3

 私はしばらく、仕事が手につかなかった。この経験を何らかの形で世に問おうと思った。インターネットを通じて多摩川ゆうえんちの噂は膾炙し、一種の都市伝説ともいうべきものを形成しているようだった。匿名なら問題もないし、それだけ広く知られていれば全くのウソ扱いということもあるまい。しかし私は躊躇した。学者としての自制心もあったし、なによりあまりに個人的すぎる。

 そうしているうちに病気ばやりも過ぎ、途絶えていた海外との学術交流の機会も復活した。シンポジウムも盛んに開かれるようになったし、上下巻で千ページを越す、大著の翻訳の話も舞い込んだ。著者とのやり取り、出版社との会議、下訳の監修・・・・・・日々の大学の業務に加え諸々の仕事に忙殺される中で、私はいつしか、あの奇妙な経験を忘れつつあった。パンフレットに掲載された、あの強烈な夕日に照らされる「三丁目商店街」のパステル絵のごとく、奇妙で幸福な思い出としてしまっておいた方が良い。私は徐々に心変わりをしつつあった。

 甘美なうたた寝を破ったのは、またしても娘からの電話だった。初めての育児にてんてこ舞いという報告と一緒に、彼女は盆の帰省もできなかったことを詫びた。早いものでもう、あれから半年が経っていた。

 あの多摩川ゆうえんちは再リニューアルという名目で閉まる、ということを娘は付け加えた。何か問題が起こったらしく、昭和レトロゾーンを取り壊すと。私がその問題の詳細について訊ねると、彼女は巧みにそれをかわした。SNSに疎い私は、ゼミの後に教室で談笑していた女子学生たちにそのことに関して訊ねてみた。個人的な、研究のためと偽って。

 東京出身の学生が、決まりの悪そうな表情で何やら検索すると、私にスマートフォンの画面を見せてくれた。その内容を見て、私は女性に訊くものではなかったと後悔した。丁重に礼を述べると、私はすぐに庶務課に電話を入れ、やむを得ぬ事情から明日の授業は休講にしてもらうよう依頼した。急いで新幹線に乗れば、日帰りで行ってこられるだろう。


「街」は様変わりしていた。

 精巧な作り物だったはずの民家のトタン屋根も雨樋もところどころ欠けて錆び付き、何十年も放っておかれたように朽ち果てていた。アーケードは破れ、写真館の蔦は伸びっぱなし、レコード店の表に飾られていたジャケットの数々は日に焼け、ほとんど読み取れなくなっていた。商店街を中ほどまで歩くと、胸の悪くなるようなひどい臭いが鼻をついた。いつの間にか魚屋の前に来ていた。模造品だったはずの切り身には蠅がたかり、私の気配を感じたのか一斉に飛び立った。その白くなっていると見えた部分はすべて蛆虫で、もぞもぞと動くのに合わせて切り身も上下していた。

 私は思わず顔を背けた。とその時、店の陰から一匹の犬が飛び出した。首輪をしていない。野良犬だろうか。私を認めると、全身の毛を逆立てて唸り始めた。顔の筋肉は奇妙に痙攣し、二つの目は異常に広く見開かれている。こういう野良犬は子どもの頃に見たことがある・・・・・・狂犬病だ。私は後ずさった。しばらくにらみ合いが続いた後、犬は幸いにも尻尾を巻いて反対方向に走り去った。

 あれだけ賑わっていたというのに、客の姿は見えなかった。いくら平日とはいえ、閉館を惜しむリピーターが少しくらいいてもいいものだ。風が吹き付ける度に砂塵が舞い、どの建物もギシギシと不気味な音を立てた。昭和というよりは西部劇のゴーストタウンだ。取り壊しが決定し、放置されているというだけではここまで荒れ果てることの説明が付かない。まるで街全体が生きるのをやめ、定められた死に向かって着実に歩み続けているかのようだと、私は思った。


 たばこ屋はまだぽつんと、そこにあった。

 荒れ果てた商店街の惨憺たる有り様に較べると、古びてはいるもののこざっぱりとして、散らばっていた吸い殻も掃き清められていた。そうか、ここだけはきっと「本物」だからだ。

