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「もしもし」
「やあ、お父さんだけど」
「あら、久しぶり。どうしたの?」
「いや、なんとなく様子が気になってね・・・・・・その後、順調かい」
「うん、つわりもないし・・・・・・予定日には生まれてくれるみたい」
「そうか、よかったな・・・・・・ああ、裕之君に教えてもらってね、無事済ませたよ。携帯料金の」
「よかった。大丈夫だった?」
「心細かったけど、なんとかね。しかしひどいもんだなあ。ぼくはインターネットなんてほとんど使わないのに、説明もなしに勧めてきて」
「お父さんなら今だってガラケーで十分だよね・・・・・・そういえばお父さん、この前多摩川ゆうえんちの話してたよね」
「ああ、行ってきたかい。つまんなかったろう」
「ううん、私じゃないんだけど、達夫くんが家族で。なんか、ひどいらしいよ」
「ひどい?」
「うん、全員じゃないんだけど、働いてる人に不良みたいな格好の人がいて、セクハラやパワハラして最悪だって。その人たちがちり紙や吸い殻をそのまま捨てるからゴミだらけで。達夫くんの奥さんも子ども役の人にスカートめくられたって」
「へえ、まるで昭和じゃないか」
「冗談やめてよ! それにその・・・・・・なんか怖い人がいるみたいなんだよ。言いにくいけど、手足がなかったり。ネットでも話題になってるみたい」
「手足がない??」
ふたたび東京に行く機会は案外早く訪れた。娘夫婦に子どもが生まれたのだ。私は初孫の顔を見るべく、飛行機に乗った。
ベッドに横になった娘も孫もどうやら元気そうだった。本来なら双方の親族を交えて病室で歓談、というところだが、病気ばやりの昨今ではうかつに密集することも許されない。いきおい廊下で時候の挨拶は済ませ、あとはまた落ち着いたら、ということになった。
親族の中には従甥にあたる達夫夫妻の姿も見える。父親である従兄弟の義之は博多にいた頃、私の近所に住むガキ大将だった。まだ子どものない達夫は、新生児室のガラス越しに赤ん坊を舐めるように眺めていた。親父そっくりだな、と私は思った。ああやって私の新しい玩具をしげしげと眺め始めたら、それは力づくで取り上げられる合図のようなものだった。しかし今はそんなことはどうでもよく、私は彼らからぜひ「手足のない人」の詳細を聞き出したかった。どんな恰好で、何をしていたのか。野次馬根性でもあり、一研究者としての職業的好奇心でもあった。しかし何分めでたい場であったし、本人達たちとしてもあまり気持ちのいい思い出ではないだろう。私はその場を辞去すると、新宿から小田急線に乗った。自分の目で確かめたかったからだ。私の観測が正しければ、その「手足のない人」というのは――。
傍目には、何も変わらなかった。
私は「三丁目商店街」を歩いていた。この前ほどの賑わいは見せていなかったが平日でもあるし、なにより2月というのはどこも閑散期だろう。吸い殻やちり紙は確かに散らばっていたが、アーケード中がゴミだらけということはなかった。おそらくこの病気ばやりで人員を削減せざるを得なくなり、掃除も行き届かないというだけの話ではないのか。木造建築の羽目板が黒ずみ、写真館のレンガには蔦が這い始めているのもそういう事情だろう。ネットの情報というのはどうにも針小棒大にすぎる。そこかしこで展開されていたコントめいた寸劇は、そば屋の出前と御用聞きによる殴り合いへと演目が変更されたらしい。芝居にしてはやけに気合いの入った喧嘩で、家族連れ客がスマホを向けるでもなく、巻き込まれないよう小走りで傍を通り過ぎていた。詰め襟の学生たちは制帽を取ってねじりハチマキ姿で「岸を倒せ」と大書されたプラカードを持ち、悲壮な顔つきでデモの真似事をしている。さすがに今回は彼らに記念撮影をせがむ客の姿はなかった。
中心部を離れ、駐車場を横切って反対側にある映画館の方に来てみた。細い坂道がぐるりと螺旋状に建物を取り囲んでいて、辿っていくことで劇場に着くという按配だ。この間は遊園地の広告と並んで、壁に映画のポスターが所狭しと貼ってあった。もちろん権利関係からかすべて模造品で、「石山裕次郎」だとか「浅川ルリ子」だとかの名前が並んでいる代物だったが。しかし今回はいささか風雪に晒され破れかけたそれらに混じって、おそらく実際のものではないかというのがいくつか並んでいた。『女体の渇き』『肉体の市場』・・・・・・子どもから大人まで楽しめるはずの遊園地にはあまり似つかわしくない扇情的な題名も、悩ましげに肢体をくねらせる女優も、私には馴染みのないものだった。そうだ、これはロマンポルノが出てくるより前の時代の、ピンク映画というやつではなかったか?
