でもあった。

ある朝母親が貴子にニコニコしながら話しかけてきた。

「よっちゃんって覚えてる?今度泊まりに来るのよ。」

その名前を聞いて胸が大きく鼓動した。忘れるわけが無い。貴子にとっての初恋の相手であるし今も変わらずに想い続けていたのだ。それこそ出会ったのはこの旅館を手伝い始めた頃。僅か数週間という短い滞在にも関わらず、とても濃い時間を過ごした。よっちゃんの人柄や振る舞いには全て温かみがあり、貴子はそれに触れているだけで幸せな気分であった。お別れの際、すごく寂しくて不貞腐れてしまったがまた会うという約束をしたのを忘れていない。その後、終戦という大きな出来事で社会が混乱した。おそらく軍を相手の仕事をしていた家族であったので大きな変化があったに違いない。混乱のさなかよっちゃんと会える可能性が少なくなったと子どもながらに感じたが、一生懸命していればまた会えるとよっちゃんと約束した。彼のことだから必ず約束を果たしてくれる。そう信じていたのだ。そして、それが現実になりつつある。

「どうして?連絡あったの?」

「そうなのよ。よっちゃんから連絡あって友達と旭川に来る用事があるみたい。だから、泊まらせてくれないかと。来週いらっしゃるよ。楽しみだね。」

貴子はとても嬉しくなり、涙が出そうになった。そして、自分でもフワフワしているのに気がついた。


その日貴子は街へ買い出しに行っていた。その間によっちゃんたちは旅館にやって来て記帳を済ませたらしい。買い出しから帰ってきた母親からそう聞いた。友達と来る予定だったが、急遽の予定が入ってしまい、友達は何日かズレて来るらしい。一人で宿に来て今は旭川の街を観光しているそうだ。その話を聞き沸く沸くして帳面を覗いた。そこには「田中義雄」と書いてあった。

「田中義雄」って言うんだ。よく良く考えればよっちゃんの氏名を知らなかった。よっちゃんとしか認識してなかったので名前を見て初めて大人の異性として意識した。だから「よっちゃん」なのかと納得してよっちゃんの顔を思い出そうした。しかし、貴子がよっちゃんの事を想えば想うほどよっちゃんの顔が出てこないのだ。わずかな期間とはいえあんなに、楽しく過ごしたのに。本当は好きなんじゃないかと不安になった。

そしてその夜、よっちゃんと会うことが出来た。


貴子が配膳をもって廊下を歩いていると、若い男性に声をかけられた。貴子には不意打ちだった。

「あ、キコさん?会いたかったですよ。」

貴子はまさかよっちゃんとも思っていなかったのでビックリして恥ずかしくなってしまった。

「よっちゃん…?」

貴子が小さな声で聞き返すもすぐに

「すごく綺麗な方ですね。宿も綺麗だし旭川の街も楽しいし、すごく素敵な旅になりそうです。」

そういうと彼は会釈をして歩いていってしまった。僅かだったが何年かぶりに会えて、お話出来たことに貴子はすごく胸がドキドキした。嬉しいのだが、よっちゃんが少し他人行儀な気がして寂しくなったが、お互いに大人になり子どもの頃と同じ様には接せられない関係にもなってしまったのかなと思った。しかし、よっちゃんの顔をしっかり見て今度は覚えようとしたのが功を奏したのか、ハッキリとよっちゃんの顔を認識した。漠然とイメージしていたのとは違いすごくシャープな印象になりとてもハンサムな少年であった。貴子はまだ陽だまりの中でハンモックに揺られているようにフワフワした心地でいた。


次の日もその次の日もゆっくりお話でも出来るのかと思いきや、よっちゃんは街に観光に行ってしまった。友人が遅れて宿に合流し、二人で観光しているようだ。友人が合流した初日にその友人から話しかけられたが、よっちゃんに失礼のないように丁寧に対応した。友人は一瞬引き攣った顔をしたが、ハッとした表情になりまたよっちゃんと観光を楽しんでいるようだ。


なかなかよっちゃんと話が出来ないまま最終日が来てしまった。もっと話をしたい、目を見たいと強く願ってもよっちゃんはあまりこちらに気をかけてくれない。モヤモヤが最大量積もった。そんな中、母親が貴子に話しかけてきた。もしかしたら貴子の気持ちを知っていて話さなければいけないと思ったのかもしれない。

「よっちゃん、今は医学生なんだって。今は休暇で旭川にきているんだけど、札幌の学校に戻るそうよ。そして、婚約者がいるんだって。」


何が起こったの。衝撃的すぎて理解出来なかった。全身から力が抜けるのがわかった。十年も想い続けていた人には、将来を約束した人がいただなんてあんまりだと思った。そして、子どもの頃とはいえただ会いに来たという中途半端な約束を果たした彼に怒りを感じた。確かに、子どもの頃から勉強が好きであったからお医者さんになっても全く不思議ではない。また、他人行儀な装いも、婚約者がいるのなら合点がいった。全てが空虚に思え、何もかも棄ててここから去りたいとも思った。涙が勝手に溢れてくる。母親にバレたくなかったからこっそり旅館を出て、向かいの公園のイスに座った。貴子の気持ちとは裏腹に星空は純粋な程輝いている。涙を流しながら夜空を眺めていると急に声をかけられた。


「こんばんは。もしよろしければ隣に座ってもいいですか?」


びっくりして振り返るとよっちゃんの友人がそこにはいた。慌てて両手で頬の涙を拭い、どうぞと応えた。

彼は失礼しますと隣に座るなり言葉を続けた。

「偶然、あなたを見掛けて、表情に曇りがあった気がしたので心配してしまいました。」


貴子は見られていた事に驚き恥ずかしくなった。

「すみません、お見苦しい姿をお見せしてしまって。」

「いえいえ、勝手に私が心配して勝手に尋ねただけです。もし、あなたが負担でなければお話を聞きますよ。話すとスッキリするかもしれないし。」

よっちゃんの友人は驚く程、安心の混ざっている声で貴子に話しかけた。そして、それに呼応するように貴子もつらつらと今までの事を全て話してしまった。

全てを聞いた彼はうーん、それは辛い話ですね。まさかあいつとはそんな縁があるなんて知らなかったです。初恋の相手が素敵な人になっていたけど、婚約者がいた訳ですね。と自分の事のように苦い顔をしている。

「すみません、こんな暗い話をしてしまって。初めてお会いした人に話す内容ではないですよね。」

貴子が彼に謝ると、いやいやと彼はすぐに否定した。そしてこう続けた。

「僕は運良く今年から旭川の学校に入学出来ることになりました。もし迷惑でなければこの旅館に時々泊まりに来てもいいですか?」

貴子は不思議な気持ちに包まれた。彼の声には安心感があると思っていたが、同時に懐かしい感じもした。

気が付くと頬に流れていた涙はとっくになくなっていて、そして二人の頭上の夜空には未来を照らすようにほうき星が流れていた。

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