 叔母は相変わらず、婦人雑誌を読みながら店番をしていた。何十年もそうしていたように。

「叔母さん・・・・・・!」

「なんや、トシ坊。久しぶりやな。どげんしたと、血相ば変えて」

「どげんもこげんも、ここ、リニューアルするっちゅう、知っとうと?」

「り、にゅうある?・・・・・・何と、そりゃ」

「全部取り壊して、建て直すってこと」

「難しか横文字使わんでよかとに。とっくに知っとるばい。まあそげん立っとらんで、上がりんしゃい」


 私はすべてを説明した。

 ここを訪れた女性客のグループが愚連隊の集団に誘い出され、暴行されそうになった。当然従業員に抗議したが、相手にされないどころか二次加害に等しい暴言を吐かれた。怒った彼女たちはSNSにハッシュタグ付きで事のあらましを投稿、同じく被害を受けた女性たちからも声が上がり、一大ムーブメントへと発展した。警察が動き、多摩川ゆうえんちに対する行政指導が入った。しかし評判は悪くなる一方だったので、アトラクションエリアは営業を続けたまま、遊園地は三丁目商店街を(リニューアルという名目で)取り壊すことを決定した。

 私の得た情報を要約するとこういうことになるが、叔母に対してこれを説明するのはこの何倍もの時間を要した。当然のことながらまず「インターネット」の説明から始めねばならない。

「・・・・・・うちにはよくわからんばってん、大事になっとったんねえ。まあこれでもあがりんしゃい。よか食べ頃になってきたけんねえ」

 そう言って、叔母は剥きたての柿を差し出した。水気をたっぷり含み、よく熟している。そうか、もうこんな季節か。仕事に打ち込むあまり、私はすっかり感覚を失っていた。

 しかし、素直に手を付けるのは躊躇した。こうして脈絡もなく食べ物を差し出すのは「この話は終わり」という叔母のサインだ。美味しいものを一緒に口にすれば、多少の悩みは吹き飛ぶ。私もそうしていると、学校で先生にポカリとやられたことなど忘れてしまったものだ。戦争で夫を亡くし女ひとりで生き延びてきた、それは叔母の処世術でもあったろう。しかし、今回ばかりはそういうわけにはいかなかった。

「それで叔母さん、どう思うんだい」

「どうって、何が」

「今話したことだよ」

「愚連隊んやったことやけん、しょんなかやなかと」

 仕方がない、と。私は思わず叔母の顔を凝視した。叔母は自分のぶんの柿を口に運びながら、構わず話を続けた。

「あんた、あん娘たちん恰好ば見たことがあると? あげんズロースんごたあもん着て、無警戒にも程があるばい。自業自得ちゅうもんや」

「叔母さん、今はそれは・・・・・・」

「だいたい、うちもあん愚連隊も言うてみれば幽霊やろ。幽霊にちょっと尻ば触られたくらいで、なんば騒ぐことがあると。犬に噛まれたようなもんやけん諦めんしゃいって、うちゃ言うてやったんや。あんまり騒ぐと嫁入りに差し支えるってね。そげえしたらあん娘たち、カーッとなって行ってしもうた。あれはヒステリーやなあ、間違いなか。これ、早う食べんしゃい。干からびてしまうやんか」

 私は文字通り、頭を抱えていた。被害者に向けられたという「二次加害に等しい暴言」の内容が今では、手に取るように理解できた。窓の外からは先ほど見かけたものだろう、野犬の遠吠えが聞こえてくる。

「叔母さん・・・・・・今はそれじゃダメなんだよ。さっきも言ったじゃないか。彼らのやったことは犯罪だし、人権侵害だ。叔母さんの言ったこともね」

「なんや、急に娘たちん肩持って。あんた、東京行ってウーマンリブん闘士にでもなったと」

「そうじゃなくて、もっと基本的な。コンプライアンスと言ってね・・・・・・」

「こんぷら? 何やそれ、天ぷらか何かん仲間か?」

 叔母は明らかに話を逸らしたがっている。私に道を指し示してくれた人が、これくらいのことを理解できないはずがない。私は苛立っていた。

「コンプライアンス・・・・・・コンプライアンスだよ! 企業や学校は社会に対して、責任を果たさなければいけないんだ、今はそういうのがすごくうるさいんだよ。大学で授業をしてたって、ハラスメントをどうこう言われるし・・・・・・叔母さんなんて、典型的なセクハラだよ。それじゃあ、今の時代・・・・・・」

 私ははっと口をつぐんだ。大学主催の啓発セミナーをおうむ返ししていたことでも、昂奮して東京弁で喋ったことでもない。いま、ここにしかいられない叔母に向かって、そんな口を利ける自分が信じられなかったのだ。私はうつむいてしまった。叔母は黙って、急須の口からゆらぐ湯気に目を向けていた。沈黙が、六畳間を支配した。

「おばしゃん、ごめん、こげんことば言うために、戻ってきたわけじゃなかったんや」

 彼女は黙って立ち上がり、サッシ窓を開けた。

 すっかり涼しくなっていた。薄気味悪い野犬の吠え声はいつの間にか消え、かすかに鈴虫の鳴く声がする。川の静かに流れる音も聞こえてきた。多摩川はすぐ目の前である。

「今年もよか彼岸やったねえ・・・・・・ごらん、秋桜が咲いとう」

 叔母はまた、ピースを吸っているのだろう。風に乗って良い香りが流れてきた。私は彼女を見られなかった。

「なあ、トシ坊、トシ坊の言いよることは、きっと正しかとね。うちは横文字も分からんし、学もなかばってん、そっちん方が良か世ん中なんなわかる。ただ、こげえして話ば聞いとおと何かなし窮屈そうで、うちには肌が合わんっちゃ・・・・・・