思案に耽っていた私の鼻に強烈な「匂い」がついた。総合病院でだけ嗅ぐようなナフタリンの、そして何十年と着古した衣類に染みこんだ、遠い昔の血の匂い・・・・・・。
はっ、と私は振り返った。坂道を一歩一歩上ってくる彼らの姿は、おぼろげな私の記憶の中のそれより遥かに亡霊めいていた。破れかけた戦闘服、顔の半分を覆う包帯、松葉杖をつき、一本しか残されていない脚にゲートルを巻きつけ、手に手にハーモニカやアコーディオンを携えた彼らは、私に一瞥をくれることもなくゆっくりと歩き去っていった。
気がつくと私はまた、あのたばこ屋の前に立っていた。ここに来れば私の疑問のいくつかも氷解するはずだという、当てもない淡い期待を抱いて。
私は小銭入れから100円玉を取り出した。500円玉でもゆうえんち「圓」でもなく、ここでならこれで充分だろうという気がなぜかした。窓口でそれを差し出してから、私は銘柄を伝えるのを忘れたことに気付いた。両側のガラスケースには少ないながらゴールデンバット、朝日、ショートピースといったところが整然と並んでいるのだ。
「あの・・・・・・」
私が言いかけると、スッとハイライトとおつりの二十円玉が差し出された。
「立派になったとね、トシ坊」
私は息を呑んだ。そこにあったのは45年前に亡くなったはずの、叔母の人懐こい笑顔であった。
「ほんなこつばかね。こげん歳して従兄弟と殴り合いするあほうがどこにおると」
「いて、いてて。堪忍してくれんか、おばしゃん」
「こげん大きな傷つけてしもうて・・・・・・あんた、来年高校やろ。もっと身ば入れて勉強せな」
「だけど、義ちゃんが僕んフォークギターば取るけん・・・・・・」
「あんたはあげんぼんくらとは違うんよ。大学行って、偉か学者さんになりんしゃい、なあ・・・・・・こげなとこにおるとは機会ん損失ちゅうもんばい」
「キカイのソンシツ? おばしゃん、インテリな言葉使うんやなあ。僕ん代わりに大学行ったらどげんな」
「生意気言うて・・・・・・なあ、うちはあんたに一つ、頼みがあるんよ」
「なんや?」
「うち、一回東京ば見てみたか・・・・・・本当は新婚旅行で行くとが夢やったばってん、そげん時世じゃなかったけんね」
「なんや、そげんことか。今は日本人がハワイやグァムに行く時代じゃけえ、僕が大学入ったら東京なんていつでん、連れてってあげるわ」
「約束してくるーか、ほんなこつ」
「ばってん、東京ば案内したら、高うつくやろうしなあ。何かと物入りになるけん」
「何や、あんた。それば口実にして小遣い引き出そうちゅう気なんか。これやけん最近の子は・・・・・・じゃあこれ、前貸しにしとくわ」
「三箱も・・・・・・! おばしゃん、僕まだ中学生やで」
「こげなと、義之んぼんくらは12ん頃から吸うとうよ。ばってんトシ坊、一日一本やで。こりゃ身体に毒ばい。うちも最近、気管支が悪かとね」
「おばしゃんは根詰めて働きすぎや・・・・・・こりゃもろうとくけん、早うよか人でも見つけて楽ばすることや。そうでもしぇな、僕が大学入る前にポックリいってしまうかもしれんけえな」
「このあほう!」
石油ストーブの上に置かれたやかんの口からはまだ、湯気が沸き立っていた。それは天井まで届かぬうちに揺らいで消え、煙草の副流煙に取って代わった。煙の向こうには小さな仏壇があり、南方で戦死したという叔母の夫、私の父の兄の遺影が見える。
彼女は愛おしげに,卓袱台の上に置かれた私の右手を見つめていた。すっかり色つやも失せ、しわだらけになった手の甲。しかしそこには、あの日義之と喧嘩したときの傷が今でもうっすら見て取れる。