 うちらはうちらん地所に帰るけん、トシ坊なトシ坊の時代ば生きんしゃい。それで、あん娘たちや、ここしゃ来る人たちに言うてほしかと。そげん昔にこだわるもんやなかって。あんたくらい偉か学者しゃんなら、みんな言うことば聞くやろう・・・・・・」

 そう、私はすっかり忘れていたのだ。これがきっと、最後になるだろうということを。定期的に訪れて、昔のようにぞんざいな口を利き、そして今は亡き両親の分まで、彼女に孝行するつもりだった。目の隅で石油ストーブの炎がぼやけた。私には彼女のやさしさが何より、嬉しかった。

「なんやあんた、そげに肩震わせて、女に叱られたくらいで泣く九州男児があるか。こげえよか年して、しわくちゃんじじいになって・・・・・・」

 彼女は畳に膝をつき、うつむく私の目をのぞき込むようにして言った。

「なあ、トシ坊んことばこれからどげんして叱ったらよかか、最後に教えてほしかっちゃん・・・・・・今んごたるもダメなんやろう? 考えてみりゃ九州男児なんて、女に威張り散らすしか能がなかけんねえ」

「そげんこと・・・・・・今まで通りでよか」

 ぼーん、と壁時計が時を告げた。閉園の時間だ。

「おばしゃん、また来るばい、ぼく、明日も休み取るけん」

「そげんことせんでよか。立派に勤め上げて、早う後添い貰いんしゃい。よか夢見せてもろうたわ、東京まで連れてきてもろうて」

 私はふっと気付いて、笑った。

「おばしゃん、実はここ、東京やなかばい、神奈川なんや」

「・・・・・・ほんとうか」

「ほら、あれ」

 私は思わず叔母の手を取り、窓に駆け寄った。

「あん流れとーと、ここん名前になっとる多摩川や、東京はあん向こう岸ばい。おばしゃん、明日はここ出て、本物ん東京ば見せちゃるばい・・・・・・」

 いつの間にか、握った手の感触が消えていた。

「おばしゃん?」

 私は振り返った。

 石油ストーブの灯はとうに消えていた。ちゃぶ台に置かれた柿は干からび、六畳間はつい今しがたまで人がいたとは思えないほど、がらんと静まり返っていた。


 私は九州へ帰るべきか迷った。二日連続の休講はさすがに、カリキュラムに差し支える。取り壊しまでまだ一週間は開いているのだから、週末に来てもいいだろう。叔母の好きだったあんず餅でも買っていって、水入らずで今度はゆっくり過ごそう。私はそう思い、新幹線に乗った。

 だがそれは叶わなかった。私の帰った日の夜更け、若い男が多摩川ゆうえんちに侵入し、三丁目商店街に火を放った。木造建築が立ち並び、火除地も最小限しか設けていなかった商店街はたちまち炎上し、必死の消火活動もむなしく全焼した。精神鑑定を待たなければ判らないが、犯人は「SNSのハッシュタグを見て憤りを覚えて行った」と供述しているという――。

 私は行きつけの床屋で、付けっぱなしになっていたテレビの報道を見ていた。SNSに端を発する非常に令和的な犯罪だと、コメンテーターが言っている。やがて画面は切り替わった。たまたま近くをドライブしていた人が撮影していたものということで、夜空を紅く染める炎と舞い散る火の粉、消防車のサイレンに加えて悲鳴とも嬌声ともつかぬ撮影者の若者の声が入り交じっていた。私はそれを見てふと、かつて叔母が一度だけ話してくれた福岡大空襲の様子を連想した。

 私はその夜、夢を見た。あの小さなたばこ屋は四方を火に取り囲まれているのに、叔母はいつも通り窓口で婦人雑誌を読んでいた。それだけではない。魚屋も、大衆食堂も、写真館も、燃えさかる炎のるつぼとなっているのに、中の人びとは髪の毛一本焦げるわけではなく立ち働いていた。まるでこんなことはもう、経験済みだとでも言うように。もう、よかとよ、という声が耳の中で響いた。不明瞭だったが、それは間違いなく叔母のものだった。