くすぐったいような、気恥ずかしいような気分になった私は、居間の片隅に置かれた真空管テレビに目をそらした。モノクロの小さな画面の中では、ウクレレを抱えて漫談を披露する男が会場を沸かせている。私がもの寂しい気分に襲われたのは、その芸人が数年前、川に飛び込んで自ら命を絶ったことを思い出したせいだけではなかったろう。
「結局、間に合わんやったなあ・・・・・・僕が大学行って、一年も持たんやったやなかか」
目をそらしたまま私は呟いた。狭い六畳間に響くその声は、自分のものではないかのようだった。
「だけんおばさん、根詰めて働くんばやめれて言うたとに」
「よかとよトシ坊、もう」
そう言うと叔母は腰を上げ、ところどころヒビの入ったサッシ窓の前に立った。二月の凍てつく風がびゅう、とガラスを鳴らし、叔母は肩にかけたショールをかき合わせた。
「だって、こげえして連れてきてくれたやなかと、東京に」
叔母は遠くを見つめたまま、呟いた。そうだ、いつも大事な話のあるとき、この人はこうして背を向けていたな。誰かを叱っていても先に自分から泣き出してしまうような、情の厚い人だった。変わらんねえ、おばしゃん。ストーブの暖かみも手伝い私の心はいつしか、ここで多くの時間を過ごした少年時代へと戻りつつあった。
「東京なんていつでん、連れてってあげるわ」
先ほど叔母は、私が願うことで自分はここに来られた、と言った。しかし、どうしてもそれだけでは腑に落ちないことがある。探求心がむくむくと頭をもたげてきた。私は自分に言い聞かせるように、意を決して咳払いをした。
「ねえおばさん、分からないことがあるんだよ」
私は立ち上がり,叔母の傍に立った。軽いしびれが足に残る。
「分からないことがあるんだ。僕がこうして願うことでおばさんとまた会えたなら、あの人たちはどうしてここにいるのかな。誰も望んでいないと思うんだ」
私はサッシ窓に指を当て、彼女の視線の先を示した。細身のマンボズボンにサスペンダー、アロハシャツにジャケットを肩にかけ、髪をポマードで固めた集団が煙草を吸いながらたむろしていた。かつての日活映画に出てくるような、不良というよりは愚連隊とでも命名した方がよさそうな連中が。
「そりゃ、みんなが望みすぎたけんね」
叔母はピースをふかしながら言った。
「望みすぎた?」
「そう、みんな都合んよかことばっか持ち込みたがってこげなところば作ったけん、神様ん罰かぶったんや。ほら、あん人たちだってそうばい」
叔母はあごで商店街の方角を指した。先ほど見た傷痍軍人の一団が歩いていた。
「ここら辺であげなん見かくるとは縁日だけと相場が決まっとったもんや、あげんわざとらしゅう跛なんて引いて・・・・・・」
「おばさん、それは・・・・・・」
違う。たしかに私も子どもの頃はよく聞かされていたものだ。ああいう手合いは《えせ》で、本物は軍人恩給が出るのだからあんな真似をする必要はない、騙されるなと。だが敗戦後、政府の施策により外国人扱いされ、分断された故国にも帰れず、障碍で働き口もないためやむを得ずああして日銭を得ていた在日コリアンの人びとがいたことを、私は最近になって知った。だからそれは偏見だ。しかし私はどうしても、自らの口からそれを言いかねた。ひどく傲慢のような気がしてならなかった。昨日今日得た知識だけで、どうしてそんなことが言えるのか・・・・・・。
「トシ坊、『猿の手』っちゅう小説、憶えてる?」
「もちろん、忘れるわけないよ」
「あげんこつよ、きっと」
「猿の手」。ある夫妻が、インドの行者が作ったという猿の手のミイラを貰い受ける。そのミイラは何でも三つの願いごとを叶えてくれるのだという。夫婦はためしに「お金が欲しい」と願ってみた。すると翌日、ひとり息子が工場の機械に巻き込まれ、事故死したという連絡が入る。保険金は全額振り込まれるという。半狂乱になった夫婦は猿の手に向かい、息子を返してくれるよう頼み込む。するとその夜、無残な肉塊となった息子が血を滴らせながら、ドアを叩く――。
それは叔母がかつて貸してくれた「幻想と怪奇」という雑誌に載っていた、イギリスの短編小説だ。叔母はなかなかの読書家だった。私が今こうして民俗学に携わっているのも、彼女の影響に違いない。しかしそれが本当だとすると、私がここで見たものはすべて、人びとの勝手な懐旧の情への報復として出てきた亡霊ということか。私は背筋の冷たくなる思いに襲われた。ある意味では自分もまた、彼らを生み出している――。
「ほら、もう時間ばい。またおいで、トシ坊」
私ははっと壁時計を見た。針は17時45分を指している。いつの間にか、入場口の方角から「蛍の光」が流れていた。少し急がねば、帰りの飛行機に間に合うまい。私は慌ただしく上着と鞄を抱えた。
「僕、またすぐ来るけん、おばさん、元気でな」
「あんまり無理せんでよか。家族ば大事にしんしゃい」
「僕、いま独りもんや」
「そうと。じゃあいろいろ大変やろう。うちがもう少し若けりゃあ、トシ坊のお嫁しゃんにでも行ったとになあ」
叔母はそう言うと、目尻を皺だらけにして笑った。思わず心中を見透かされたような気がして、私はドキリとした。考えてみれば私は幼い頃から、この血の繋がらない叔母にどこか親愛の念を越えた思慕のような感情を抱いていたのだ。いつの間にか私は、彼女の死んだ歳をとっくに越していた。
私は早足で、駐車場へと歩いた。まだ叔母には訊きたかったことがあった。卓袱台に置かれた雑誌『装苑』は昭和四十七年二月号、私が高校生だった頃のものだった。テレビでやっていたのも確か大正テレビ寄席といったか、とにかくその手の演芸番組で、何にせよ同じ時代のものには違いなかった。だがあの愚連隊の恰好は、私が小学校に上がるくらいのものではなかったか? 昭和30年代の商店街で「東京ブギウギ」を流す遊園地なのだから、幽霊たちとしても多少のずれは関係ないということか。
考え込んでいた私は、前から歩いてきた男に気付かなかった。いや、正確に言えば鼻の方は先に気付いていたのだ。「匂い」のせいだ。はす向かい、2mくらいの場所にその若者は立っていた。デニムのジャケットにパンタロン、ケースに入れず肩にそのまま担いだフォークギター、服装とは不似合いな花柄のサンダル……その肌つやは悪く髪はフケでところどころ白くなり、全身から強烈な体臭を放っていた。少なくとも二週間はまともに風呂に入っていないだろうし、そもそも生まれてこのかたまともな石けんもシャンプーも使ったことがあるのかどうか。
私は固まった。まさしく私から買いたてのフォークギターを取り上げた、その年ごろの義之の面影があったからだ。しかし彼は詰め寄るでもなく、私を胡散臭げに頭から足先までジロジロと眺め、吸っていた煙草をぺっと地面に叩きつけた。
「まだ何も、始まっちゃいねえのさ」
そう吐き捨てるとその男は歩き去った。義之ではなかった。しかしどうしても私には、赤の他人とは思えない。「始まっていない」とはどういうことか?
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