 私はようやく合点が行った。そうか、これでいいのだろう。この人たちは皆、本当は戦争で死んでいたのだ。傷痍軍人たちは太平洋や中国のどこかで、そば屋や写真館の年かさの主人たちは徴用に取られた工場で空襲に遭い、愚連隊や学生たちは幼少期の栄養失調で、そして叔母は――叔母は、たしかに戦後を生き抜いた。再婚話も断り、独りでたばこ屋を切り盛りして。だが今思えば、夫の位牌を抱えて焼夷弾の雨の中を逃げ回ったあの昭和二十年六月に、本当は死んでいたのだ。むせ返るような夏の夜、祗園山笠の歓声を遠くに聞きながら、サッシ窓を開けてピースを燻らすその横顔に、底知れぬ虚無を覚えて怖くなったことが一度ならずある。彼女にとって戦後とは、長い余生に過ぎなかった。

 ただし、過去が望まない形で戻ってきたという、叔母の推測は外れだろう。彼らはみな、ふと懐かしくなって戻ってきただけなのだ。叔母もおそらくそうだったように。現代の人間に何ら危害も、教訓も与えるつもりもなく、ましてや恨みなども持っていなかったろう。戦争で死ななければ自分たちはこうだったろうという、思い思いの恰好で出てきたに違いない。時代がちぐはぐだったのもそのせいだ。

 そしてあの、私を胡散臭げに眺めていたフォーク青年。今となって分かるが、あれはきっと私の兄だったのだ。母の遺品の中にあった家族アルバムの、生まれたての姿を映したカラー写真の面影が残っていた。父が仕事で知り合ったGIが撮ったものだったらしい、写真の裏側には"Shot in Occupied Japan"と英語ではっきり書かれていた。そう、私の生まれる四年前、戦争はまだ終わっていなかった――。

 やがて火事はすべてを燃やし尽くし、木と紙でできた建物は片端から倒壊していった。そしてその炎の中から、燃え尽きる寸前の線香花火のような白い人魂が一つ、また一つと空に昇っていった。月のよく映える、澄んだ秋の夜だった。人魂たちは集合してひとつの塊になると、その大きさを競うように月と並んでいたが、やがてどこかへ飛び去っていった。

 目覚めたとき、私は年甲斐もなく泣いていた。叔母との別れが初めて、現実のものとして胸に迫ってきた。


 数週間後、私は焼け跡に立っていた。

 周囲には警備員の姿もなく、現場には河川敷を辿って特に苦労することなく入ることができた。鉄柱や木材はあらかた片付けられ、黒焦げの地表のみが火事の激しさを示していた。ブルーシートに半分覆われて、レンガ造りの写真館が残っている。

 私の足は、自然とたばこ屋だった場所に向かっていた。三丁目商店街と違ってここはそのまま、焼け焦げた大黒柱や骨組み、ひしゃげた瓶やガラスケースが残っていた。そうだ、「彼ら」にここは見えないのだ。なにか叔母を思い出す品がないか、私は無意識に跡地を探し回っていた。残った柱の一つには「当地区避難所 ○○國民學校」と書かれた破れかけの張り紙、そしてコーンパイプを咥え、厚木基地に降り立ったマッカーサーの写真が留めてあった。

「そこはもう、何もないよ」

 不意に背後で声がした。振り返るとあの、ここに初めて来たときに見た労務者が立っていた。ランニングシャツ一枚ではなく、所々破けた国民服の上っ張りを羽織り、首にはマフラーを巻いている。リヤカーの中にはヤカンや食器、刺し箸など、焼け跡からかき集めたであろうものが山をなしていた。

「ここら辺のはおいらが全部、貰っちまったんだ。あんまり大したもんもないけどなあ」

 私は無駄だと知りつつ、ここに住んでいた女性の行方を尋ねた。労務者は首を振った。

「みんなどこかに行っちまったよ。あんな空襲の後じゃあなあ・・・・・・おいら、そこのバタ屋部落に住んでるんだ。どうだい、これも何かの縁だから、一杯やりに来ないか。バクダン焼酎しかないけどな」

 そういって彼は川の向こうの、私の目には新興住宅地しか映らない方角を指差した。ここから先にお前は来るべきではないという、それは無言のメッセージのように思えた。私は首を振って辞去した。

「あんたも命だけは、大切にしなきゃあいかんぜ。せっかく生き延びたんだからな。ここからまた全部、始めなきゃいけないんだ・・・・・・」

 そう誰にともなく呟くと、労務者はリヤカーを曳いて去って行った。

 びゅう、と北風が吹き、思わずコートの前をかき合わせた。もう冬はすぐそこだ。私もそろそろ、自分の場所に帰らねばなるまい。「懐かしいが新しい」「懐かしいが新しい」・・・・・・駐車場までの道のりで私は繰り返し、遊園地の謳い文句を呟いた。この光景がいつの日かまた「新しい」ものにならないことを願いながら。

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